袋の中から出てきたのは、衣類と思しき布のかたまりだった。少しでこぼことした手触りの涼しげな布についた商品タグに、栄は目をこらす。
――「しじら織り 甚平」。
「……なんだこれ」
「甚平という日本の衣類で、近年は夏の部屋着として人気だと聞きました」
「いや、それは知ってる。そうじゃなくて」
「アリスが、以前素敵なお土産をいただいたからお礼だと」
昨年のクリスマスに、日本に逃げ帰った羽多野を追って栄は東京に出かけた。その際、心配をかけたお詫びにトーマスとアリスへの土産は弾んだ。だが、なぜ半年も経った今になってお礼の品など? 何より、お礼の品がネイビーとグレー、二着の甚平であることが栄には解せない。
トーマスは申し訳なさそうに続ける。
「アリスとMUJIに出かけたときに偶然見つけて、絶対にこれを買うと譲らなかったんです」
日本の品を見て、彼女にとって数少ない日本人の知り合いである栄や羽多野のことを思い出すというのはギリギリ納得ができる。でも、それをプレゼントしようというのは飛躍した考えだ。なんせここはロンドン。たとえるならば、東京を訪れたトーマスやアリスに対して、栄が敢えてウェッジウッドのカップを送るようなものではないか。
しかも、アリスは明らかに羽多野と栄がこれをペアで着用することをイメージしている。
「すみません、ご迷惑ですよね」
トーマスが落ち込んだ声を出したので、栄ははっと顔をあげる。
さっきだって長尾の厄介な誘いを断る助け舟を出してくれたとのはトーマスだ。こんなにも親切で献身的な青年を「羽多野との関係を知られていることを認めたくない」という勝手すぎる理由で責めるなんて、大人げない。
「そ、そんなことない。涼しそうだし、これからの季節には良さそうだ。アリスにはお礼を伝えておいて」
ほっとしたようにトーマスの表情がゆるんだ。
栄だって気持ちは複雑なのだ。アリスの食事の誘いを断ったことも、申し訳ないと思っている。別に永遠に意地を張り続けるつもりはなくて、ただもう少し、もう少しだけ心の準備に時間が必要なだけ。そんなことを考えて、ペア前提で送られた二着の甚平を眺める。
羽多野は和装に興味はある様子だったから、きっとこの贈り物を喜ぶだろう。二色から彼が選ぶのはきっとグレー。
そこでふとひらめいた。
「アリスは――その、連絡を取っているみたいなのか?」
もし、アリスが羽多野と和装の話をしたことがあったとすれば? そのことを思い出してこれをプレゼントに選んだというのは、あり得なくもない。
誰と、というポイントの抜けた質問ではあったが、トーマスは栄の真意を理解した。
「ごくたまにですよ。彼女、日本に行きたがっているから、その相談をしたみたいで」
日本旅行の相談。そんなのトーマスにきけばいくらだって知見は得られるはず。わざわざ羽多野なんかと何を話しているかは怪しいものだ。不穏な思いにかられたものの、今日のところはトーマスに免じて深くは追求しないことにした。
帰宅する頃には、雨は止んでいた。
羽多野は先に帰宅していたが、玄関先の革靴は濡れている。ひとりの夜を持てあまし、寄り道でもしているあいだに雨が降り出したのだろうか。
「降られたんですか?」
リビングに入った栄がきくと、羽多野は「うん、まあ」と曖昧な返事で視線をそらした。
もしかして、金曜の夜にひとりにしたから機嫌が悪いのだろうか。ずっと和太鼓の件で隠しごとをしていた後ろめたさから、栄は瞬時に羽多野の機嫌を取ろうと手にした紙袋を差し出した。
「そうだ羽多野さんこれ、アリスからプレゼントだって」
「アリス!?」
驚いたような顔。さてはトーマスが言っていた「日本旅行の相談」は比較的最近のことなのかもしれない。
「ごくたまに、連絡をとっているらしいですね。急に甚平だなんて驚いたけど、どんな話をしたんですか?」
