Summer Dressing(12.おまけ)

 ――退屈だ。

 予定より早く着きすぎたから入ったカフェで、つい十分ほど前にもチェックしたばかりのマッチングアプリの画面を開いてジェレミーはため息をついた。

 すっかり見飽きたアイコンは自分の写真。写りは良い。とはいっても実物以上に魅力的に撮れているという意味ではない。

 微かなピンぼけ、やや硬い笑顔、ぎこちないアングル。セルフィーに慣れていない男がアプリ登録のためとりあえず準備した、というのがこの写真のテーマだったりする。つまりこのアイコンは、ジェレミーがこのアプリで他人に与えたいと思っているイメージ――素朴で誠実で、野暮ったいくらい――にはぴったりであるという意味で「良い写り」なのだ。

 保守的な田舎町出身の、奥手ですれていない男。それがジェレミーの姿をどの程度正確に表現しているのかはわからない。少なくとも「保守的な田舎町出身」は事実だし、「奥手」「すれてない」はあくまで主観的な指標だ。嘘はついていない。

 プロフィールへの「good」の数はそこそこ。一応は毎日のように誰かしらから、今夜のお相手にどうかとメッセージが送られてくるから、気が向けば応じる。さて、今日はどうしよう。

 ジェレミーのプロフィールに反応するは、大雑把にふたつに分類できる。うぶな相手に手取り足取り教えてやろうというタイプか、この世界に入りたてで、いかにも世慣れた雰囲気のゲイには気後れしてしまうタイプ。前者にしろ後者にしろ、こちらを軽く見ているという点では変わりない。

 支配できる、リードできると思わせるのがいつもの作戦。ジェレミーのことを簡単に思い通りになると見くびって、調子に乗っている男の姿に興奮する。実際は、声をかけてくる大抵の相手よりもこっちの方が経験値は上なのだが、それを隠して主導権を握らせておいて、腹の中で笑ってみたり、たまにはベッドの中で豹変して驚かせてみたり。悪趣味かもしれないが、相手だって「この程度の相手なら」と声をかけてくるのだから、お互い様ではないか。

 かつてのロンドンでは、同性愛者は特定のエリアの特定の店に出会いを求めて集ったらしいが、マッチングアプリの台頭で店舗型ゲイバーには厳しい時代となった。

 確かに人肌が恋しい夜に手っ取り早く相手を探せるアプリは便利だ。だが、出会いからベッドまでの距離が近すぎるし、そこまでのステップもあまりに定型化されすぎている。ベッドでのあれこれは大事だし最終的な目的ではあるが、そこに至る駆け引きも楽しみたいジェレミーのようなタイプにとっては、やや刺激が足りないのだ。

 つまりジェレミーは、今どき珍しいほど現実世界での出会いも大切にするタイプだ。

 クラブやパブでの出会いも悪くない。こういう場所には慣れていないけど勇気を出してやって来ました、という不安そうな顔をして声をかけられるのを待つ。難易度は高いが、喫茶店や本屋のような場所で首尾よく相手を見つければ、偶然の出会い感が高いだけに相手も盛り上がる。

 最近も、実に惜しい出会いがあった。ジェレミーは、谷口栄の澄ました顔を思い浮かべた。

 出会いとフィットネス半々の目的で入会したジムのプールで見つけた日本人。アジア人にしては長身で均整の取れた体つきに、何より泳ぐ姿の美しさは、多種多様な人種が混在するロンドンのプールでも目立っていた。

 何よりジェレミーは、アジア系、特に日本人が好きだ。これはもしかしたら肉体にわずかに流れる日本の血のせいなのかもしれない。

 白人社会で、恋愛対象として東アジア系の価値は決して高くない。女性については貞淑なイメージからある種の層に好まれるが、男性は基本的に男からも女からも恋人候補としては見られづらい。だが、ジェレミーは、まだテレビ画面に映る中国人と日本人の区別がつかなかった頃から彼らのすっきりとした外見に漠然とした好感を持っていた。

 日本語を学び、英語教師として日本で数年生活した間に日本人と付き合ってみて、彼らの礼儀正しさも――ベッドの中での振る舞いは千差万別だが――しっとりした肌質や体毛や体臭が薄いところも気に入った。

 英国に戻ってからも、留学生や駐在員など数人の日本人と関係を持ったが、ここのところいい出会いに恵まれない。そう思っていた矢先に見つけた栄は、ジェレミーにとっては是が非でも落としたい相手だった。

 難しくないはずだったのだ。

 性的な志向を隠している保守的な日本人も、国外では警戒心が緩む。また、外国で勤務するようなタイプは大体においてエリートだが、多くは英語での生活にストレスを感じ、逆立ちしてもネイティブに敵わないコミュニケーション能力に劣等感を抱いている。

 そこをくすぐって、おだててやれば、向こうがその気になるまでさほど時間はかからない。むしろ、ジェレミーが先に飽きてしまった場合関係解消に苦労するくらい、というのがいつものパターンだった。栄にも同じ作戦が通用するはずだった。

 見込み違いは単身でロンドンに赴任しているはずの栄にパートナーがいたこと。それでも押しとおだてに弱そうだから、粘れば何とかなると思った。決定的な計算違いは、栄のガードが存外に硬かったことと、偶然彼のパートナーと出くわしてしまったこと。

 栄のパートナーからの強烈な宣戦布告を受けて、狙った獲物は確実に落とす主義のジェレミーとしては珍しく、「とりあえずの作戦中断」を決めたのだった。

 とはいえ、あくまで中止ではなく中断。適度な距離を保って、相手に隙ができるのを狙う。

 恋愛感情を向けられるのは困ると栄はことあるごとに釘を刺すが、人目を気にする彼は「仕事」という建前があればジェレミーを完全に拒絶することができない。のんびり構えればそのうち機会は来るだろう。幸いなことに、あの二人にとって喧嘩は日常茶飯事のようだ。付け入る隙はきっとある。

 腕時計に目をやると、そろそろすぐ近くにある在英国日本大使館が業務を開始する頃だ。

 来月、日本文化をテーマにした大きなイベント開催される。そのレセプションパーティで披露する和太鼓演奏の幹事を、ジェレミーは自ら立候補して引き受けていた。

 大使館赴任一年目の男性は、ほぼ全員が業務命令として和太鼓チームに参加すると聞いた。つまり、幹事をすれば仕事を理由に栄と会う機会が増えるし、他にもほどほどに若く感じのいい日本人駐在員との出会いの機会も期待できる。

 趣味と実益を兼ねた役割には胸が躍る。今はマッチングアプリなんかよりこっちの方がよっぽど面白い。未読メッセージは無視したままで、ジェレミーは残ったコーヒーを飲み干して立ち上がった。