尚人のマンションに着いたときには十一時半を回っていた。怪しまれたのか一度目の呼び出しでは応答せず、二度目にインターフォンを押すとようやく「はい?」と怪訝な声が聞こえてきた。
俺、と未生がぶっきらぼうに告げると驚きながらも尚人はオートロックを解除する。
「……どうしたの、急に」
玄関先に出てきた尚人はすでに寝る準備をしていたのかところどころに毛玉のついたスウェットの上下を着て、近づくとシャンプーの香りがした。しかしその表情は明らかに戸惑っていた。未生にとってはこれまで見たことのない新鮮かつ無防備な姿だ。
「急に来たら駄目だった?」
喜んでもらえると確信していたわけではないが、それでも未生は落胆を隠せない。尚人の気持ちが未生を向いているならば、突然だろうが何だろうが嬉しそうな素振りくらいは見せるものなのではないだろうか。
「駄目じゃないけど……時間も遅いし、片付いてないし」
尚人は未生を部屋に上げることすらためらっているようだった。その反応に思わず未生は玄関を改めて見回し、そこに尚人以外の靴がないことを確かめてしまう。
視線の動きはばれていたようで、尚人は困ったような笑みを浮かべて弁明した。
「別に誰かがいるとか、そういうんじゃないから」
「じゃあ上がっていいよな」
「うん……」
開き直った未生の言葉に尚人は不承不承うなずいた。
そもそも終電近くで、千葉まで戻ることなど不可能な時間帯。尚人が未生を追い出すことなどできるわけがないと、酔った頭でもその程度の計算はできていた。わかっていてあえて未生はここにやって来たのだ。
確かに部屋は雑然としていた。テーブルの上にはたくさんの本や資料が広げたままで、その横にはコンビニエンスストアの袋に入った弁当の空き容器が無造作に投げてある。汚部屋というようなレベルには程遠いが、そこは未生の知る尚人の部屋とは違った生活感にあふれていた。
これまで未生が尚人の部屋を訪れるときは必ず事前の許可を得ていたし、尚人の部屋はいつだって整然と片付いていた。未生としてはむしろ尚人の普段の生活を垣間見ることができるこの状況を嬉しいとすら思うのだが、尚人は顔を赤くして気まずそうにゴミ袋をつかむとキッチンに持っていった。
未生は思わずその背中を追う。酔いは確実に自制心を弱めていた。というよりは、酔いを言い訳にすれば多少逸脱した行為も許されるだろうという甘えがあったのは事実だ。
「尚人」
後ろから抱きしめようとして、するりとかわされる。
「未生くん……お酒の匂いがすごい」
その声にはわずかにとがめるような調子が混じる。抱擁が叶わなかった失望も重なり未生は面白くない。あの髪に顔を埋めて、まだ新しいシャンプーの香りを心ゆくまで吸い込みたいというのが正直なところだが、そんな些細な希望すら尚人は叶えてくれないのだ。
第一、飲み会に行けと言ったのは尚人なのに、なぜ今になって酒の匂いを非難するのか。そんなのあまりに自分勝手だ。
「だったらなんだよ。くだらない飲み会なんか俺は行きたくもなかったのに、友達付き合いは大事だから行けっつったのは尚人だろ」
思わず未生がむきになると、尚人はたじろいだ。
「別に僕は責めてるわけじゃ」
「責めてるように聞こえた」
狭いキッチンで二人は対峙する。一触即発の状態だが、やがて尚人は大きなため息を吐いて険悪な雰囲気を回避にかかった。
「未生くん、君は酔ってる。水飲んで少し休んだ方がいいから、向こうで待ってて」
未生に背中を向け尚人は冷蔵庫のドアを開けて浄水機能つきのウォータージャーを取り出す。シンクの水切りからグラスを取り上げるその手首をつかむと未生は言った。
「水なんかいいよ。酔ってたら何なんだよ」
尚人は視線も合わせないまま未生の手を振り払うと、冷たく告げた。
「大きい声出さないで。夜中なんだから、近所迷惑になる」
