Summer Dressing(9.羽多野)

 不快感をあらわにする羽多野だが、ジェレミーは一向に気にする様子はない。「冗談ですよ」とつぶやいてポケットを探る。

「私は栄さんともあなたとも仲良くしたいと思っているんです。そうだ、騒がせたお詫びにこれを差し上げます」

 冗談、と言われてもとても信じる気にはなれない。もしも――絶対にありえない話ではあるのだが――隙を見せたならば、この男は満面の笑みを浮かべて羽多野と栄のベッドに乗り込んでくるに決まっている。

 なんであれこの男が差し出してくるのは、ろくなものではない。警戒を強めるが、ジェレミーはハガキサイズの紙片をひらひら見せびらかして言った。

「怖い顔しないでください、お詫びだって言ってるでしょう。レセプションの招待状ですよ。勤務先がこのイベントの企画に関わっているので、いくらだって持っているんです」

 嘘ではない証拠に、紙片にはこの施設の名前と今日の日付、時間が記載してあった。

「……」

 羽多野は迷った。そもそも羽多野がここまでやって来たのは、あわよくばレセプションに紛れ込んで、半被姿で和太鼓を叩く栄を見てやろうという下心からだった。招待状さえあれば目的は達成される。

 一方で、自分が招かれざる客であることも理解している。もし会場で栄に見つかったならば、今夜は修羅場……ことの次第によっては久しぶりに荷物をまとめて家を出ていくことを強要されるかもしれない。そもそもの情報源がトーマスだとばれようものなら、彼らの関係にもひびが入る。さらに言えば、招待状を受け取ることでジェレミーに借りを作ることへの悔しさもある。

 そんなことがぐるぐると頭を駆け巡っていたが――。

「栄さん、望んでの参加ではないんでしょうけど、熱心に練習してました。和太鼓、とてもお上手ですよ」

 自分が知らない栄の姿を勝ち誇るように語られて、羽多野は次の瞬間、ジェレミーの手から招待状をむしり取っていた。

 そうだ、貸し借りがどうした。プライドなんかより実利を取るのが羽多野の生き方ではないか。

「会場はあちらです。栄さんに見つからないようにしたければ、入り口近くに止まっていた方が安心かもしれませんね」

 Good luck、とどこまでも鼻につくジェレミーにさっさと背を向けて、羽多野は会場の建物に入って行った。

 

 

 受付で招待状を出すと、受付票に所属と氏名を書くよう求められた。さすがにこんなものが栄の目にふれるとは思わないが、少しでも来場を隠そうと普段以上に崩した字体でサインをする。

 中庭に面した小さなホールがレセプション会場になっているようだ。よくある立食形式で、テーブルには飲み物やフィンガーフード中心の料理が並ぶ。全面ガラスの扉は開け放たれて、芝生の美しい中庭に出られるようになっている。和太鼓の演奏も庭で行うのだろう。

 スパークリングワインのグラスを手にしたところで、日本人らしき中年男に声が声をかけてくる。

「こんにちは、日本企業の方ですか? 最近はアジアの他国とのコンテンツ競争も激しくなっているし、欧米への売り込みも楽じゃありませんよね」

 名刺には羽多野でも知っている日系のエンターテインメント企業の名前。羽多野も名刺を出して、挨拶に応じる。

「初めまして。私はこちらのシンクタンクに勤務しているんですけど、さいき日英の経済文化交流について勉強中で……」

 シンクタンクに勤務しているというのは嘘ではない。羽多野の専門は東アジアの政策や外交なので、直接この手のイベントから何かを学ぶつもりなどないのだが、物は言いよう。「アナリスト」や「リサーチャー」といった曖昧だけれど専門性があるように思われがちな肩書は実に便利だ。

 こういう場所では堂々とするのが一番であることを羽多野は知っていた。日本人など他に一人もいない異国の教室に放り込まれたとき、外交官や駐在員の「良いご家庭」の子に混じったとき、都会的なアクセントで話す白人学生に囲まれて授業を受けるとき。おどおどして周囲を伺うほどに存在が浮き上がり、悪目立ちするのだ。

 嘘にならない程度の言葉でぬるりと場所に溶け込みながら、羽多野はあちこちに視線を動かす。関係者が出入りするのは奥の扉。栄もきっとあの先にいるのだろう。ということは、ジェレミーの言うとおり入り口付近に陣取っておけば、いざと言うときはすぐに手洗いや外に逃げられる。

 周囲の人間と雑談をしていると、やたら姿勢の良い男が向かってきた。スーツを着ていてもわかる、鍛えられた体。すっきりした清潔感のある短髪。年恰好は栄と同じくらいだろうか。どこかで見たことがあるような気もする。

 顔が広そうな彼は知り合いを見つけては挨拶をして回っており、どうやら羽多野と話している人物と面識があるらしい。

 近づいてきた男とちらりと視線が合う。彼は何か引っ掛かりを覚えたかのように、一瞬動きを止めた。だが、彼にとっても羽多野は「見覚えがあるような気もするけど、確信がない」程度の相手だったようだ。曖昧な軽い会釈だけで、明確な知り合いに「ご無沙汰しています」と声をかけた。