わずかな嫌味は込めつつ叱責ではない。喧嘩を売られているわけではないと安堵したのか、羽多野の表情がゆるんだ。
「ああ、ほら、彼ら結婚を考えているみたいで、新婚旅行に日本はどうかって」
饒舌すぎるのが気持ち悪い。どうせ陰では栄への不満など、あることないこと話しているのだろう。
「俺の知らないところで連絡取り合うのやめてくれって言ってるでしょう」
不満は表明するが、強くは言えない。羽多野だってアリスだって本音では「栄の知らないところ」で話をしたいなどとは思っていない。栄が四人で会うことを承諾すれば、きっと大喜びで予定を立ててくれるだろう。
「恩人だから、たまに世間話くらいいいだろう。アリスが日本で浴衣や着物を着てみたいっていう話の流れで、俺も着たことないって言ったのを覚えててくれたんだろ。……それにしてもMUJIってすげえな。海外店舗でこんなのも売ってるんだ」
アリスとの密談から話をそらしたいのか、羽多野はすぐに包装をあけて甚平についたタグを外しにかかる。
「もう着るんですか?」
部屋着のTシャツを脱ぎ捨てる羽多野に栄は目を丸くする。
「せっかくのプレゼントだし、涼しそうでいいじゃないか。君だって週明けにはトーマスに感想を伝えた方がいいんじゃないのか」
悔しいが、それは正論だった。
栄は風呂を終えると新品の甚平に袖を通して、リビングに戻った。予想どおり羽多野はグレー、栄はネイビー。
「どう?」
照れくさい気持ちでいる栄に、羽多野は少しおどけたように感想を求める。
「どうもこうもないけど、サイズも合ってるみたいで良かったですね」
本当は悪くないと言いたかったが、つい羽多野を褒める言葉を避けてしまう。一方の羽多野は栄の頭から足先までじっくり眺め回してから満足そうに笑った。
「君も、やっぱり似合ってるな」
褒めることも恥ずかしいが、褒められることも恥ずかしい。栄は食い気味に話題を変えようとする。
「な、何より涼しいですよね。首や袖口の開きが大きいから、Tシャツより風通しがいい」
「確かに。高温多湿な日本の知恵ってやつかな」
そう言った羽多野が着ている甚平の合わせ目からちらりと首筋がのぞく。もしかしたら、和服の色気とはこういうことなのだろうか。密かに鼓動が早まるのを悟られたくなくて、栄は視線をそらした。
「……まあ、じゃあせっかくこういう格好したわけだし」
羽多野が急に立ち上がるので、栄の心臓が跳ねる。栄ですら色気について頭をよぎるくらいだから、羽多野だって――と思うが、意外にも男の足はまっすぐキッチンに向かう。
「な、何してるんですか」
自分ひとり邪なことを考えてしまったようで、恥ずかしさに顔が熱くなる。
思わせぶりなことを言った羽多野はといえば素知らぬ顔でカップボードの隅、普段使わない食器の入っているエリアを漁って言った。
「確か、以前もらったいいものがここに」
目的のものはすぐに見つかった。
美しい江戸切子の酒器だ。
「秘書時代に、江東区が地盤の先生からもらったんだ。買うと結構高いらしいよ」
「そりゃあ、本物の江戸切子ならいい値段するでしょう」
栄はようやく羽多野の意図を理解した。せっかく日本の夏らしい格好をしたから、日本風の晩酌と洒落込みたいのだ。
普段はウイスキーやワイン、ビールを飲むことが多いが、日本酒のストックもいくらかはある。獺祭などが典型的だが、日本国内では焼酎に押され気味の日本酒は近年外国に販路を広げており、ロンドンでも意外なほど美味しい銘柄や高級な銘柄に出会うことはあった。
ワインクーラーに氷と水を入れ冷酒の準備を整えてから、日本酒が冷えるまでもたないと思ったのか、羽多野は冷蔵庫から日本製のビールを取り出した。
そういえば冷凍庫には枝豆があったはずだ。このあいだ出張者からもらった高級なかまぼこも、どこにしまっただろう。羽多野の盛り上がりが伝染したかのようにわくわくしてきて栄も立ち上がった。
