Summer Dressing(8.羽多野)

「とはいえ……」

 腕時計にちらりと目をやって、羽多野はつぶやく。

 金曜日、時刻は午後五時を回ったところ。気の早い同僚たちは昼食を終えた時点で週末モードに入っており、だらだらと午後を過ごして勤務時間終了すると同時に次々とオフィスを去っていく。

 もちろん羽多野とて例外ではない。すでにPCの電源は落としてあり、あとは明かりを消して部屋の鍵を閉めるだけだ。問題は、今日の夕食は一人で済ませることになっていること。まずは馴染みのパブで一杯ひっかけるか、それとも禁欲的にジムで汗を流すか決めかねて腰を上げられずにいる。

 ――とはいえ、だ。

 今朝の栄は普段どおりの顔で、普段どおりに身支度を整えて出ていった。あえて言えば、「仕事でちょっとしたレセプションに出ないといけないんで、夕食は済ませてきます」と告げるときに羽多野の目を見なかったのが栄らしい。

 週末に開催される日系カルチャーのイベント。その前夜祭のレセプションパーティに顔を出すのは、大使館の経済担当アタッシェとしては珍しくもない要務だ。いつもだったら羽多野も「ああそう」で済ませ、レセプションの中身には興味も持たない。

 だが、今日のレセプションは少しだけ事情が違う。なぜなら余興として披露される和太鼓演奏に栄も参加する予定だからだ。

 情報源であるトーマスからは、栄に余計な虫がつかないよう目を光らせることと、後で写真を送ることと引き換えに、決してレセプション会場に来ようなどとは考えるなと釘を刺された。

 羽多野だって人並みの常識くらい持ち合わせているから、ここは約束を守るべきだとわかっている。仕事関係の場所に顔を出されたら栄がどれほど怒り狂うかはたやすく想像できる。平穏な生活のためには、ここはぐっと堪えておとなしく一人の夕刻を楽しむに越したことはない。そんなこと百も承知なのだ

 しかし――和太鼓チームは基本的に赴任一年目の人間に参加義務が科されるのだとトーマスは言っていた。だからこそ栄も、業務命令に準ずるものと見なして嫌々参加しているのだ。

 つまり、今日この機会を逃せば「半被を着て和太鼓を演奏する谷口栄」を生で見る機会は永遠に失われる。二度とない、と思うと途端に惜しくなるのは人として自然な感情だ。

 挫折も多く、欲しいものを何度もあきらめてきた人生だ。遠慮していたらチャンスなどどんどんすり抜けていく。羽多野は、欲しいものに手が届きそうなときは躊躇すべきではないと知っている。

 スマートフォンの画面に目を落とす。週末ロンドンのイベント情報。大使館や商工会が協賛している日本関係のイベントはひとつしかない。自宅からもそう遠くない場所のコンベンションセンターが会場で、レセプションもそこで行われるはずだ。

「まあ、近くに行ってみるくらいは……」

 自分に言い訳をしながら羽多野は職場を出る。ここからは一時間弱。その間に気が変われば家に帰ればいい。

 

 

 もちろん羽多野の気が変わることはなく、気づけば目的地の前に立っていた。駅を出ると空模様がやや怪しい。北緯51度かつ完走したロンドンなので、日が陰るとこの季節でも過ごしやすい。夜になると肌寒さすら感じるかもしれない。

 会場である施設の入口は封鎖されており、イベント準備のため現在入場できないことを知らせる札が立っている。だがよく見ると脇の方に「レセプション招待者はこちら」という張り紙があった。

 招待者……当然ながら羽多野は招かれざる客である。散発するテロの影響もあってロンドンではイベントの入場チェックはそこそこ厳しい。きっと入り口ではインビテーションをチェックされることだろう。

 トーマスに連絡を取ろうかと頭をよぎるが、すぐに断念する。あの生真面目な好青年がそんなリスクを取るとは思えない。きっと「それだけは勘弁してください」と悲壮な顔で断ってくる。それに、トーマスの裏切りを知ったときの栄を思い浮かべれば、いくら利己的な羽多野だってそこまでやる気にはなれない。

