目を閉じて、集中して、何度も練習して体で覚えたリズムを繰り返す。それは学生時代や公務員試験の試験前に、暗記した単語や数式を復習する行為にも似ている。剣道の試合の前に、ゆっくりと呼吸を整える行為にも似ている。
空模様が怪しいと聞いたときには雨で余興が中止になることを期待したが、天気予報を確認すると降り出すのは夜半近くのようだった。念のため和太鼓の出番を早めると聞いた時点で栄はすべての希望を捨てた。
すぐ隣にはまだ袋に入ったままの新品の半被。届いたその場ではしゃいで試着する人すらいたが、栄は封を切る気にすらなれなかった。こんな恥ずかしいもの、本番で一度身につけるだけでも十分すぎる。
周囲の動きがあわただしくなってきたのを感じて目を開け、腕時計をちらりと見る。じき主催や来賓の挨拶がはじまる頃だと思ったところで、和太鼓チームのメンバーがばたばたと駆け込んできた。
「雨、降り出しちゃいましたよ! 急にどしゃ降り!」
ええ~っ、と周囲がどよめくのは驚きのせいか、落胆のせいか。様子を見るため、もしくはレセプション会場のレイアウト変更を手伝うためにバラバラと人が出ていく。
栄は歓喜――というよりは拍子抜けしてしまった。出番も間近だと心の準備も整えたのに、突然のどしゃ降りだと? 予報より雨雲の動きが早かったのだろうか。
半信半疑で控室を出てみると、空は真っ暗で滝のような雨が芝生に叩きつけており、スーツ姿の男たちがびしょ濡れになりながら野外のテーブルや椅子を退避させている。和太鼓を外に出していなかったのは幸いだった。
「……これだけ降ると、短時間で止んだとしても和太鼓は難しいでしょうね」
気づくとトーマスが近くに立っていた。
「そうだな」と栄は応じる。
空気が乾燥しているこの国では日本よりもずっと早く地面は乾く。しかし、これだけ土砂降りになると、芝生はしばらくぬかるんだままだろう。
ここ数週間の葛藤、練習に費やした時間、羽多野に隠しごとをするストレス。そういったものすべてが夕立に流されていく。
「私も正直、和太鼓の練習なんてそんなに乗り気ではなかったんです。でもいざ中止と言われると、がっかりというか……拍子抜けしてしまいますね」
トーマスの言葉は、まるで栄の心情を代弁しているようだった。
そういえばトーマスは自ら手を挙げて和太鼓に参加したと記憶しているが、本音は乗り気ではなかったのか。もしかしたら自分に気を遣ってくれ他のだろうか、と今さらながら栄は若い同僚に感謝した。と同時にひとつの不安が頭をもたげる。
「まさか、雨天中止の場合は『一年目の人が和太鼓チームに参加するルール』が翌年まで持ち越しとか、ないよな?」
来年は来年で新たな「一年目」大使館員たちがやってくる。なんとしてでもこの役は彼らに譲りたいものだと心底思いながら、栄はようやく安堵の息を吐いた。
和太鼓演奏の中止が正式に決まったところでお役御免となった栄だが、すぐに帰らず会場に居残ることにした。というのも今朝家を出る前に、羽多野に「レセプション出席で遅くなる」と伝えてあったからだ。和太鼓の話など一切していないのだから、雨だから早く帰れることになったという話もしづらい。
「そういえば、これどうしたらいい?」
透明のビニール袋に入ったまま、まっさらな半被の処分も問題だ。ちょうど控室にやってきたジェレミーにきくと、彼はにっこりと笑う。
「残念ながら演奏は中止になりましたが、せっかくなので記念にどうぞ」
「記念……」
日本風の装束が珍しい英国人ならともかく、こんなチャチな作りの半被をもらって喜ぶ日本人がいるのだろうか。第一、持ち帰って羽多野に見つかろうものなら理由を追及されて厄介なことになる。
