羽多野と、羽多野の職場のインターンシップ女を交えてのドタバタ劇がひと段落ついてから、栄はジェレミーと距離をおくべく努力をした。彼と出会い距離を詰めるきっかけとなったジムは退会したし、直接的に他人に拒絶を突きつけるなど、何より外面を気にする栄の性に合わないにもかかわらず「もう二人きりでは会わない」と直接告げた。
もちろん羽多野に対する後ろめたさも理由のひとつではあるが、栄としても、応じることのできない相手に好意を持たれることは負担だったのだ。そしてジェレミーは「残念ですけど、仕方ありませんね」と素直に栄の言うことを受け入れた。受け入れてくれたはずだった――。
その後、彼が思った以上に図太い曲者であることを思い知るまでには、さして時間はかからなかった。
「ど、どうしたんだジェレミー。こんな月曜の朝から」
栄はどんな顔をして、どんな声で応じるべきか迷った。
本音を言えば、迷惑だ。迷惑を超えて大迷惑だ。
日本コンテンツを扱い文化交流事業にも参画する企業に勤務するジェレミーがときたま大使館に出入りするのは仕方ない。だからこそ完全に関係を断つのではなく「二人きりでは」という留保をつけた。
思えばそれが甘かった。ジェレミーはまるで栄の譲歩を逆手にとるかのように、大使館に来るたび用事もないのに顔を出していく。
振られた相手。しかもそのパートナーにも睨まれている状態なのに、よくこんな振る舞いができるものだと呆れるほどだ。……まあ、「振られた」といっても、今となってはジェレミーが栄に対してどのくらい真剣な感情を持っていたかも怪しいものだ。羽多野のことを「いい男」と評してみたり、果てには「三人でも」なんて、草食動物のような見た目や物腰とは裏腹に見境がない。
その後のジェレミーの態度に色恋を匂わせるものが見当たらないのは幸いだが、なんせ会うのは職場。同僚の前で妙なことを口走られてはたまらない。彼がここに現れるたび、久保村やトーマスに悟られない程度に迷惑だというオーラを出しているつもりではいるのだが、当の本人にはまったく響かないから栄としては頭が痛かった。
鈍感なのか、それとも鈍感を装っているのか、今日もジェレミーは感じの良い笑顔を浮かべて、栄にとってはびた一文も興味のない来館の目的を説明する。
「広報の方と打ち合わせがあって。ほら、夏場は日本関係のイベントがたくさんあるでしょう。私の会社もいろいろとお手伝いすることになっているんです」
「……ああ、そうなんだ。それは大変だね」
多くのイベントが開催されるロンドンの夏、国際的な産業や文化の催しも例外ではない。日本関係のイベントも、政府主導のものから民間主導のもの、規模の大小さまざまに、数多くが予定されている。後援名義を貸すだけのものから主催に近い役割を果たすものまで、大使館が関与するものだけでもけっこうな数であるものの、一等書記官である栄や久保村は準備運営の末端については承知していない。
「わざわざ挨拶に寄ってくれてありがとう。打ち合わせは何時から?」
気遣いに感謝する風を装いつつ、わざとらしく時計を気にするのは、さっさと立ち去って欲しいから。しかしジェレミーは華麗なスルー能力を見せる。
「ミーティングなら、十時半からです」
「え? ずいぶん早くないか?」
思わず声にあからさまな「迷惑」の感情が混ざった。しまった、と思った瞬間、トーマスが流暢な日本語で割り込む。
「谷口さん、確かこれから日本とオンライン会議がありましたよね」
「オンライン会議?」
そんなものあっただろうか……とスケジュールを確認しようとしたところで、トーマスの視線が何かを訴えようとしていることに気づいた。そうだ、会議の予定などない。つまりこれは栄がジェレミーの来訪に迷惑していることを察したトーマスが差し伸べた救いの手なのだ。
「あ、ああ、そうだった。あと十分、いや五分で会議だからごめんジェレミー」