未生には尚人がなぜそんな態度を取るのか理解できなかった。
世界というのはもっと単純なはずだった。好きなら好きで、抱き合いたいならそれで話は終わる。尚人が栄と別れたなら、そして未生を選ぶのならば話はそこでお終いで、尚人はかつて栄に寄せていたようなまっすぐで純粋な愛情をそのまま未生に向けてくれる――そのはずだったのだ。
だが現実は未生の理解を超えている。三ヶ月間の長いお預け、無神経な言葉、夜中にわざわざ片道二時間の距離を駆けつければ迷惑そうな顔をする。未生には尚人の気持ちがさっぱりわからない。
「知らなかった、君が酔っ払って衝動的なことするタイプだったなんて。連絡もなしに来るから驚いたよ。お水飲んで、着替え出すから今日は泊まっていって」
クローゼットを探りながら尚人はそう言った。テーブルには半ば押し付けるように置かれた水入りのグラス。とりあえずここに泊まることへの許可が出たのは喜ばしかったが、尚人が寝巻き一式に続いてブランケットを取り出すのを見て未生は動きを止めた。
「何だよ、それ」
不機嫌な問いかけに、尚人は隣の寝室を指し示しながら言う。
「未生くんはベッド使っていいよ。僕はこっちで寝るから」
冗談じゃないと思った。なぜこの期に及んで別々に寝なければいけないのか。別にソファがあるわけでも客用布団があるわけでもないのに、尚人は床でブランケットにくるまってまで、未生と同じベッドには入りたくないと言っているのだ。
「そんな必要ない。ちょっと狭いけど一緒に寝ればいいだろ」
未生の言葉に尚人は目を伏せた。
「それは……困る」
欲望を口にしてもいないのに拒否された――それは未生の理性をますます危うくする。
「困るって何だよ」
そう言って未生は尚人の手からブランケットを奪い取ると、床に投げた。そもそもはセックスしたくて来たわけではない。尚人があんな態度を取るから、未生が女の子に囲まれた飲み会に行くというのに不安がる素振りも見せないから、だからちょっと不安になって顔が見たくなっただけだ。
でもこんな風に警戒されれば面白くないし、勘ぐられればむきになるのが未生だ。
「俺と寝るのがそんなに嫌なのか」
「そんなこと言ってない。また感情的になって、何なんだよ。ちょっと落ち着いて」
「感情的にもなるだろ、人の気も知らないで」
まるで未生だけが理屈もわからない子どもであるかのようにあしらおうとする尚人の態度が気に食わない。いつだってそうだ。上から目線で大人ぶって、未生の幼さをたしなめれば何もかも思い通りになると思っているのか。
尚人はフェアじゃない。谷口栄を想い尊重していたようには未生のことを扱おうとしない。そう思うとやりきれなかった。
未生は尚人の手首を今度こそ手加減なしにつかむとそのまま寝室まで引きずり、自分よりも軽い体をベッドに投げた。そのまま上からのしかかり首筋に顔を埋める。シャンプーとボディソープの混ざった匂いに頭がくらくらした。
経験上知っている。こうやって少し強引に迫り体に訴えれば尚人は陥落する。過去はいつだってそうだった。首筋を舐めて、敏感な乳首を摘んでやればすぐに唇から甘い吐息がこぼれて尚人は未生の思うようになる。そのはずだったのだ。
だが今日の尚人は強情だった。首筋に口付ける未生の肩を必死で押し返しながら嫌々と首を振る。
「やめて、こういうのは嫌だ」
「何を今さらもったいぶってんだよ、セックスなんか何回もやっただろ」
それは――この上なく迂闊な言葉だった。更にたちが悪いのは、迂闊なだけでなくそれが今の未生にとって偽らざる本音であることだった。
「……何が言いたいんだ」
尚人の顔色が変わったのはわかったが、もう未生も後には引けない。全力で肩を押し返してくる男を体重差で組み敷いて、耳たぶを噛む。
「やらせろよ」
「こういう状態で、やりたくない」