他の人はどうするつもりかと周囲を見回すと長尾と目が合った。演奏が中止になったにも関わらず長尾はシャツの上から半被を羽織ろうとしていた彼は、目を輝かせて栄を誘う。
「せっかくなのでこれを着て会場を回ろうかと。谷口さんも一緒にどうですか?」
こともあろうか、ようやく免れた半被着用を迫られるとは。栄は思わず後ずさった。
「俺はやめておきます」
「でも、英国人のお客さんも多いから、きっと盛り上がりますよ。あまりない機会ですし、なんなら一緒に半被姿で写真でも」
どこまでもポジティブな男は、栄の顔が引きつっていることに気づかない様子でにじり寄ってくる。
どう断るべきか、あまりきつく断ると変に思われるだろうか――冷や汗が背中を伝ったところで、頼りになるのはまたもやトーマスだった。
「谷口さん、実はお願いがあるんです。その半被、私にいただけませんか?」
「……え?」
助け舟だということはわかる。が、言っていることの意味はわからない。栄は目を丸くし、長尾も不審そうにトーマスを見る。
「でも、トーマスは自分の分の半被があるだろう」
「そうなんですけど、実は私の恋人が半被を気に入ってしまって。ペアで部屋着にしたいと言ってきかないんです」
少し照れくさそうに言ってからトーマスは「谷口さんのはどうやら、まだ封も切っていないようなので」と付け加えた。
ペアで、というのであればトーマスの分にプラスで一着が必要だ。そして恋人へのプレゼントにするのに、どこぞの男の着古しというわけにもいかない。つまり、アリスに渡すには栄の未開封の半被が打ってつけというわけだ。
「そういうことだったら、喜んで差し上げるよ!」
残念でたまらないと言いたげな長尾の視線を振り切る勢いで、栄は半被の入った袋をトーマスの腕に押し込んだ。
「ありがとう、さっきは助かったよ。あんまりああいうのを着て出ていくのは……性に合わなくて」
ようやく和太鼓関係の後始末が落ち着いたところで、栄はそっとトーマスにささやいた。もちろん「半被コスプレなんてクソ恥ずかしい格好で見せ物に出ていくなどプライドが許さない」という正直な気持ちは幾重ものオブラートに包んで伝える。
「で、本当に持ち帰ってもらって大丈夫なのか?」
確認するのは「アリスが半被を欲しがっている」というのがあの場を切り抜けるための方便ではないかと思ったからだ。しかしトーマスは首を振って否定する。
「ええ。アリスが半被を着てみたいって言っているのは本当です。谷口さんさえ差し支えなければ、喜んで」
「もちろん構わないよ。あんなもの持ち帰ったら、面倒なことになるに決まってる……」
ほっとしたせいで思わず本音が口をついた。何が「面倒」なのか、賢いトーマスは察するだろう。
栄は気まずく口ごもり、つられたようにトーマスも悩ましげな顔をする。いや、どうやらトーマスは別のことで頭を悩ませていたらしい。周囲に人がいないのを確認した上で、念を入れるかのように声を低くする。
「実は谷口さん、これをアリスから預かっているんです。かえってご迷惑になるのではと止めたのですが、ほら、彼女も頑固なところがあるから」
申し訳なさそうな顔で差し出されたのは、栄もよく知る「MUJI」のロゴがついたクラフト紙の紙袋だった。
ヨーロッパで人気のあるMUJIはロンドンにも店舗を構えており、現地の「意識高い」人々に人気であると同時に、日本らしい細やかな作りの雑貨が手に入る店として在英邦人にも重宝されている。
栄もときどき店舗に足を運ぶことはあるが、一体アリスがなぜ? しかも、紙袋を手渡すトーマスがこんなに申し訳なさそうな顔をしているだなんて。
栄もつられて不安になり、おそるおそる紙袋をのぞき込んだ。