スリープ・トーク(2)

 ――起きてる?

 画面に浮かび上がった短いメッセージに心が踊る。尚人はすぐさまロックを外して、メッセンジャーアプリを開く。

 起きてるよ、と文字を打ち込んだところで指を止める。これではまるで、ずっとスマートフォンを握りしめて未生からの連絡を待ち望んでいたみたいではないか。きっとこういう反応は「重い」。それどころか三十路男としては「イタい」とすら思われかねない。

 しかし、すでに既読がついてしまっている以上、尚人が未生のメッセージを確認したことはバレバレだ。ここからもったいぶって返信を遅らせるのはかえって不自然だろう。次からはもう少し落ち着いて、もう少し大人らしく。そう自分に言い聞かせてから送信ボタンをタップした。

 ――だったら、ちょっと通話できる?

 未生からの返信はリアルタイム。スマホを握りしめて返信を待っているのは尚人だけではないことがわかり、少し緊張が和らいだ。何より、今日はもう連絡はないものだとあきらめていたのに、未生の声を聞くことができるのは嬉しい。

 OK、とスタンプを送るとすぐにビデオ通話を要求する着信音が鳴り出した。部屋が真っ暗であることを思い出した尚人はベッドサイドの明かりをつけてから通話を開始する。

「もしもし。ボランティア、お疲れさま」

 ビジネスホテル特有の暖色系の明かりに照らされた未生の表情には疲れが滲んでいた。

「いやマジで、疲れた……」

 警戒心も、格好をつけている様子も皆無の未生の声。それどころか実際以上に疲労を強調して甘えるような声色は、尚人の耳を甘くくすぐった。

 でも、待てよ。ビデオ通話なんかしている場合なのか?

 未生が今週末出かけているのは、重度の精神障害や依存症患者も入所している施設だと聞いている。必修の研修ではなく、単位取得の補助にはなるものの文字通り参加は「任意ボランティア」。施設近くに宿をとり、一泊二日で入所者の介助や健康管理を手伝うことになっている。

 夜勤はないものの、入所者の特性ゆえ一般的な病床や介護施設と比べると付加は高い現場だけに希望する学生は少なめだが、宿舎はビジネスホテルのツインルームで他の参加者と同室だと言っていた気がする。

 大学ではクールなキャラクターで通っている未生が甘えた声で弱音を吐いているのも奇妙に思われそうだが、ビデオ通話だと下手をすれば同室者に会話の相手が男だとばれてしまう危険がある。

「未生くん、二人部屋だって言ってなかった?」

 未生の耳にヘッドフォンは見えない。自分の声も第三者に聞こえているのではないかと肝を冷やした尚人の声は小さくなる。未生は「ああ」と思い出したように言って、カメラをインからアウトに切り替えた。

 薄暗い部屋には、他に人の気配はない。未生が座っているベッドの隣にもうひとつシングルベッドがあるが、シーツは整ったままで荷物も置かれてはいないようだ。

「部屋シェアする予定だった奴が急遽キャンセルになって、結局一人部屋。親戚の葬式が入ったって言ってたけど」

「あ、そうなんだ」

「まあ、ただの口実かもしれないけど」

 昨年この施設のボランティアに参加した先輩から「とてつもなくキツい現場だった」という情報がもたらされたのが数日前。数名の学生が「急な不幸や体調不良」を理由に当日待ち合わせ場所に現れなかったことと関係があるのかどうかはわからない。

「謝礼がでるわけでもないボラだし、学生のドタキャンはよくあることなんだって、施設の人も特に気にしてはなかったよ」

 俺だって、電車の中でもずっと引き返すか迷ってたもん。冗談交じりに続ける未生だが、本当はそんなつもり毛頭なかったのだと尚人は知っている。ひどいアルコール依存と精神疾患に苦しんだ母親への思いから未生は看護師を目指した。将来の選択肢のひとつとしてそれらに関連する病棟や施設を考えていたとしても不思議はない。

 でも、今あえてそこに突っ込む必要はない。尚人は「ふうん」と流して話を進めた。

 施設があるのは、郊外の駅からさらにバスで数十分もかかる場所。近辺に宿泊施設はないため、未生たちは駅まで戻って一軒しかない古びたビジネスホテルに投宿しているのだという。

