Summer Dressing(2.栄)

 土曜日のブランチは栄にとって悪夢のような体験だった。それはもう、思い出すだけで鳥肌が立つくらいに。

 とはいえ最初から最悪だったわけではない。むしろ一日のはじまりとしては最高といって良かった。少し前に開店した感じの良さそうな店でブランチをしようと、ジムのついでに羽多野と立ち寄ったのだ。

 ロンドン生活もほぼ一年が過ぎて、どのエリアのどの時間帯だと日本人の同僚との遭遇率が高いかもわかってきた。もし誰かに見られたとしても、単身で異国に暮らす栄が〈現地でコンサルをしている日本人の友人〉と親しくすることに違和感を持たれることは少ないだろう。少なくとも特定の女性と親しくすることよりは、ずっと怪しまれないに決まっている。

 というわけで、比較的リスクの少ないエリアで、家族連れは立ち寄らないタイプの店。さしたる警戒は必要でないという判断から、二人は明るい日差しの降り注ぐテラス席を選んだ。

 十分に体を動かした後で、しかも午前中。もっとも罪悪感から縁遠いシチュエーションでの食事に、栄はトーストとオムレツのプレートを選んだ。カリカリに焼かれたトーストと、バターの香りを立ち上らせる黄金色のオムレツ。隣には鮮やかなグリーンリーフのサラダに、グリルしたソーセージとマッシュルーム。実に食欲をそそる一皿だ。

 向かい合って座る羽多野の前には背徳的なワッフルのプレート。アメリカンスタイルと呼ぶのだろうか、スクランブルエッグとカリカリのベーコンにメープルシロップ。この手の甘いのかしょっぱいのかわからない食べ物の良さは栄にはよくわからないが、羽多野は「たまにむしょうに食べたくなる」のだという。

 ここ数日は仕事も落ち着いているし、目立った喧嘩もなかった。

「この後どうする? 特に持ち帰り仕事もないんだろ」

 羽多野の問いに、栄はうなずいた。

「ええ、今週は特には」

「そういえば谷口くん、夏物のシャツが欲しいって言ってなかったな」

「羽多野さんこそ、観たい映画があるって言ってませんでした?」

 機嫌の良さゆえ、互いに休日の過ごし方を譲り合う余裕まである。まさに理想の週末ではないか――と、マッシュルームをひとかけら口に入れた瞬間――栄の視界の隅を、妙なものが横切った気がした。

「……え?」

 高い交通費や渋滞を嫌って、もしくは欧州らしいエコ意識のせいなのか、この国では自転車移動を好む人間は多い。日本と比べるとサイクリングレーンの整備も進んでいるようで、自転車に乗りやすい環境でもある。つまり、テラス席で飲食しているときにサイクリストがすぐ近くを駆け抜けていくことなど珍しくもなんともない。

 が、たった今、目の端を掠めていったものは何かが決定的におかしかった。それが栄の勘違いでない証拠に、ナイフとフォークでワッフルを切り分けていた羽多野も完全に手を止めて、目を丸くして道路の側に視線を向けている。

「今、何か」

 と口にした瞬間、たくさんの自転車が押し寄せてきた。

 自転車レース。サイクリングイベント。そんなものは週末ごとにあちらこちらで開催されている。問題は、栄と羽多野のそばを通り抜けていく大量のサイクリストのほとんどが洋服を着ていないことだった。中にはビキニスタイルの女性がいないわけではないが、多くが若い男女で構成されるサイクリスト集団のほとんどが――。

「ぜ、全裸? なんで……?」

「全裸とはいえないんじゃないか。ほぼ全員ヘルメットは被っているし」

 さすが安全には配慮している、と感心するどころではない。全裸のくせにヘルメットだけ被っているなんて、むしろ変態度は高い。

 ちょうど真横を走り抜けていった同世代の男。サドルに跨った股間には日本人の標準より大きく白っぽいものが垂れ下がっている。もちろん彼だけではない。参加者には白人が目立つが、中にはアフリカ系、アジア系、中東っぽい顔立ちの人間もいる。そして揃いも揃って裸。尻も股間も丸出しだ。もちろん女性の場合は乳房だって。

