Summer Dressing(1.トーマス)

 ある六月の月曜日、トーマス・カニンガムはいつも通り始業時間に余裕を持って在英日本国大使館に出勤した。

 始業前に紅茶を一杯。それが仕事に就いて以来の彼の習慣だし、おそらくこの世の多くの英国人にとっての習慣であるはずだ。もちろん出勤前にも朝食――日によって異なるが、シリアルか薄焼きトーストにママレードを塗ったものが多い。恋人のアリスが非番の日には、ちょっとした卵料理を作ってくれることもある――のときにたっぷりとミルクティーは飲んでいる。だが「それはそれ、これはこれ」、紅茶なしには仕事ははじまらない。

 完全なる英国人であれば、始業後に悠々とお茶を淹れるのかもしれないが、日本人と長く仕事をするうちに影響を受けたのか、トーマスは何事も早めに行動する習慣がついている。味はそれなりだが家計に優しいPGのティーバッグとたっぷりの湯をマグカップに入れ、小皿を乗せた状態で自席に戻る。

 日本人の影響、とはいえ多くの日本人と関わるうちに、トーマスは「日本人は時間に正確punctual」というステレオタイプには実のところ、かなりの個人差があることにも気づいている。

 身近なところでいえば、会議だろうがただの待ち合わせだろうが必ず余裕を持って現れるのが、トーマスのデスクからよく見える場所に座っている谷口栄一等書記官。

 トーマスよりは年上であるものの、若く、見た目や振る舞いは現代的に洗練されている直属の上司は、その外見からは意外なことに、これまで会った日本人の中でもトップクラスに「コンサバティブでクラシカルな日本人」だ。

 堅苦しいまでに真面目で、必ず時間を守り、いつも礼儀正しい。英語に自信がないのかネイティブとの会話ではやや発言が減り、その気まずさを覆い隠すためか常に口元に笑みを欠かさないのも、古式ゆかしき日本人のイメージを体現している。

「谷口さん、おはようございます」

「ああ、おはようトーマス」

 マグカップを手にトーマスが話しかけると、栄は顔を上げた。きっといつものように始業三十分前にはオフィスに現れ、ニュースや新聞のチェックをしていたのだろう。

「いつものことですが、月曜は気だるいですね。しかもこの天気。まあ、週末晴れたのは何よりでしたが」

 ただでさえ憂鬱な月曜の朝。しかも窓の外は、今にも雨が降り出しそうにどんよりしている。とはいえそんなことを本気で気にしているわけではなく、天気の話は誰にとっても一番無難な会話の糸口だ。

「せっかく一番気候のいい時期なんだから、晴れてほしいよ。どうせ数ヶ月もすれば、またあのどんよりとした冬になるんだから」

「まったく、その通りですね」

 栄の言葉に、トーマスも首を縦に振る。

 この時期の英国は比較的気候も良く、何より日照時間が長い。長く暗い冬を過ごす英国人にとって春から夏にかけてはもっとも楽しい季節で、人々は長い昼とさんさんと降り注ぐ日差しを満喫する。

 夏といえば日光浴。外食ではテラス席を取り合う文化の中で育ったトーマスは、留学先の日本で真夏にもかかわらず女の子たちが長袖を羽織り、できるだけ直射日光の当たらない席で食事をとり、外ではパラソルを使うことに仰天した。この国では夏になると多種多様なデオドラント剤がドラッグストアの棚を埋め尽くすが、一方で日本では驚くほど多くの日焼け止めが売られている。

 ロンドンではまず見かけることのない「半袖のドレスシャツ(日本ではワイシャツと呼ぶことはのちに知った)」を着ている男性が多くいるのもトーマスにとっては奇妙な光景だった。

「私は日本に留学したとき、夏の過ごし方があまりに違っていて驚きましたよ。もう2年目だからさすがに慣れたでしょうけど、谷口さんも去年はびっくりすることが多かったんじゃないですか?」

