第5話

 勢いのままにマンションを飛び出して大通りまで走ったところで息が切れてしまい、尚人は自分の体力のなさに絶望する。しかし幸いというか残念ながらというか未生が追いかけてくる気配はない。

「……っていうか、何で僕がこんな……っ」

 立ち止まった尚人は思わずそう吐き出した。

 よくよく考えてみなくたってあれは尚人の部屋で、予告もなく真夜中に押しかけてきた挙句に人を押し倒して失礼な言葉を投げかけてきたのは未生だ。つまり締め出されるのだとすれば未生の方なのだが、喧嘩慣れしていない尚人はその場から逃れたいがあまりに自分から部屋を飛び出してしまった。

 足裏にはまだ嫌な感覚が残っている。

 焦りと怒りで衝動的に未生の腹を蹴りつけた。しかも力任せに。人を殴ったり蹴ったりした経験がほぼ皆無である尚人だが、それでもなんとなく「入った」感覚はあったし、あの直情的な未生が反撃することも追いかけることもしなかったことを思えば、尚人の攻撃にはそれなりの威力があったということなのだろう。

 時刻は夜半過ぎ。六月の夜なので冷えることはないが、Tシャツにデニム、素足にサンダルという軽装にビジネスバッグというちぐはぐな恰好をしたアラサー男が夜道をうろついていれば良くて職務質問、最悪通報されることだって考えられる。

 どうしよう――と少しずつ冷静さを取り戻しつつある頭で考えるが、部屋に戻るという選択肢は浮かばなかった。今顔を合わせたところできっとお互いに感情的になって事態を悪化させるだけだ。

 未生と再会して互いの気持ちが同じ方向を向いていると知ったのは三ヶ月ほど前のこと。尚人にとってそれはもちろん嬉しいことだったが、同時に悩ましさもあった。何しろ、いくら実質的な破たんがはじまっていたとはいえ尚人は当初、栄という恋人がいる状態で未生と関係を持つようになった。一方で未生にとっても尚人が最初から恋愛対象だったわけではない。

 栄を裏切っておきながら今さら自分が未生のもとに戻るようなことがあって良いのだろうか。栄との生活の行き詰まりから逃げるようにのめり込んだ未生との関係を、今度こそ健全な恋愛として進めることは本当に可能なのだろうか。

 第一、尚人自身はこの半年間自立のための努力を続けてきたつもりだが、いざ恋人同士になったところで本当にきちんと――今度こそ過剰に依存することも自分を見失うこともなしに未生とやっていけるのか、自信ががない。

 未生もまた、過去や現在の家族関係を発端として極端に歪んだ恋愛観を持っていた人物だ。本人なりにそこから脱却しようとしているのは確かだだが、情操面の未成熟な彼が尚人に対して抱いているというのが本当に一般的な恋愛感情なのか。何より、他人のものを奪うという背徳感や優越感が伴わない関係の中で未生が尚人のような面白味のない人間を求め続けるイメージが湧かない。

 結局のところ自信がないのだ。もう間違いたくないし失敗したくない。未生を傷つけることも嫌だし――何より自分が傷つきたくない。そのためには互いに好意を持っているというだけではまだ何かが足りない。今のままの生温さで、それ以上の感情のぶつかり合いがない状態でうまくやっていけるのならば、尚人は正直それでも構わないと思っている。

 そもそも今日の今日まで尚人は未生が尚人を押し倒そうとするほどまでに肉体関係に執着を持っているとは夢にも思っていなかった。毎週ここにやって来て、慣れない大学生活の愚痴などこぼしつつ一緒に机に向かって、そういう前向きな関係には充実感があったし、未生も同じ気持ちだとばかり考えていた。

 栄との関係の末期にはやや情緒が不安定になっていたおかげで性的にもおかしなテンションだったが、そもそも尚人はセックスに貪欲なたちではなかった。それゆえに正式に付き合ってもいない未生と再会以降性行為がないことも不思議には思っていなかったのだ。