 そこではっとした栄はあわてて人々の裸体から目をそらした。こんなもの凝視してはいけない。

 裸なのは自分ではなく彼らなのに、なぜだか全裸サイクリスト集団は楽しく開放感に浸っており、なぜ無理やり裸を見せつけられている栄が羞恥を感じなければいけないのだろう。もやもやと理不尽さがわきあがり、続いて、好奇心に満ちた眼差しで通り過ぎる集団を眺めている目の前の男への苛立ちがこみ上げた。

「ちょっと、何見てるんですか!」

 完全に食事の手を止めている羽多野を咎めるような声をかけるが、相手は飄々としたものだ。

「見るだろ。こんな奇妙なもの、なかなかお目にかかれないんだからさ」

「でも、他人の裸なんて」

「俺が脱がせたわけでも、盗み見してるわけでもない。あっちが勝手に裸で自転車に乗ってるんだから知ったことか」

 こんなことでドギマギしている栄が大袈裟であると言わんばかりの、余裕の態度が癪に触る。

 公衆の面前で他人の裸を見ることに気まずさを感じることはもとより、栄は羽多野の前で他の男の裸体を凝視することをマナー違反のように感じていた。なのに羽多野ときたら楽しそうに男や女の素肌を眺めて……これではまるで。

「じろじろ見て、いやらしい」

 思わず口を飛び出した言葉に、羽多野は呆れたように息を吐いた。

「だから、欧米人の一部に過激なアピールが好きな連中がいるってことくらい君もわかってるだろ。これもどうせ何かの社会的アピールだろ。やる側にも性的な意図なんかないし、こっちもそんなつもりじゃない」

 ヌーディスト・ビーチや混浴サウナだって「そういう目的の場所」でない以上は誰も勃起などしないし、性的な反応をすればつまみ出されるところが大多数だ。そう言ってから、最後に羽多野は言わなくとも良い言葉を付け加える。

「そういうこと気にする君の方が、よっぽどスケベなんじゃないか」

 平穏で友好的な週末は、その瞬間に完全に砕け散ったのだった。

 

 

「ともかく谷口さんの休日を台無しにしてしまったことは、英国人として謝ります」

 思い出すだけで怒りと不快感が込み上げる栄だが、目の前で申し訳なさそうな顔をするトーマスに罪はない。自分らしくもなく職場で感情的になったことが急に恥ずかしく思えてきた。

 何より、トーマス相手にこんな話をしたのは失策だったのではないか。

 トーマスは数少ない栄と羽多野共通の知り合いであるし、それどころか二人の関係に気づいている可能性すらある。栄が嫌がることを敢えて口にしない賢さはあるが、美人だが余計なことばかり言いそうな恋人と二人の時はどんな話をしているかわかったものではない。

 もしかしたらトーマスは言外に、全裸サイクリストの出現によって栄と羽多野の週末の朝が台無しにされたことを謝罪しているのではないか。疑心暗鬼にすらなってくる。

 栄はひとつ咳払いして、あわてて職場用の微笑みを浮かべた。

「いや、その、本当に不愉快だったわけではなく、すごくびっくりしたから誰かに話したくてさ」

 察しの良いトーマスがこんな言葉で誤魔化せるかはわからない。だが、少なくともおおらかな久保村はトーマスと栄のあいだに漂った微妙な空気には気づかなかったようだ。

「まあ、気候のいい時期はイベント多いからね。僕たち外国人からすれば奇妙に思えるものも多いけど――逆に僕らの風習だってこっちの人からすれば……」

 そこに突如「おはようございます」と知った声が響く。

 栄はせっかく浮かべた笑顔が引き攣るのを感じた。そこには地味で素朴で一見無害にしか見えないが、実は栄にとっては最凶レベルのトラブルメーカー、ジェレミーが立っていた。

 なぜ、ただでさえ憂鬱な月曜の朝イチから、よりによってこの男の顔をみなければいけないのだろう。