第8話

 念のため六時過ぎまでファミレスで暇をつぶした尚人はおそるおそる帰宅したが、未生の姿は部屋になかった。以前の未生だったらこういうときには講義などかなぐり捨てて尚人を待ち伏せていただろうから、ちゃんと約束通り大学に向かっただけでもずいぶん大人になったものだ。

 寝室を確かめると、押し倒されたときのへこみこそ残っていたもののベッドが使われた形跡はない。未生は床で寝たのだろうか、それとも尚人と同じように一睡もしないまま朝を迎えたのだろうか。そんなことを考えながら尚人はシーツを手で引っ張り寝具をきれいに整える。昨晩の痕跡など消してしまいたかった。本当は痕跡だけでなく、記憶ごと。

 ファミレスを出るときには確かに眠気を感じていたはずなのに、家までの道を歩く間に目が冴えてしまった。このまま夜まで起きていられるならば良いが、きっとそう上手くはいかない。今日は昼過ぎから冨樫と打ち合わせをして、夕方から授業が二件。今から三、四時間仮眠を取っても十分間に合うだろうだろうと思った。

 一晩外で過ごした体でベッドに入るのは気がとがめて、着替える前にシャワーを浴びることにする。

 熱い湯を浴びながら朝の光の中で自分の裸体を目にすると奇妙な気持ちに襲われる。特に鍛えてはいないが、痩せ型であることとまだギリギリ若いといえなくもない年齢に助けられてか特に弛んではいない。腹や腿など服で隠れている場所は白く、駅から生徒の駅へ向かう間など外歩きの機会は多いので首や手先は少し焼けている。ともかくこれはただの平凡地味なアラサーの男の体で、わざわざ押し倒してまで欲しがるようなものとは到底思えないのだ。

 未生が尚人を欲しがってくれる気持ちを疑うわけではない。けれど尚人が知る未生が過去に寝た相手がいずれも若くて容姿に優れていたことを思うと、哀れな人間に欲情するという歪んだ性癖を克服した未生が尚人を求め続けることは不思議に思えてくる。

 そういえば尚人が最後にセックスをしたのは一年以上前、相手は栄だった。その後は週に一度か二度ほど自慰をするだけ。それもできるだけ相手や行為を思い浮かべないように、ただ溜まったものを出すことだけに集中した。栄を想像するのはもちろん、未生を思い浮かべるのも当人たちに失礼な気がしていたし、生々しい想像でせっかく落ち着いた性衝動に万が一再び火がついたとして尚人はその熱をおさめる方法を知らない。だからできるだけ刺激しないよう過ごして、実際にセックスは尚人から遠いものになったのだ。

 だが尚人はつい数時間前の電話で未生に、次に会うときまでに結論を出すと約束をしてしまった。結論というのはもちろん未生との関係を進めるか止めるかで、すなわちそれは未生とセックスをするか否かと同じ意味を持つ。

 未生の中に恋愛感情とセックスが完全に一体のものとして存在する以上、「好きだけどセックスはちょっと待って欲しい」というような言い訳は通用しない。例え今回はなんとか口先でごまかしたとしても、そんなのただの先延ばしに過ぎずセックスの問題は遠からず持ち上がってくるだろう。

 今さら何をもったいぶっているのかというのは未生の本音なのだと思う。あの時期の尚人がほとんど我を忘れたような状況で未生と抱き合っていたことを思うと、今の尚人の潔癖な生活が信じられず他の相手の存在を疑ってしまうのは多分自然なことなのだ。

 尚人は戯れに指にボディソープを垂らし、自分の後ろに触れてみる。長いこと性行為に使っていない場所は固く窄まって少し触れたくらいでは何の反応も示さない。

 やけくそな気持ちもあった。ここに触れて感じることを思い出せば、難しいことを考えず未生を求めるような気持ちにもなるのだろうか。ぬるつく指でさするだけでは特に快感らしきものは湧かないが、時間をかければ綻んでくる。くるくるとマッサージするように指先を動かして、少しずつ力を入れるとやがてそこは口を開いた。

 そこで尚人ははっとした。今は徹夜明けの朝で、昼から仕事で、その前に少し仮眠を取るつもりでいるのだ。風呂場で自分の後ろを弄っているような場合ではない。尚人はひとり顔を赤くしてボディソープを洗い流すと、逃げるように風呂場を出た。

 未生は毎週の習慣どおり、明日ここに来るつもりなのだろう。つまり尚人はそれまでに結論を出さなければいけない。というか、未生と離れたいと思っていない以上セックスをする以外の選択肢はないのだ。

 未生と寝るのが嫌だというわけではないから一度抱き合ってしまえばなんてことないのかもしれない。それにしても性欲だけを理由に抱き合っていた頃と比べてどうしてこんなにもセックスを重く考えてしまうのか。いい年をして思春期のように戸惑っている自分に尚人は心底うんざりした。