 つまり、下調べ不足だった。ここはあきらめて帰るしかない。

 そう思ったとき、背後から声をかけられた。

「あれ。もしかして、あなた……」

 日本語での呼びかけに一瞬驚くが、ここは日本関係のイベント会場だ。よく考えれば日本語で話しかけられたところで不思議はない。

 だが、振り返った羽多野は二度驚く――今度は悪い意味で。

「なんでおまえがここにいるんだ」

 立っているのは、忘れもしないあの男。地味で素朴な草食動物のふりをして栄に近づき、隙あらば食い散らかそうとしていたジェレミーに他ならなかった。

 失礼この上ない羽多野の第一声に、眉ひとつ動かさずジェレミーは応戦する。

「それはこちらのセリフですが」

 言われてみればそのとおりだった。「なんで」も何も、ジェレミーは仕事でこのイベントの運営に関わっていて、だからこそ幹事として和太鼓チームに栄を勧誘した。ジェレミーがここにいることは当然で、羽多野がここにいることこそ場違いなのだ。

「もしかして、栄さんに誘われたんですか? 招待者の受付はあのドアを入った先ですよ」

 以前、神野小巻に案内されたみせで偶然出会ったときのような毒気は感じさせない。栄に向けるような愛想の良さはないものの、ジェレミーは淡々と事務的に羽多野に向けて入り口をさし示した。

 しかし招かれざる客である羽多野は、ジェレミーの示す方向に進むわけにもいかない。

 栄は羽多野を誘っていない。それどころかこのイベントの詳細すら話していない。羽多野はそれをジェレミーに言いたくなかった。

「いや……近くを通ったからちょっと外から様子を見ようと思っただけだ。中に入る必要はない」

 これも余計なことはせずに帰れという天のお告げに違いない。気まずさを隠して羽多野がそそくさと立ち去ろうとすると、ジェレミーが維持の悪い笑みを浮かべた。

「ああ、誘われていないんですね」

「誰がそんなこと言った!」

 図星を突かれた羽多野は思わず言い返す。しかし手元にインビテーションがない以上、何を言ったところで虚しいだけ。そんな空気を察したのかジェレミーはさらに正面から言葉のナイフを突き立ててくる。

「栄さん、あなたを呼びたくなかっただ。まあそうか、彼は秘密主義だから、仕事関係の場所にパートナーを呼んだりしませんよね。特にあなたみたいに、興奮すると何を言い出すかわからないタイプは」

「なんだと?」

 あの日むきになって攻撃的な態度をとった羽多野を揶揄しているのだろうが、断じて羽多野は理性の効かないタイプではない。あのときは、他に聞かれてまずい相手がいないことを認識した上で、あえてジェレミーを牽制しただけだ。

「確かに招かれていないけど、理由はおまえがいるからだ。俺が二度と顔も見たくないと思っていることを、谷口くんは知っているからな」

 羽多野の反論に、ジェレミーは納得しているのかいないのか、ふうんとうなずいてから思いもよらないことを言う。

「そんなに嫌われているとは残念です。私はあなたみたいなタイプもけっこう好みなんですけど」

「は? 気持ち悪いことを言うな」

 こいつは紛れもない清楚ぶった顔をしたビッチだ。羽多野は呆れてため息をつく。かつての、その場限りで欲望を散らす相手を探していた羽多野だったら、もしかしたらこういうタイプに興味を惹かれることもあったかもしれない。でも今は違う。

 全身からうんざりしたオーラを出す羽多野に、人畜無害の笑顔を浮かべたままでジェレミーはさらに続けた。

「栄さんには、二人に飽きたら三人でも歓迎ですよって言ったんです。目を白黒させてましたよ、かわいいですね」

「おい!」

 冗談にしてもあまりに品がない。これ以上は言わせまいとジェレミーを睨みつけながら羽多野は思う。栄は本当に人を見る目がない……。