 でも――さっきの未生の目を思い出すと尚人は背筋が震えるような気がした。あれは飢えた獣の目。狩って奪って食らい尽くしたがっている目。酒に酔っていたから悪乗りしたというのではなく、酒のせいで普段抑制していた本音が出たのだろう。そして、短絡的な未生は尚人がセックスをしたがらない理由を、他で発散しているからだと考えた。

 あまりにも失礼な言い方に憤りはしたものの、確かに尚人は未生の若い欲望を見くびっていた。知っているだけでも未生は尚人と関係を持ちはじめる前の短い期間に二人の男女と寝ていたわけだし、それ以外にも奔放な性生活を送っていたことは想像に難くない。

 尚人と寝ている間こそ他の相手の気配はなかったが、それも鈍い自分が気付いていなかっただけのことで実は同時並行の相手がいたという可能性もある――もちろんそれは尚人にとってはあまり愉快でない想像なのだが。

 未生はそんなにセックスがしたかったのか、と冷静に受け止める一方で、それは二人の間に大きな温度差があることを示している。

 特に方向も決めないまま夜道を歩きながら尚人は考える。未生は確かに尚人と寝たがっている。それは尚人のことを好きで恋人として欲しがっているからなのかもしれないし、単に若さゆえ我慢がきかないだけなのかもしれない。一方で自分はどうだろう。

 どうしてさっき尚人は未生を拒んだのか。未生に対して愛情を持っているはずなのに、なぜ抱きしめられて素直に応じることができなかったのか。他の男と寝ているのではないかという疑いを掛けられたことは腹立たしかったが、きっとそれだけではなく――。

 そしてふと思い当たる。

 今の尚人はセックスを、とりわけ未生と寝ることを怖がっている。

 元々の尚人は性欲に悩まされることのないタイプで、浮気相手を探しはじめたのは肉体的な渇き以上に、栄に求められず自分の存在価値に不安を抱いたことが原因だった。だが未生と出会い、未生と寝て、それまで知らなかった自分の姿を知った。

 尚人は確かに未生とのセックスに溺れていた。紳士的で優しさに満ちた栄との行為と、同性異性問わず経験が豊富で享楽的な未生のセックスはまったく違っていた。尚人が恥じらったりためらったり、少しでも痛がる素振りを見せれば必ず立ち止まってくれた栄との行為はひたすらに甘く優しかったが、未生は尚人が泣こうが懇願しようが決して許してはくれなかった。そして――理性の向こう側の景色を見せて、尚人を奪い去った。

 尚人は未生とのセックスに夢中になる一方で変わってしまう自分が怖かった。栄に浮気がばれたあとの一週間、罰のように乱暴な行為を強要され続け、それでも身も世もなく感じて何度も射精する自分を心底恥じて恐れた。

 何もかもが終わりようやく落ち着いた気持ちでいたのに、再び未生に触れられたら自分はどうなるのか。そして――他人のものでなくなった自分を抱いた未生がどう感じるのか。

 尚人は中野通りまで歩き、二十四時間営業のファミリーレストランに入ってドリンクバーを頼んだ。あわてていたから仕事道具はテーブルの上に出したままで、ビジネスバッグの中身はほとんど空だった。仕事で気分を紛らわせることすらできず、かろうじて鞄に入ったままだった読みかけの本を広げるが落ち着かない。

 近くのテーブルでは酔っぱらったカップルが何やら言い争っている。どうやら彼氏が女友達に親しげな態度を取ったことで、彼女が機嫌を損ねているようだった。よくもこんなに喋れるものだと驚かされるほど饒舌に彼女は不平不満を連ね、彼はしどろもどろになりながらも言い訳を続ける。

 一見修羅場のようにも見えるが、正直今の尚人には羨ましく思える。

 栄との関係を通じて、我慢をしすぎるのはいけないのだと学んだ。もう少し構って欲しいとか、優しくして欲しいとか、たまには抱いて欲しいとか、尚人の側から言葉にしていれば変わっていたことはあるはずだ。そして出会った頃の尚人は未生に対しては思い悩むことなく言いたいことを口にして、その気楽さこそが未生に惹かれた理由の一つだった。