 日本の夏を懐かしく思い出しながらトーマスが言うと、栄は「そうだな」と首を傾げる。

「冷房のない店が多いのには驚いた。っていうか、地下鉄すら冷房がないなんて日本では考えられないよ」

「皆さんよく言いますね。でも、もともとロンドンの夏は冷房なんていらなかったんですよ」

 近年のヨーロッパには頻繁に熱波が到来するが、そもそも特に北ヨーロッパの夏はそんなに暑くなかったのだ。冬の暖房に特化しているから建物も鉄道もあまり夏のことは考えていない。さすがにロンドン地下鉄も冷房導入を考えていると聞くが、実現までには何年もかかるだろう。

 猛暑の地下鉄を思い出したのか、栄はうんざりしたように手にしたファイルで顔をあおいだ。

「やってられないな。夏の間だけでも自転車通勤を考えた方がいいのかもしれない」

「え? 自転車がどうしたの?」

 そこに口を挟むのは、ちょうど出勤してきた久保村だ。

 彼は同じ日本人でも栄とはまったくタイプが違う。外出ついでに美味しいおやつを買うために「ちょっとだけ」遠回りをすることに罪悪感を持たないし、出勤は毎日業務開始時間のぴったり一分前と決まっている。

「谷口さんそれ以上痩せる必要なんかないでしょう」

 自転車通勤と聞いて減量目的だと勘違いしている様子の久保村に、栄が苦笑する。

「違いますよ。ダイエットじゃなくて、ロンドンの地下鉄は冷房がないから夏は乗りたくないって話をしていたんです。俺の家からここまで自転車でも十分くらいなんで、地下鉄で来るのと変わらないし、その方が快適かもって」

「あ、そういう話か」

 拍子抜けしたように、久保村はポケットから取り出したハンカチで額の汗を拭った。丸々した体型の彼にとっても夏の暑さは大敵であるに違いない。

「いや、最近体重が過去最高を記録しちゃって。さすがにやばいと思ったのか奥さんに『自転車通勤したら?』って言われちゃってさあ。確かにこっちは太ってる人が多いから、僕が乗れる自転車もたくさん売ってるだろうけど、朝から体動かしたら仕事にならないだろうし」

 と、そこでハッとしたように栄の表情が変わった。

「自転車といえば、俺、土曜日に恐ろしいものを見たんです……!」

 突然の話題転換。のんびりと朝の雑談に花を咲かせていたのが嘘のように眉間に皺を寄せて――その表情は恐怖というよりはむしろ「嫌悪」に近いように見えた。

「恐ろしいもの?」

 おどろおどろしい口ぶりに興味を惹かれ、トーマスと久保村が身を乗り出すと、栄は大きくうなずいた。

「カフェのテラスでブランチを食べていたら、突然大量の全裸の男女が自転車に乗って……」

 そこまで言ったところで真面目な栄は耐えきれないと言った様子で口をつぐむ。事情を把握したトーマスはため息をつき、久保村は爆笑した。

「ああ、あれ今年もあったんだ! 知らなかった。僕も去年見かけたけど、あれはびっくりしたなあ」

「驚いて当然です。あんなの、日本なら犯罪じゃありませんか」

 いかにも面白そうな久保村に、栄は珍しくネガティブな感情を露わに言い返した。

 彼らが話題にしているのは、World Naked Bike Ride Londonという週末に行われたイベントだ。クリーンエネルギーやボディ・ポジティブを訴えるために全裸で自転車に乗るというイベントで、毎年この時期に開催されている。

 栄の言いたいことはわからなくもない。トーマスだって、もしも異国の地で、爽やかな休日の朝に突如全裸の男女が目の前を自転車で疾走したならば――日傘や半袖シャツどころではなく仰天したに決まっている。

 いや、自国での出来事ではあってもは紛れもなく特殊なイベントだ。。

「谷口さん、久保村さん、念のため申し上げておきますが、あれはこの国でもちょっと変わった人が参加する奇妙なイベントです。私を含めてほとんどの英国人は人前で全裸になる趣味は持ち合わせていませんから」

 第一、あれがテレビやインターネットで「面白ニュース」として取り上げられるのはつまり、それが珍しくて特別な出来事だからなのだ。さらにいえば、確かあのイベントは英国ではなくスペインかどこかの発祥だ。英国人のせいにしないでいただきたい。

 真面目で潔癖な日本人上司に国民性を疑われるのが不本意で、トーマスは濡れ衣を晴らそうと躍起になった。