 気にするほどのことではない。同じ日本人というだけでなんとなく会話を交わし、その場限りで忘れる。外国で暮らしているとよくあることだから、いちいち記憶に留めたりはしない。あの男ともそんな縁があったのかもしれないし、なかったのかもしれない。姿勢の良い男への興味を失いかけた、次の瞬間。

「あ、いたいた。長尾さん」

 耳に飛び込んできた声に、羽多野ははっとする。

 長尾――栄の口から何度も名前を聞いた要注意人物がこの男だと? 見覚えがあると思ったのも、以前休日に押しかけてきた長尾の声をドア越しに聞いたことがあったからか? 羽多野はすぐに、あからさますぎない程度に「長尾」に視線を滑らせ値踏みした。

 目を引くタイプの美男子というほどではないし、相良尚人やジェレミーのような素朴な雰囲気でもない。だが、いかにも軍隊で礼節を身につけた折り目正しい好青年です、というオーラを全身から発散する彼に好感を抱く人は多いはずだ。ただ、羽多野と勝負できるほどの押しの強さや狡猾さは感じられない。

 と、そこまで考えたところで、よう注意人物に気を取られた自分が注意散漫になっていたことに気づく。そういえば、長尾の名を読んだ声には聞き覚えがなかっただろうか。

 まずい、と思って身を隠すよりも、相手が羽多野の姿を捉える方が早かった。驚いたように小走りで駆けてくる――不幸中の幸いだったのは、それが栄ではなくトーマスだということだった。

「長尾さん、参事官が探していましたよ」

「え、本当? すぐ行くよ」

 トーマスの言葉に、長尾が控室の方へ去っていく。その後ろ姿を呑気に眺める羽多野に、温厚な英国青年は珍しく苛立ちをあらわにした。

「羽多野さん、ここには来ないって約束したじゃないですか」

「……俺だって、そんなつもりじゃなかったんだ」

 トーマスが怒るのは当然だ。それに羽多野だって、すんなり中に入れるだなんて思っても見なかった。

「だったらどうして。レセプションは招待制ですよね。まさか谷口さんに話してしまったんですか?」

「いや、それはない。君やアリスに迷惑がかかるようなことは一切してない。偶然外で知人に会って、招待状をもらっただけだ」

 ジェレミーとの場外戦の話はしたくなかったので、羽多野は言葉を濁した。トーマスも、栄に裏切りが露呈していなければ招待状の入手先には興味がないようで、それ以上の追及はない。

 とはいえこの場に、しかも長尾の至近距離に羽多野がいたことは不審でたまらないようだ。

「長尾さんと、何か話をしたんですか?」

 羽多野はあわてて首を左右に振る。

「してない。そもそもあれが長尾だってことも、トーマスが名前を呼ぶまで知らなかった。名前は何度も聞いたことはあるけど会ったことはない相手だから」

「……だったらいいですけど。いや、良くはないんですけど」

 すでに会場に入り込まれてしまっている以上、追い出すことまでは考えていないようでトーマスは渋々羽多野がここにいることを認めた。

「で、準備はどうだ? 和太鼓は中庭で?」

「ええ。あと十分ほどで主賓と来賓の挨拶、それから和太鼓です。本当は『宴もたけなわ』のタイミングで演奏する予定だったんですけど、雨が降りそうなので早まりました。借り物の太鼓を濡らしては大変ですから」

「谷口くんの調子は?」

「さっき少しだけ挨拶回りしてましたけど、あとは控室で譜を見直しています。出番が終わるまでは出てこないと思うので、羽多野さんは和太鼓演奏終わったらすぐに帰るようにしてください」

 嫌だと言いつつ、イベントの余興でも大真面目に準備するというのはいかにも栄らしい。微笑ましさに頬を緩ませる羽多野だが、トーマスは笑いごとではないと言いたげだ。とにかく栄に見つからないよう細心の注意を払うよう重ねて釘を刺して控室へ戻っていった。

 会場のあちこちで、日本語で交わされるビジネスについての会話。ざわざわと、皆友好的でありつつどこか上っ面だけの、よそよそしい雰囲気もある。かつて頻繁に出席していた政治関連のパーティとも似た空気に、羽多野は少し懐かしい気持ちになった。 

 今でこそ、谷口栄は羽多野にとって、わがままで面倒くさくて可愛い年下の恋人であるが、日本にいた頃は役人として立ち回る姿以外ほとんど知らなかった。クソ真面目で融通が効かなくて責任感が強くて、いっぱいいっぱいなのに余裕のない自分を隠すことに必死。そんな栄を憎らしくも思ったし、健気で眩しいとも感じた。

 笠井議員のスキャンダルをきっかけに羽多野は「降りた」が、栄は今もあの頃と変わらず、厄介な世界で必死に戦っているのだ。彼の性格からすれば屈辱的ともいえる「半被で和太鼓の余興」を受け入れてまで。

 そんなことを思い出して感傷に浸っていると、中庭でグラスを傾けていた数人が天を見上げて言った。

「あれ、降ってきた?」