迷惑な来客を体良く追い払おうとしたところで、ジェレミーは手にしたビジネスバッグから数枚の紙を取り出すと、栄だけでなく久保村やトーマスにも手渡した。
「すみません、今日はお手を取らせるつもりはなかったんです。こちらへ名前をいただければ、それで私の用は終わりです」
長居するつもりがないというのは幸いだが「こちらへの参加」とは一体? 怪訝な気持ちで紙を手にする栄とは対照的に楽しげな声を上げたのは久保村だ。
「ああ、もうこんな季節か」
「何ですか? これ。久保村さんは知っているんですか」
紙に「今年も有志による和太鼓チームを結成します」と書いてあることに気づいた瞬間、背筋が寒くなる。
「例年、日本関係の取引をしているこちらの企業と、在ロンドンの日系企業と、行政機関からメンバーを集めて和太鼓チームを作って、レセプションで披露しているんです」
ジェレミーの言葉に、栄は嫌な予感が的中しつつあることを知る。
「えっと、俺こういうのは……」
メールなど余裕を持って返事できる手段と違って、栄はこの手の瞬発力には優れていない。先手を打って断りたい気持ちだけが先走り、上手い理由が出てこない。さらに、こちらの気持ちなど露も知らない久保村が余計なことを口にする。
「そうそう、着任一年目の若手が参加するのが慣例なんだ」
七月に行われる日本文化イベントの前夜祭として開催されるレセプションパーティの余興として和太鼓を演奏する。そういえば前任者からそんな話を聞いた気もしたが、すっかり忘れていた。栄の着任は昨年八月だったから、今年が一年目ということになる。
「でも、若手って言っても俺は決して……」
苦し紛れに「ほら、もう三十路ですし」などと呟いてみるが、大使館という環境の中では三十代に入ったばかりの栄など、十分「若手」であることは疑いない事実だった。
「僕も、谷口さんの前任もやったんだから、これはまあ登竜門みたいなものだよね」
久保村は実に温厚で良い人間だが、根っからの行政マンだ。その彼がこのような言い方をするということは――つまり、和太鼓チーム参加はノルマであり、大使館員としての業務なのだ。
同じ日本文化でもたとえば剣道の演舞とか、何かしら自信を持ってできるものならまだマシだ。なのに、何の因果で即席の素人和太鼓など……茶番にも程があるではないか。
ジェレミーに手渡されたチラシにはイメージ写真として過去の和太鼓演奏の様子の写真が載っている。全員が揃いの白い半被に膝上丈のショートパンツで太鼓のバチを握る姿は日本文化の伝道師ではなくどう見ても安っぽいコスプレだ。
この人たちも決して本心から望んでいたわけではないだろうから、申し訳ないが、はっきり言って滑稽。この中に自分が入っている場面を想像すると頭がくらくらしてきた。
「トーマス……」
栄はすがるように信頼している秘書の顔を見た。
彼は賢いし、いいことかどうかは別として他の人間よりは栄の本性を知っている。さっきもジェレミーを早く追い払いたいという栄の気持ちを察して助け舟を出してくれたトーマスならば、何か名案を持っているかもしれない。
だが、申し訳なさそうに軽く目を伏せてから、トーマスは「せめて」といった調子で口を開いた。
「……谷口さんだけじゃ気が進まないんでしたら、私も参加します」
こうして、外堀は固められた。
「では、私は他にも館内を回って参加者のリクルーティングをしなければいけませんから」
栄を仲間に呼び込めたことが嬉しいのか、もしくはただ業務上の人集め任務が順調に進んでいることに安堵しているのか。いずれにせよジェレミーはご満悦で、栄とトーマスが名前や連絡先を記入したエントリーシートをバッグに仕舞い込む。
「あ、衣装のサイズは後でメールでお尋ねしますね。栄さんの半被姿、素敵でしょうね」
後半の発言はやや危うかったが、少なくとも純粋な久保村はそこに込められているかもしれない感情には気づいていない。トーマスは――、良識のある彼は、気づいていても決して顔に出さないだろう。だからこそ栄はいたたまれない。