第6話

 夜明けの早さに感謝したことなど人生で初めての経験かもしれない。もちろんそれだけではなく、他人の部屋で一人きりまんじりともせず夜を明かすというのも未生にとっては初めてのことだった。

 夜明けも始発も待ちきれずに四時過ぎには尚人のマンションを出た。いつもは居心地が良いと感じていた部屋なのに、家主がいないというそれだけでまったく違った雰囲気に感じられた。

 尚人から電話で教えられたとおりの場所に入っていた合鍵は、キーホルダーもなしにそっけない金属の細いリングにつながれているだけ。きっと管理会社から受け取ったまましまってあったのだろう。

 未生はその合鍵を使って玄関を施錠し、失くさないよう自分のアパートの鍵と同じキーリングにつける。真面目な尚人のことだから防犯の観点から鍵はポストに入れず持っておいてくれと言ったのだろう。ただ預かっているだけだと頭では理解しているのに、尚人の部屋の鍵が自分の手の中にあるのだと思うと未生の胸はざわめいた。もしもこの鍵を、自由に部屋に出入りする特別な権利とともに与えられたのであればどれだけ嬉しかっただろうか。でもきっと尚人のことだから、次に会ったときには平然と鍵を返すよう言ってくるのだろう。

 蹴られた腹の痛みは消えて、どちらかといえば精神的なダメージの方が大きい。ついでに胸から胃にかけてはむかつくような感じがあり、もしかしたらこれが二日酔いというやつなのかもしれない。ともかく昨日のただ酒が未生にとってとんでもなく高くついたことだけは確かだった。

 どんよりとした気持ちを振り払おうと未生は朝の清涼な空気の中を歩いた。特に面白いものもない住宅街だが、尚人が近くに丸ノ内線の車両基地があると言っていたことを思い出す。場所を検索すると確かに場所はすぐ近くで、方南通りまで出て少し歩けば一ヶ所だけ道路の端が壁になっている場所が見えてきた。目の前にかかっている歩道橋に上がれば地上にずらりとならぶ地下鉄車両が見えて、それは確かに珍しい光景ではある。

 あのときも、不機嫌のままに言い返したりせずに「だったら一緒に見に行こう」と答えていればよかったのだろうか。もしかしたら尚人は今のような生ぬるい関係で満足している――というよりむしろ、こういう関係を望んでいるのかもしれない。

 ままごとだとか茶飲み友だちだとか乱暴な言い方をしてしまったが、要するに穏やかに話をして、たまに一緒に散歩でもして平凡な風景を楽しむ関係。もしも尚人が未生に対してそれ以上を望んでいないのだとすれば、どうすれば良いのだろうか。そういえば、上手くいっていた頃の谷口栄との生活においてもセックスは頻繁ではなかったと聞いた記憶がある。

 栄の存在は今も未生の心には引っかかっている。

 いくら取り繕ったところで、未生が介入したせいで尚人が栄と別れることになったというのは間違いのない事実だ。納得して別れたと尚人は言い張るが、どこまで信じて良いだろう。栄の方から強硬に別れを主張された結果、行き場のない尚人が妥協して未生を選んだという可能性だって捨てきれない。

 たとえ寂しさを埋めるために選ばれたのだとしても、尚人が自分のところへ来てくれたならばそれで構わないつもりだった。だが頭を冷やして考えるうちに未生はよくわからなくなってくる。

 未生がここまで尚人とのセックスにこだわってしまうのはどうしてだろう。もちろん若い性欲を持て余しているからというのは大きな理由だが、もしかしたら、セックスだけが唯一自分が栄に勝てるものだと感じているからなのかもしれない。

 かつての尚人は決して未生に抱かれることを嫌がっている素振りはなかったし、抱けば貪欲なまでに反応した。そして、腕の中で身も世もなく乱れる尚人を見ている間だけ未生の独占欲と支配欲は満たされた。

