「年の差彼女ってどんな感じ? どこで出会ったの? 仲いい? 話合うの?」
酒の勢いなのか素の性格なのか、範子は身を乗り出して未生の私生活を暴きたてようとした。このためにわざわざアルバイト先までやって来たのかもしれないと想像するだけでゾッとする。
「別に普通だよ。そんなこと話す筋合いないだろ」
話す筋合いがない、というよりは話せないといった方が正確なのだが、ボロを出したくない未生はそっけなくかわす。しかし目ざとい女子の目はそう簡単に誤魔化されてはくれないようだ。
「そんなに警戒しなくたっていいじゃない。八歳差って言ってたよね、けっこう離れてるよなあ。ねえ、バイト終わったらゆっくり話聞かせてよ」
「残念ながらラストまで入ってるから、終わるの朝」
未生がつれなく答えると、それでも譲らない範子は「じゃあ飲んで待ってる」と言い出した。見た感じはそこまででもないが、顔に出ないタイプであるだけで実は相当ひどく酔っぱらっているのかもしれない。
そして事実、彼女はカウンターで朝まで粘った。
「おい、起きろよ。家どこ? タクシー呼ぶ?」
木曜は二次会まで行き、その翌日は大学同期のアルバイト先に押しかけて絡み酒。元気そうに見えた範子の消耗度合いは未生と大差なかったようで、最後の方はカウンターに突っ伏して完全に眠り込んでいた。他の店員が彼女に声を掛けないのは未生の知人だという共通認識が出来上がっていたからで、おかげで未生は範子を放置して帰ることができなかった。
半ば眠ったままの範子を引きずりながら店の外に出ると、朝の光が目に痛い。とりあえずこの女をタクシーに叩き込んで――と考えつつ大通りまでなんとかたどりついたところで、急に範子が目を見開いた。
「……笠井くんの家に行きたい。年上彼女トークを心ゆくまで聞きたい。なんなら写真も見たいし会いたい」
酔っているにしても寝ぼけているにしても、あまりにたちの悪い言葉だった。
「馬鹿言うな。放り出すぞ」
冗談じゃない。ただでさえ嫌いな酔っ払いに絡まれて、しかも家に来たいだと? 未生には範子の目的がわからないから、なおさら気持ちが悪かった。
からかいたいだけなのか、もしかしたら少しくらいは未生に気があるのだろうか。いずれにせよ未生にとって彼女はまったく魅力を感じさせない存在だ。足元がふらついているせいで幾度となく柔らかい乳房が腕に触れるが、不思議なほど気持ちは動かなかった。
これ以上わがままを言うようだったら歩行者に鬼畜と思われてもいいから放り出そう。そう心を決めかけたところで再び範子が言葉を発した。
今度はたったの一言。
「……吐く……」
予告というにはあまりに余裕がなさすぎた。というのはつまり、言葉を口にした次の瞬間にはもう範子は嘔吐していたのだった。
「うわ、マジでゲロ吐きやがった。おい、どうすんだよ」
幸い未生には直撃しなかったものの、範子のブラウスは無残にも嘔吐物にまみれた。よっぽど気分が悪いのか、そのまま下着が見えるのも気にせず地べたに座り込む女を前に未生は正直逃げ出したい気分だった。
幸い未生は汗を拭くためのタオルを持っていて、範子も小さめのタオルハンカチをバッグに入れていた。とりあえずそれらを使って最低限の汚れを拭き清める。
それにしたって、さっきまで隣にいたのは泥酔した面倒くさい女で、今未生が一緒にいるのは泥酔した嘔吐物まみれの面倒くさい女。状況はますます悪化している。こんな汚れた状態でタクシーに乗せてもらえるだろうか。それとも嘔吐物まみれで可哀想ではあるが、始発は動いているから電車で帰らせるか。というか、そもそもこの女の家はどこだ。混乱する未生をますます翻弄するかのように、範子が財布から取り出したカードを震える手で差し出してくる。
「少し休みたい。ここ、近くだから」
それはラブホテルのポイントカードだった。言われて顔を上げると、同じ名前のピンク色の看板が二ブロック向こうに見えている。一見派手でも地味でもない普通の女子大生が、ポイントカードを埋めるほど特定のホテルに通い詰めているのだと思うと奇妙な気分になる。
とはいえ、それとこれとは話が別だ。
「……悪いけど俺、そういうのなしだから」
てっきりセックスの誘いだと思った未生は迷わず断るが、真っ青な顔をしたままの範子は力なく首を振って否定する。
「一人で入るの気まずいからチェックインだけ付き合って。少し寝てから帰る。お金は私が払うし、そうだこのポイントカードはお礼にあげるから……」
「いらねえって」
思わず体を押しのけると範子は再び込み上げる吐き気を堪えるような仕草を見せた。こうなると敵わない。どうせ女など非力なのだから未生さえしっかりしていれば間違いは起こりようもないだろう、そう踏んで仕方なくホテルへと向かった。
さすがに部屋を選んでさようならとはいかず、結局未生は範子を部屋まで送る羽目になる。
部屋の扉を閉めるとすぐに範子はブラウスを勢いよく脱ぎ始めた。一瞬ぎょっとしたものの下に着ているキャミソールはそのままにバスルームへ向かう姿に、彼女が単に嘔吐物のついた衣類を始末したがっているだけなのだと納得した。
範子はシフォン生地のブラウスを洗面台でじゃぶじゃぶと洗い、タオルに挟んでぎゅっとしぼる。女の衣類に詳しくはないが、あれだけ薄い布であれば乾くにもそう時間はかからないだろう。
「……じゃあ、俺帰るから」
未生がそう切り出すと範子は不機嫌そうな表情を見せる。どうやら酔いはまだ冷めていないようだ。