「一人の方が気楽だけど、すっげえボロいからちょっとさ」

 未生はカメラをゆっくりと動かす。

 照明が薄暗いせいもあり、部屋には奇妙な風情がある。うっすら壁紙が変色している場所があるのは、水漏れか何かの跡だろうか。ホラー映画の舞台になってもおかしくないような雰囲気は確かに不気味だが、傍若無人な未生が怯えるのも意外だ。

「意外だな、未生くんがそういうの怖がるなんて」

 尚人が笑うと、未生はカメラをインに切り替えてから憮然とした表情で否定した。

「怖がってるわけじゃねえよ。ただなんか、嫌な感じだなって。風呂場もジメジメしてて汚かったしさ」

 慣れない施設のボランティアで気力も体力も使い、へとへとになった未生はホテルでゆっくり風呂に入るのを楽しみにしていた。しかしシャワーカーテンの隅がカビで黒ずんでいるのを発見し、げんなりして湯船を使うことをあきらめたのだという。

「なんか、がっくりしちゃってさ。俺、こういうときに酒で気晴らしとかもできないし――」

 そこで、一瞬の間。それから未生の表情にわずかな照れが混ざった。

「尚人の声が、聞きたいなって」

 てらいのない言葉に、変に見栄を張ってメッセンジャーの返信を遅らせようとしていたことが恥ずかしくなる。未生が率直に感情と向き合い表現できるようになったことは「成熟」だと感じる。なのに自分が気持ちを露わにするこは、何だかんだと理由をつけて敬遠してしまう。そんなのただの臆病にすぎないのに。

「未生くんのいない休日は、長かったよ」

 未生の正直な言葉に誘われたように、尚人の口からも自然に本音が出た。

「買い物に行ったり、映画を観たり、本を読んだり。いろいろなことをしたけど時間が全然過ぎなかった。連絡がないから、忙しくてそれどころじゃないんだなって思って、さっさと寝ちゃおうとベッドに入ったんだけど、かえって目が冴えちゃって」

 スマートフォンの小さな画面の中の未生が、破顔する。

「俺も先週は、むちゃくちゃ時間が長く感じた」

 たまには土日にバイトで稼ぐのも悪くない。そんなことを言っていたのも結局は強がりだったのだ。未生もまた、尚人と会えない週末を寂しがってくれているのだと嬉しくなる。

「来週は、会えるね」

「そうだな」

 あと一週間。会いたければ会いたいほど、狂おしく長い時間に感じるのだろう。

 電話越しでもわかる甘ったるい空気。なのに、これ以上近づくことも触れることもできない。吐く息の温度を感じることすら叶わないのがもどかしい。顔を見て話ができるだけでも喜ぶべきなのに、心が通じれば果てしなく欲は増す。

 切ない気持ちで画面の中の未生に触れ、尚人は気持ちを切り替えようと軽く頭を振った。

「さて、未生くんは明日も早いんだよね。もう寝た方がいいよ」

 このままだと名残惜しくていつまでも通話を終えることができない。終わりを切り出すのは大人である自分の役割だ。

「そうだな」と一度は同意して、時計にちらりと目をやってから未生は困ったように笑う。

「でもなんか、目が冴えてきた。いつも土曜は夜更かしするから」

 ――という単語が意味するものは、つまり。考えすぎだったら恥ずかしいからうまく返事ができずにいると、未生はもどかしそうに眉根を寄せてつぶやいた。

「三週間も、会えないし触れないんだよな」

 その言葉に、尚人も改めて、それだけの長い間未生の体温を味わうことができないのだと思う。

 こみ上げるのは寂しさ――だけでない。できるだけ目を背けているのに、未生の顔を見て声を聞いていると、うずくような欲望が頭をもたげる。

「僕だって寂しいよ。でも、あと一週間の我慢だから」

 いくら欲しがったって、二人の間には距離がある。生活がある。

 遠距離恋愛というには近すぎるけど、毎日会えるわけでもない「中距離恋愛」。普段は満足しているはずなのに、今日みたいな夜はひどく寂しくなってしまう。でも、会えない時間があるからこそ、共に過ごせる時間は貴重で、いつまでも新鮮な気持ちでいられるのかもしれない。少なくともそんな風に考えなければやっていけない。

 さて、いい加減に終わりにしないときりがない。ここは心を鬼にして改めて尚人から「おやすみ」を――と思ったところで、未生が低いため息を吐いた。

「あー、尚人の声聞いてたら、むらむらしてきた」