 まるで尚人が淫乱であるかのような言い方をしたのは悪かった。だが未生は正直、尚人の変わりように戸惑っている。清廉な顔をして押し倒せば蹴り飛ばしてまで拒むのが尚人なのか、それとも腕の中で淫らによがっていた姿こそが本当なのか。

 ――次に会うときまでには。電話口で告げられた言葉にはどことなく悲壮な響きがあった。

 未生はこれ以上中途半端な関係を許さないと意思表示し、尚人はそれに応じた。結論を迫ったことで尚人が腹をくくり、未生との関係を前向きに考えてくれるのならば嬉しい。だが逆効果になる可能性もゼロではないのだ。

 次の約束までの日々は未生にとって辛いものになりそうだった。

「次の約束、か」

 そう口の中でつぶやいたところでふと思う。普段の未生は毎週土曜日にここへ通っている。今回は酔った勢いで予定外に押しかけてしまっただけのことで、つまり次の約束がいつも通りの土曜なのだとすれば、それは明日だ。尚人はそれをわかった上で「次に会うとき」などと口にしたのだろうか。いくらなんでも急すぎるような気もする。

 真意を確認したほうが良いとわかっているが、これ以上急かしてプレッシャーを与えるのも怖いし、だからといって自分から期限を延ばすと言い出すのも癪だ。とりあえず尚人への連絡は先延ばしにして、未生はあくびを噛み殺しながら駅へ向かうことにした。

 睡魔と悩みのせいで、ただでさえ悪い頭がますます悪くなったように思える一日だった。授業はほとんど頭に入らず人に話しかけられても生返事。未生は半分死体のような状態で大学での時間をしのいだ。

 家に帰ってすぐに寝たいのが正直なところだが、夕方からはアルバイトが入っている。だが、いざホールに入ればこういうときの肉体労働は意外と悪くない気もしてくる。朦朧とした状態で動き回っていると余計なことを考えずにすむし、夜半を過ぎれば疲れもピークを超えて逆に目が冴えてきた。

 そして、引き戸を開けて栗原範子が店に入ってきたのはちょうど終電もなくなった頃のことだった。

「笠井くん」

 声を掛けられて初めてその存在に気付き、未生は思わず昨晩の記憶を探った。酔った勢いでこの店でアルバイトをしていることを話しただろうか、それとも篠田あたりから聞いたのだろうか。

 範子は明るく面倒見の良いいわゆる姉御肌タイプだが、未生とは特段親しいわけでもない。急に、しかも一人で店にやって来るのは奇妙に思えた。

「顔色悪いけど昨日は大丈夫だった? お酒苦手って言う割に飲んでたよね」

「大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」

 一人で飲み歩くような女のことを、当然だが未生は好きでない。仕事を理由に放置したいのが本音だが不幸にも日付をまたげば店の客足もピークを超えている。同級生とはいえ一応客であることを思えばそう邪険に扱うわけにもいかなかった。

 範子は未生の腕を引くと強引に隣に座らせ、まじまじと頭の先からつま先まで検分してくる。そして目ざとくも未生の服装が前日とまったく同じであることに気づいたようだ。

「笠井くん、昨日彼女のとこ泊ったんだ。やらしー」

「別にどうでもいいだろ。バイト中だから悪いけど、こんなところで油を売ってるわけにはいかないんだ」

 あけすけな物言いにイラっとした未生は立ち上がろうとするが、しつこく引き留められる。

 不愉快なのは相手が酔っ払いだから。アルバイト先に押しかけてくるような非常識な女だから。そして何より今の未生が一番聞かれたくないことを話題にしてきたからだ。

 確かに未生は昨晩、尚人の部屋に泊まった。ただし尚人は恋人ではないし、言い寄って腹を蹴られただけで色っぽいことなど微塵もさせてもらえなかった。

 だが昨日の飲み会の席で「彼女」の存在を口にしてしまった以上、いまさら真実を告げる選択肢はない。問われれば問われるほど、未生は惨めな嘘を重ねるしかないのだ。