もしも京都に行ったなら 〜栄×尚人(2)〜

 これまでに尚人と旅行に行くことを考えたことがなかったわけではない。だが、なまじ好意を持っているだけに、友人関係でいるうちは尚人を宿泊を伴う遠出に誘うことには用心深くなっていた。

 加えて、ふたりが通うT大学は「学類」という大雑把なくくりで入学し、二年生前期までの成績を元に学部を決定するシステムをとっていた。栄は法学部、尚人は教育学部と、いずれも学類からすると順当な進路を希望していたので過剰に心配する必要はないのだが、いかんせん尚人は自己評価が低かった。日々学業とアルバイトに邁進する姿を前に「旅行」などという浮かれた単語を口に出したとして、色よい返事がもらえる保証はなかった。

 ――といった逡巡はしかし、今となってはすべて過去のものだ。

 前期末の試験勉強中に互いの好意を確かめ、真意を探り合う友人関係は恋人同士へと変わった。そして、栄は部活、尚人はアルバイトで忙しく過ごした夏休みの後半には、ふたりとも無事希望する学部への進学を認められた。つまり、今こそ尚人を旅行に誘うには最高のタイミングに違いない。

 栄は潔癖なたちなので好き好んで外泊をするタイプではないが、あの質素な――という表現はかなり言葉を選んでいる――壁の厚さにも不安のあるワンルームマンションの、狭苦しく強度が心許ないベッドがの場所として不十分であることは断言できる。もちろん、最近では専業主婦の母が友人知人を招いて料理サロンの真似事をはじめた栄の自宅という選択肢はさらにありえない。尚人との関係を進めるならば、どこか他の場所を探すのが一番だ。

 恥ずかしいので認めたくはないが、栄はどちらかといえばロマンチストだ。どうせ家以外のどこかを選ぶならば、十分にムードのある場所やシチュエーションが望ましいし、その候補としてついさっき大型ビジョンで目にした鮮やかな紅葉や、風情ある古都の街並みは最適であるように思えた。

 こんなことなら、深夜営業の書店に寄ってくるべきだった。後悔しながら栄はタクシーを降りて自宅へ入ると、明日の朝が早いことも忘れて京都旅行の情報収集に取りかかった。

 京都は何度か訪れたことがあるが、いずれも栄本人の意思ではない。

 子どもの頃は、親に連れられての家族旅行。寺院や旧跡はどこもほんのり線香のにおいがしてくしゃみが出そうだったし、数カ所も回ればあとはすべて同じに見えた。つまり当時の栄は世界遺産やひとり数万円の懐石料理の価値を理解するには幼すぎ、一方でそれを口にしてはいけないと理解するだけの賢さは持ち合わせていた。

「こんなとこより、ディズニーランドとマクドナルドに行きたい」

 当時から生意気だった妹の発言に呆れた顔をする両親の顔を見て、やはり口をつぐんでいた自分は正しかったのだと思った。もちろん内心では妹とまったく同じことを考えていたのだが……。

 もう少し大きくなってからは、何度か剣道の試合で京都へ行った。そのときは宿舎と試合場の往復だけで終わってしまった。

 要するに、栄も自信を持って尚人をエスコートできるほど京都に通じているわけではない。こんなことなら「日帰りでも行けるから」と連れ出すことをせず、せめて軽井沢と箱根のどちらかでも取っておけば良かった。そんな考えが頭をかすめたところで、後悔先に立たず。

 免許は取ったが、都内の複雑な道路や渋滞を嫌って運転を避けているので、旅先でレンタカーを借りる自信はまだない。初の恋人との旅行で交通事故でも起こせば一生悔やんでも悔やみきれない汚点になるだろう。となると新幹線一本で行けて、車を借りなくとも動きやすくて、雰囲気の良い場所。結局、今の時点での最適解は京都になるのだ。

 京都といえば和。和といえば旅館。嵐山あたりの個室露天風呂付き旅館でしっぽりというのもなかなか風情があっていいが、欠点は食事や布団の上げ下げに仲居が出入りすること。いくら旅の恥はかき捨てといえ、同性カップルであることを疑う気配を少しでも感じたなら、その瞬間に栄の心は冷え切ってしまうだろう。

「……駄目だ、旅館はなし」

 栄は宿泊施設検索サイトの「絞り込み」画面の「旅館」からチェックを外した。ホテルならば、特段用事を頼まない限りはチェックインとチェックアウトのとき以外スタッフと顔を合わせずにすむから、旅館よりは圧倒的にましだ。

 もちろんベッドはふたつ必要だ。ダブルルームに男二人での予約はあり得ないし、最初からベッドがひとつの部屋を予約するというのも下心があからさますぎて体裁が悪い。かといってシングルベッドふたつだと、いざことに及ぶときに狭いだろう。

 ダブルベッドがふたつのツインルームで、記念すべき夜に相応しい場所。かといって、あまり高級すぎるホテルだと尚人が恐縮してしまう。

 以前、栄なりに勝負をかけようと思って、レストランに尚人を誘ったことがある。サプライズのつもりだったので、一応「上着は着てきて」とだけ告げると、尚人は「え? そんなに寒くなりそう?」と見当違いの返事をした。

 その時点で嫌な予感はしつつもジャケットを着てくるようオブラートに包んで伝えたら、当日の尚人は大学の入学式のスーツから上着だけを剥がしてきたような、ちぐはぐな服装で待ち合わせ場所にやってきた。すぐさま馴染みの店に連行してちゃんとした上着を買ってやりたい気持ちを押さえつけるのに、栄は自制心を総動員する必要があった。

 予約していたレストランに向かうと、一歩店内に入った瞬間、尚人の顔は完全に青ざめて、能面のように表情を失ってしまった。

 フォーマルになりすぎないよう、フレンチでなくイタリアンレストランを選んだつもりだった。栄はまだ、尚人のイメージするイタリアンの概念が、栄のそれとは大きく異なることを知らなかったのだ――つまり尚人にとってイタリア料理とは「サイゼリヤ」や「カプリチョーザ」であり、大学に入ってから飲み会で初めて連れて行かれた「サルバトーレ・クオモ」がおしゃれで本格的なイタリア料理の最高峰だった。

 その後の尚人は、いつも以上に無口だった。目の前に皿が置かれても、栄の動きを確かめるまではカトラリーを手にとることも、料理を口に運ぶこともなかった。

 賢い彼は、育ちが良く優雅な友人の真似をすれば、異世界のようなこの店で少なくとも大きな恥をかくことはないとわかっていたのだ。尚人に恥をかかせることなどこれっぽっちも望んでいなかった栄にとっても、尚人が何とかこの場をやり過ごす方法を見つけてくれたのはありがたいことだった。

 ときおり、ぎこちなく「美味しいね」と微笑む以外、ほとんど言葉を発することのない尚人を前に、勝負をかける、という当初の思惑は完全にはじけ散って栄の夜は終わった。そして尚人は、栄が一方的に誘ったにもかかわらずその日の支払いのことをしばらく気にし続けた。

 あのときの二の舞はごめんだ。

 そこそこの高級感と雰囲気の良さはありつつ、後で尚人がこっそり宿泊料金を検索したところで目玉は飛び出ないくらいが妥当なところだろう。栄はホテルの詳細や口コミを時間をかけて吟味して、東山にある外資系ホテルのジュニアスイートを予約した。