元気そうな未生の姿を目にして尚人は拍子抜けした……と同時に胸の奥にもやもやと面白くない気持ちが芽生えるのを感じる。それをぐっと飲みこむのは、理不尽な感情だと自覚しているからだ。
「ごめん……もしかして、寝てた?」
本当は電話にも出ずメッセンジャーアプリの返信もしなかったことを責めたい気分であるのを押し殺して、心にもない謝罪の言葉を口にする。言葉にして約束を交わしたわけでもないのに、未生が今日も来るだろうというのは尚人の勝手な思い込みだった。数時間連絡がつかないくらいで病気の心配をして駆け付けたのも同じく一方的な早とちりだ。
何より、夜中に突然やって来た未生に対して歓迎しているとは言いがたい態度を取ったのはほんの数日前。確かに平日の夜中か休日の夕方か、まったくの予告なしか事前に連絡を取る努力をしたかの差はあるけれど、この状況は先日の逆パターンと言えなくもないわけで、だからこそ尚人は未生に向かってはるばる遠距離着てやったことに感謝しろと詰め寄ることをためらうのだった。
「うん、寝てた。今日も朝までバイトでさ」
完全に覚醒していないのか未生は眠たげな目をこすりながら答える。
木曜の晩の未生はあんな遅い時間にやって来て、ろくに眠らないまま金曜は始発で帰って大学の授業に出ている。その後、夜通しアルバイトをしていたのだとすれば、疲れているのも尚人からの連絡に気付かないほど熟睡しているのも当たり前だ。未生が週末の夜に集中してシフトを入れていることを知っているのに、そんなことにも思いが至らなかった。
ふと一昨日の夜、散らかった部屋に未生を上げるかどうか迷ったことを思い出す。未生があのときのことを根に持っているとすれば同じことをやり返されたって文句は言えないのかもしれない。勝手な妄想にあわてふためいて、こんなところまでやってきて――それが未生のためになるのだと思い込んでいた自分は馬鹿みたいだ。
しかし、確かに驚き戸惑ってはいる様子ではあるものの未生はすぐに尚人を部屋に招き入れた。
「とりあえず、上がれよ。狭いし汚いけど」
「ありがとう」
拒まれなかったことに安堵しながら尚人は靴を脱いだ。服は休日用のカジュアルなシャツにチノパン、なのに足元は仕事用のビジネスシューズ。あわてて出てきたとはいえちぐはぐな組み合わせに今さら気付いて恥ずかしさを覚える。栄ほど入念にコーディネートを気にする風ではないが、未生の着こなしはいつも若者らしく垢抜けている。内心では変な恰好だと呆れられているかもしれない。未生の態度に不安を感じているからか、いつも以上に自意識過剰になってしまう。
未生の部屋はミニキッチンにリビング兼寝室のワンルームがついた、いかにも学生用賃貸といった風情の物件だった。尚人も学生時代――栄に誘われて麻布十番に引っ越す前は、大学近くの同じような間取りの部屋に住んでいた。だが都内より多少地価が安いせいかこの部屋の方が幾分面積に余裕があるようにも見えるし未生がいうほど狭くも汚くもない。正直汚いというよりは、最低限の家電の他に机と椅子、そして寝具しかない部屋は殺風景といった方がふさわしい。
キッチンの隅にはゴミ袋。中身はペットボトルや弁当の空き容器ばかりで、ピカピカのキッチンにも自炊をしている気配はない。机にはラップトップと、周囲にはたくさんの付箋がはみ出した大学の教科書が乱雑に散らばっている。だがそれは家でも真面目に勉強に取り組んでいる証拠で、尚人にはむしろ好ましく感じられた。
尚人は目の前の裸の背中をぼんやり眺める。冷房の入っていない蒸し暑い部屋の中で、未生は半裸で寝ていたのだろう。
そういえば二度目に会ったときだったか、最初に体の関係に誘われたときも未生は風呂上がりで、裸の上半身に尚人は思わず目を奪われたのだった。セックスレスに悩み体の渇きを持て余していた尚人を未生は「もの欲しそうな目をしている」と揶揄した。
だとすれば今の自分はどうだろう。尚人はあの肌の手触りも、あの腕に抱かれる感覚も知っている。こうして近い距離で素肌を目にしていると、忘れかかった未生の熱さがぼんやりと蘇るようだった。
触れたいといえば触れたいのかもしれない。でもその先は――?