 しかし土曜日、夕方まで待っても未生は来なかった。いや、来ないどころか連絡のひとつもなかった。

 木曜に来たからその分今日はキャンセルというならそれでもいい。尚人だってあと一週間の猶予があるならそれはそれで嬉しい――いや、ほぼセックスへの覚悟を決めていた分拍子抜けはするが、ともかくまあそれでもいい。だがいつもの到着時刻である十一時を過ぎても未生は現れないし、昼を過ぎてもインターフォンは鳴らなかった。

 あんなことがあった後だからこそ、尚人は考えを巡らせてしまう。ただ拗ねているだけならばまだいいが、今さら体の関係をもったいぶるような相手が面倒になり愛想を尽かされてしまったのだろうか。不安は時間の経過に比例して大きくなった。

 我慢できず昼を過ぎた頃に「今日は来ないの?」とメッセージを送ったのだがいくら待っても開封マークすらつかない。そこで電話をかけてみるが、呼び出し音は鳴るものの応答はなかった。

 もしかして着信拒否――いや、未生の性格的にそういった陰湿なことはしないだろう。さんざん考えた挙句に尚人は、もしかしたら未生は体調を崩しているのかもしれないという考えにたどり着く。

 日々アルバイトと大学で疲れているようだったし、週に一度はここまで片道二時間かけて来てくれる。たまには自分が未生の部屋に行こうかと申し出たこともあるのだが、人を上げるのは気がとがめるような安アパートだからと断られた。

 ともかく若くて元気だからと軽く考えていたが確かに最近の未生は疲れていた。しかも初めての一人暮らし。あまりに遠い記憶で忘れていたが、尚人自身も上京して間もない頃は慣れない家事や一人の時間の長さにストレスを溜めていた。初めて一人で風邪を引いたときなど寂しさと不安でふと熱に浮かされながら「このまま死んだらどうなるんだろう」などと考えてしまったくらいだ。

 まさかとは思うが――でも、栄が倒れたときだって前触れなどほとんどなかったのだ。あのときはまだ人前だったからすぐに対処してもらえたが、一人暮らしの未生が家で倒れようものなら見つける人間はいない。

 九十九パーセントただの考えすぎだとわかっていたが、尚人はそれでも動かずにはいられなかった。とりあえずアパートまで行ってみて、勘違いならそれでいい。バッグに財布と、それから病人の役に立ちそうなものを闇雲に放り込む。水のボトル、風邪薬、マスク、解熱剤、キッチンに残っていた食料……。そして部屋を飛び出した。

 スマートフォンの充電が切れそうなことに気づいたのは電車に乗ってからだった。未生から連絡が来るのではないかと朝からずっと画面を見ていたから思いのほか消耗していたようだ。あわてていたからモバイルバッテリーは仕事用の鞄に入れたまま、部屋に置いてきてしまった。

 尚人はメモ帳とボールペンを取り出して未生の住所と電話番号を書き付けた。これで電池が切れても最低限未生の部屋にたどりつくことだけはできるだろう。実際それは賢明な判断で、津田沼を過ぎる頃にスマートフォンの画面はブラックアウトした。

 いかに普段の生活をスマートフォンに頼り切っていたか思い知ったのはいざ駅を出てからだ。住所を書いたメモを手に、しかし東西南北のどちらへ進めば良いかもわからない。一体地図アプリのない時代は自分はどうやって初見の場所にたどり着いていたのか、考えてみるがもはや思い出すこともできなかった。

「すみません」

 最終的に思いついたのは原始的かつ若干気が引ける方法――尚人は駅前の交番に入った。スマートフォンの普及で道案内ニーズはずいぶん減ったのだろう、警官は若い人間が道を聞きに来たことを珍しがりながらも親切にバス停の場所と、そこからの道のりを教えてくれた。

 尚人は警官にもらったメモを握りしめてお使いをする子どものような気持ちでバスに揺られた。手書きの地図ではやはり完全とはいかず、道行く人や通りの店で訊ねながらようやく未生のアパートを見つけたときには家を出てから二時間半が経過していた。

 訪問されるのを嫌がるのだからよっぽど古い物件なのかと思っていたが、未生が住んでいるのは十軒ほどのワンルームが入っているであろうごく普通の学生用アパートだった。集合玄関式のエントランスはないのは尚人に取っては好都合で、部屋番号を確かめながら外廊下を進む。未生の部屋は一階一番奥の角部屋だった。

 表札がないので何度もメモした部屋番号を確認してからインターフォンのブザーを押すが反応はない。まさか尚人の連絡を無視してどこかに出かけているのだろうか。それともまさか返信もできないような状態で部屋の中倒れているのか。応答がないことに不安を覚えて何度もブザーを押す。

 五回ほど繰り返したところで不意にドアが内側から勢いよく開いた。

「ったくうるっせえなあ。新聞は読まないしテレビは持ってねえから!」

 そう言って不機嫌な顔をしているのは未生。下着一枚で、髪はぼさぼさ。だらしのない格好ではあるが病気といった風ではない。

「なんだ、いたんだ……」

 思わず安堵の声を上げる尚人に、未生の表情は固まる。

「尚人、何でここに?」