尚人はそれでもまだ意地を張った。未生の望みが何であるかをはっきりと言葉で表明された上で、はっきりと拒否したのだった。
未生は尚人の両腕を自分の肩から剥ぎ取るとベッドに釘付け訴える。
「こういう状態じゃなくてもやらせてくれないだろ。三ヶ月も毎週毎週コーヒー飲んでおしゃべりして、ガキのままごとでもジジイの茶飲み友達でもないんだぞ」
「だから、もう間違いを繰り返したくないから時間をかけようって話しただろ」
そんなことわかっている。だからあの日すぐに連れ去ることをせず、三ヶ月もおままごとに付き合った。この忍耐を褒められこそすれ、なぜこんな風に責められなければいけないのだろう。
「時間って何だよ、三ヶ月で足りないって半年? 一年? 第一、谷口と別れてからどうしてたんだよ」
未生の問いかけに尚人の目が驚いたように大きく見開かれた。続いてゆっくりと動き出した唇は小刻みに震えているようだった。
「どうしてたって、何の話?」
だがその言葉に込められた意味は、怒りと酔いで我を失った未生には届かない。それどころか今こそこれまでの不満をぶちまけてやるのだとばかりに、未生はまくし立てた。
「あんなにセックス好きで、ちょっと触るだけでおかしくなってただろ。あいつに抱いてもらえない体持て余して他の男を探したくせに今になって清純面すんなよ。大体そんなに長く我慢できるはずないのに、半年以上も。もしかしてあのアプリで探したどっか他の男と寝てるのか?」
一気にそう吐き出して、次の瞬間未生は激しい痛みに腹を押さえた。非力であるとはいえ尚人だって立派な成人男子だ。怒りに任せて鳩尾を蹴り上げられれば数秒呼吸が止まるくらいのダメージはある。
未生は腹に手を当てたままベッドに横向きに転がり、拘束を解かれた尚人は起き上がる。その顔は怒りと羞恥で紅潮していた。
「――酔っ払いだからと思って我慢するつもりだったけど、こっちにも許せることと許せないことがある。撤回して謝れ」
「嫌だ」
脂汗を額ににじませながらも未生は首を振って否定した。確かに言い方は悪いが、それくらい未生は傷ついているのだと、尚人に受け入れて欲しいのだと伝えたかった。
未生には言葉が足りず、尚人にももちろん言葉が足りないのだろう。だが頭に血が上った状態では自らを省みる余裕などなかった。
「……確かに僕はそんな風に思われたって仕方ない奴かもしれないけど……それでも、こうもはっきり言われると傷つく」
目を潤ませた尚人はそう吐き捨てるとベッドを降りて再びクローゼットを開ける。スウェットの上下を脱ぎ捨ててデニムとTシャツに着替える間、裸の背中や下着だけしか纏っていない尻が無防備に晒されるが痛みで身動きのままならない未生には襲いかかることもできなかった。
着替えを終えた尚人が冷たい目を向けてくるのに気づいて未生はようやく異変を悟る。尚人はそのまま踵を返すと普段から外出時に使っているバッグを手にすると玄関へ向かって歩き出した。
「尚人? どこに行くんだよ、夜中だぞ」
「君と同じ部屋にいたくない。別に心配しなくていいよ、女の子じゃないんだし。未生くんは明日も大学あるんだろうから、ちゃんと寝て遅刻しないようにね。冷蔵庫のものは適当に食べていいから」
気遣うような言葉すら、ぞっとするほど冷たく他人行儀に響いた。尋常ならざる事態によろめきながらも未生は尚人の後を追うが、無情にも目の前で玄関のドアは閉じた。
未生は言葉を失った。追いかけるべきだとわかってはいたが鳩尾の痛みのせいで急に吐き気がこみ上げあわててトイレに駆け込む。一気に胃の中身すべてを吐いて、それと同時に急速に酔いが醒めていった。もちろんこれまでの出来事を都合よく忘れたりはしない。
せっかく三ヶ月我慢したのに、今度こそ慎重に尚人の信頼を得るつもりだったのに――勢いに任せて何もかもを台無しにした。確かなことはそれだけだ。