「冷たいな、ここで女の子を置いて帰るなんて。それとも彼女にだけ優しいの?」
「優しくねえよ。現に昨日だって……」
思わずそこまで言ったところであわてて未生は口をつぐむが、範子はニヤリと笑う。
「さては喧嘩したな」
「……」
黙り込むのはもちろん図星だからだ。さすがに、三ヶ月間のお預けに我慢できず押し倒したら腹を蹴られた――とまでは言えないが、未生と「恋人」の間に何らかのトラブルがあったことには気づかれてしまった。
範子は冷蔵庫から水を出すと靴を脱ぎ捨ててベッドに上がる。そして楽しそうに言った。
「年の差って難しいよね。私も最近まですっごい年上の彼氏と付き合ってたからわかる。だから笠井くんと話が合うかなーと思って、押しかけちゃった」
ただ年齢差のある相手を好きになったというだけで共感されるのは正直迷惑この上ないが、範子の言葉が過去形であることは引っかかる。未生と尚人との関係を一般的な男女の年の差カップルと同等に語ることはできないと思う反面、今の状況に不穏なものを感じている未生はネガティブな言葉には敏感だ。
「最近までって……別れたってこと?」
「まあね。元々は高校の頃に通ってた塾の先生で」
「犯罪じゃん」
未生もはっきりと記憶しているわけではないが、高校生と成人のセックスは確か条例に引っかかるのではなかっただろうか。思わず突っ込みを入れると範子はむきになって反論した。
「犯罪じゃないよ、卒業してから付き合ったもん。先生を喜ばせるために絶対受かろうと思ってたから、獣医学部に合格したって報告するときに告白したんだ。年齢も笠井くんたちと同じでちょうど八歳差」
相手が先生。大学合格の報告とともに告白。八歳の年齢差。聞けば聞くほど他人事とは思えない。そんな範子と元恋人がどうして別れることになったのか――それはもしかしたら自分と尚人との関係についてのヒントになりはしないだろうか――未生は思わず前のめりになりながら範子の話に耳を傾ける。
「一年くらい付き合ってたのよ。優しかったし、相手は社会人だからしょっちゅう会えるわけじゃなかったけど、一緒にいるときは優しかったし。こういっちゃなんだけど体の相性も良かったと思う」
「だったらなんで別れたんだよ」
優しくて忙しい年上の恋人。セックスの相性自体は良い。人ごととは思えなかった。そんな風に一見円満な恋人同士が、何が原因で破局するのか――問い詰める未生に範子は白けた顔で言う。
「結婚してたんだよね、先生」
その言葉に未生の中の盛り上がった気持ちも一気にしゅんとしぼんだ。年上の恋人と上手くいかなくなる決定的な条件とか、怒らせるポイントとか、そういった有益な状況が聞けるのではないかと期待していたが、これでは何の意味もない。
「奥さんがいるらしいって聞いて問い詰めたら、なんと二歳の子持ちでした。何で言ってくれなかったのって聞いたら、だって聞かなかったじゃんだって。ずるいよねえ年上って」
そのときの悔しさを思い出したかのように拳を握りしめる範子の姿を、未生は落胆とともに見つめた。第一、若い女の体目的に子持ち既婚の事実を隠すようなクズ男と、クソが付くほど真面目な尚人を同じように考えること自体がナンセンスだ。
「同意求められたってわかんねえよ。大体そういうこというなら俺、寝取った方だし」
思わずむきになって未生はそう言った。もちろん範子は仰天する。
「え? そうなの? 笠井くんの彼女も結婚してたの?」
「結婚はしてないけど同棲してる相手がいた。それを奪ったんだ」
勢いのままに語りすぎる未生に向かって、目を丸くしたまま範子は「根性あるなあ」と羨ましそうにため息をついた。どうやら範子の目的は年上の恋人に翻弄される者どうしで傷をなめ合うことだったらしい。
未生自身も根性があるどころか尚人にこの上なく翻弄されている状態なのだが、面倒なので範子にそんな話はしない。
「そういうことだから別に栗原さんと共感できるような話もないし、俺、帰るから」
そう言って背を向ける未生に、範子は冗談めかして笑った。
「固いこと言わずにここで寝てけばいいのに。彼女だって浮気してたんだから、多少のことは見逃してくれるんじゃないの?」
その言葉に未生は動きを止める。
未生は尚人に、自分以外と寝て欲しくはないと思っている。別れる前のことだとわかっていても、尚人と栄とのセックスの事実を想像するだけで嫉妬に狂いそうになるくらいだ。だが、尚人はどうだろう。
「……もしかしたら、そうかもしれないけど」
未生の奔放な生活のことをかつての尚人は知っていて、特に何も感じていないようだった。あの頃の尚人は栄以外に目もくれない状態だったのだから無理もない。だがあれはもう一年半も前のことで、今の尚人がどう考えているかはわからない。
未生が他の男女と寝たら、そのことを知ったら、尚人はどんな顔をするだろうか。できれば嫌がって傷ついてくれればいいと願い、一瞬、ほんの一瞬だけ未生の心にはそれを試してみたいという悪戯心が湧き上がる。
でも――それで尚人が傷つくのだとしたら――?
そこで未生の心は冷静さを取り戻した。今の未生が望んでいるのはそんないびつな形で尚人の気持ちを確かめることではない。だから未生はこれ以上範子の方を振り返らず、ドアノブに手を掛ける。
「じゃあな。寝ゲロで窒息するなよ」
「サイテー」
飛んできた枕を軽やかに避けて、未生はホテルの部屋を後にした。