典型的な「日本の夏の晩酌」たまには、こんなのも悪くない。
羽多野は縁側代わりのバルコニーに出たいと主張したが、こんな姿を隣人に見られてはたまらないので栄が断固反対した。
カウチに座ってテーブルに酒やつまみを広げるいつものパターンに落ち着いたが、窓を開けると雨上がりの涼しい風が入って来て気持ちが良い。夜十時。日本ならば夜も更けてきた頃合いだが、緯度の高いロンドンではちょうど宵闇。晩酌には最高だ。
「たまにはこんなの、悪くないよなあ」
羽多野がつぶやいているのは冷酒のことか、テーブルに並んだ枝豆や板わさなどのつまみのことか――それとも甚平に身を包んだ恋人の姿か。
少なくとも栄はそのすべてを「悪くない」と思っている。だから曖昧にうなずいてから美しい切子の盃を口に運んだ。
「そういえば」と、羽多野が思い出したように話を変える。
「以前ロシア大使館の向かいあたりに、コスプレ衣装を借りられるカラオケボックスがあったんだよ」
風流から一点、日本のカラオケボックス、しかもコスプレの話。あんまりな話題転換ではあるが、羽多野とカラオケとコスプレはあまりに不似合いなので興味を惹かれる。
「まさか、羽多野さんも何か着たんですか?」
「いや、接待の二次会で偶然行っただけ。廊下にずらっとコスプレ衣装があって、選べるの。その場には女性もいて、おっさんたちが悪ノリしそうだったから、暴走させないよう気疲れしたよ」
「ははは、役人には偉そうな顔して、本当議員や支持者には使いっ走りさせられてたんですね」
一度、夜の歓楽街で出くわした羽多野も、上京して来た支援者の希望で「女性のサービスを受ける店」を探しているのだと言っていた。汚れ仕事も文句言わず引き受けるのが議員秘書。そして、何かあれば切り捨てられるのもまた――もちろん、だからといってあの頃の栄に対する羽多野の態度が許されるわけではないが。
軽い酔いを感じながら栄が過去に思いを馳せていることを知ってか知らずか、羽多野は栄の顔を凝視してからしみじみと言う。
「コスプレといえば、君は何着ても似合うよな。たとえばセーラー服とか」
「は?」
唐突だ。あまりに唐突だ。
だが――セーラー服に心当たりはある。
「な、なんの話ですか」
「ほら、カラオケボックスの話じゃないが、最近はコンプラ厳しくなったけど、君が入省した頃だと役所でも色々あっただろう」
そこで栄は確信する。
以前、元上司から送られてきた「入省当時の栄が忘年会でセーラー服風衣装でアイドルグループの歌と踊りをやらされた写真」。あれはすぐに捨てたつもりでいたが、羽多野に見られていたのだ。でも、いつ、どうやって。
「……どこで見たんですか!?」
弾かれたように羽多野につかみかかり、甚平の胸元を締め上げながら栄は問い詰める。まさかパソコンのパスワードを突破された? ウイルスを仕込まれた? 常識的にはあり得ないが、手段を選ばないこの男ならもしかして。
だが、羽多野は一切の卑劣な手段を否定した。
「このあいだ写真の整理してた時に、ゴミ箱フォルダを開きっぱなしでトイレ行っただろ。偶然目に入ったんだ」
すぐに捨てたつもりだった写真がゴミ箱に残っていたというのだ。重要ファイルの誤消去が怖くて、栄は不要なファイルもゴミ箱に溜めがちだ。悪い癖だと自覚はしていたが、まさかこんな悲劇をうむなんて。
半被も和太鼓も回避できたが、結局羽多野の前で甚平は着る羽目になったし、セーラー服画像も見られていた。今日一日を振り返ればラッキーだったのか不幸だったのか……。
愕然とする栄を励ます、いや、からかうように肩を叩いて羽多野は楽しげに笑う。
「まあ、その話は追々」
今日のところは何もかも忘れて、夏の夜を存分に楽しむ――そんな気分には到底なれない。栄はすっかり味のしなくなった冷酒をグッと飲み干して、大きなため息を吐いた。
(終)
2023.08.11-2023.09.18