 だが、今の自分たちはどうだろう。未生は尚人に対して三ヶ月も我慢を重ねていた。毎週部屋に来てお喋りしながら、本当はセックスがしたいのだと言い出せずにいた。苦手だったコーヒーを最近では美味そうに飲むこともあるが、あれは心の底からの本音なのだろうか。

 結局のところ、好きだとか良く思われたいとかそんな気持ちが生まれればどうしたって自分を抑えてしまう。尚人だって、未生だって。

 尚人は今抱えている不安をどのように未生に伝えればいいのかわからない。勇気を出して伝えたところで理解されないかもしれず、そのときはどうすればいい。未生の気持ちを尊重してセックスに応じさえすれば上手くいくのかと頭をよぎるが、きっとそれも正しい答えではない。

「お客様、お休みになるのでしたら」

「あ、すみません」

 悩みすぎてテーブルに沈没しかかっているのを眠っていると思われたのか、店員が近づいてきて尚人に声をかける。ファミレスでの仮眠は禁止、それくらい分かっている。

 悶々とする気持ちを紛らわすために美味しくもないコーヒーばかり飲み続け、時刻が二時を回った頃にスマートフォンが震えた。

「あのさ、どこにいるの? 俺、出て行くから家に戻れよ」

 未生だった。その声にアルコールの影響は感じられない。すでに酔いもさめてしまったのだろう。

「……言いたくない。屋根のある場所にいるから大丈夫だよ」

 きっと場所を言えば未生はここに駆けつけてくるだろう。だが今の尚人に未生と冷静に話し合える自信はない。とにかく今夜はそっとしておいて欲しかった。

「悪いんだけど、朝までは待つから始発で帰って欲しい。今日はちょっと……顔を見て話をするのは」

 尚人が正直な気持ちを述べると、未生は小さなため息を吐いたようだった。だが、結局はあきらめたように尚人の言い分を飲む。

「わかった。始発で出るけど、ドア開けっ放しってわけには行かないから。合鍵ある?」

 そう言われて初めて自分が鍵の話もしないまま未生を置き去りにしてきたことに気づいた。寝床や朝食よりよっぽど重要な話なのに動揺のあまりすっぽり頭から抜けていた。幸い管理会社からはスペアキーも預かっていて、それは部屋の中に置いたままだった。

「サイドボードの一番上の引き出しの中の、右側にある缶わかる? その中にある」

「鍵かけたらどうしたらいい? ポストに入れようか」

 意図したものかはわからないがその声がやけに冷たく聞こえて尚人はふいに不安に襲われた。三ヶ月も中途半端な状態で放置した挙句に、切実な欲求をぶつければ力任せに腹を蹴って逃げ出す――そんな男をあきらめず追い続けるほど未生は辛抱強かっただろうか。

 尚人が出会った頃の未生ならば、答えは否。

 今は、正直よくわからない。

「……鍵は持ってて」

 尚人はそう答える。せめてもの譲歩、というよりは急に未生の気持ちが離れることに不安を感じたがゆえの狡い言葉だった。部屋の鍵を渡すくらいで少しでも未生を繋ぎとめられるならば安いものだと、そんな計算正しくないとわかっているのに口にせずにはいられない。

 未生はわかった、とうなずく。しかし尚人の動揺を見透かすように最後に釘を刺すことは忘れなかった。

「あのさ、急に来たのは悪かったし、嫌なこと言ったのも謝る。でも、俺が尚人と茶飲み友達になりたかったわけじゃないってのは本音だから」

 居心地の良いモラトリアムはお終いで、結論を迫られている。尚人はそれを認めざるを得ない。

「次……会うときまで時間が欲しい」

 思わず自ら期限を区切り、電話を切る。後に残ったのは不安だけだった。

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