不埒な考えが漏れたとは思いたくないが、未生は床に脱ぎ捨ててあったTシャツを拾い身にまとうと、客人に気を遣っているのかエアコンのスイッチを入れた。心を惑わせるものが目の前から隠されたことに、尚人はほっとしたような残念なような複雑な気分になった。
「座るとこ……ないな」
さっきまで寝ていたのであろうくしゃくしゃのタオルケットがかかったマットレスと、デスクチェアを見比べて、未生は少し困ったようにそう言った。フローリングの床にはラグの一枚もなく、クッションや座布団といったものも存在しない。そもそも他人の来訪を想定していない部屋に、来られても困ると話していたのはこういう意味かとようやく合点する。
だが来てしまったものは仕方ないので尚人は少し迷ってフローリングの床に直接座ることにした。家主を差し置いて椅子に座るのも気が引けたし、かといってついさっきまで未生が寝ていたマットレスに座るのも生々しい気がしたのだ。
「え? 床でいいの?」
「うん。むしろひんやりして気持ちいいくらい」
会話はどこか空々しく、互いに緊張しているのがあからさまなのは会うのが一昨日の今日だからで、その上想定外のシチュエーションだからでもある。未生は尚人が突然ここにやってくるとは思っていなかっただろうし、尚人だって部屋を訪れてから先のことなど何も考えていなかった。
床に座った尚人を置いて未生はキッチンへ向かうと、水の入ったペットボトルとグラスを持って戻ってきた。
「お茶もコーヒーもないから悪いけど水で。……あ、何これすっげえ着信。あれ、もしかして尚人、このせいで?」
グラスと水をデスクに置いたところで、その隣にあったスマートフォンに目をやった未生は驚いたように顔を上げる。ようやく尚人からの着信に気付いたようだ。未生の体調不良が杞憂に終わった今となっては恥ずかしいばかりで、尚人は小さくうなずいた。
「いや、なかなか返信がないし、そもそも今日来るつもりなのかもわからなかったから……具合でも悪いのかと思って。早とちりして、ごめん」
「別に謝ることないだろ。正直俺も今日どうするかは迷ってたし」
どちらともなく視線を逸らすのは「次に会ったとき」という言葉を過剰なまでに気にしているから。そして今がその「次」なのか、果たしてそうではないのか――多分未生も尚人もまだ決めかねている。
押しかけるのならそこまで考えておくべきだった。いや、未生の手を離す気がないのであれば答えなどそもそもひとつしかないはずだ。でも、答えを委ねられた状態で尚人はまだ惑っている。自分から答えを出すことはいつだって難しいし、色事となればなおさらだ。
押されて勢いに負けたふりで折れる方がよっぽど簡単で、だったら木曜に下手な抵抗などせず未生の思うようにさせておけばまだ楽だったのかもしれない。だが、そんな風に人任せにしたくないからこそ尚人は時間を掛けることを選んだわけで、この三ヶ月はただ会ってセックスするだけではわからなかった部分まで未生のことを知ろうとした。
出会った頃は年齢より大人びた印象だったが、素の未生は年齢なり――ときにはそれ以上に幼く思えるような素朴な面を持っている。さんざん悩まされた短絡的で感情的な性格については自覚して、少しでも改めようと努力しているらしい。いい加減に見えてやると決めたことはきちんとやるたちで、文句を言いつつも大学の授業には真面目に取り組んでいる。
そんな未生の姿を見ているうちに、かつて同情を理由に彼の手を取ることに躊躇したことすら馬鹿らしく思えてきた。未生は尚人よりよっぽどしっかりしているし、過去の過ちから学び、家族や他人との関係も自分自身の生き方を見直そうとしている。そして、そんな未生に尚人はより惹かれ、自分の気持ちへの自信が増す一方で未生が本当に自分を選ぶ気なのかということへの不安は強くなった。
自信のなさから言いたいことが言えず失敗した辛さはまだこんなに強く残っているのに、付き合う前から同じことを繰り返しているのは滑稽だ。だが栄との別れから一年もたたないうちに中途半端な覚悟で未生と関係を持ち、再び傷を作りたくはない。
「別に具合が悪いわけでもないなら、良かった。寝不足で疲れてるところ邪魔しても良くないし、今日のところは帰るよ」
重い空気に耐えきれず尚人がそう言うと、未生は狼狽した。
「え? せっかく来たのにもう?」
「うん。ちょっと早とちりしただけで……この間のことも本当はもう少し時間が……」
時間をかければかけるほどこじれるのはわかっている。でももう一週間だけ時間が欲しいというのが正直なところだった。
「もう少しって、それなら仕方ないけど」
引き留めるそぶりを見せた未生も、話が例の件に及ぶと急に弱腰になる。
少女のようなことを言うつもりはないが、結局答えをだす――セックスする関係になることに同意しない限り未生にとって尚人と一緒にいる意味はないのか。だとすればセックスで未生を落胆させればそれまでなのか。重苦しい気持ちで、尚人はここに来たことを後悔した。
悪いのは自分だ。きちんと答えを出せないまま未生に会ったって何も解決するはずないのに。それでも未生が心配だった。いや、返事がないからとか倒れているかもとかそんなのただの言い訳で、本当は何でもいいから理由を付けて尚人はただ未生に会いたかった。臆病な自分を守りながら未生に会う口実を探してその結果が「病気かもしれない」「倒れているかもしれない」などという陳腐なものだった。でもそんな気持ちはきっと未生には理解されない。
未生もそれ以上引き止めようとはしないので尚人は立ち上がろうと床に手をつく。ちょうどその指先に何かが触れた。マットレスの横、脱ぎ捨てられたままの未生のデニムのポケットから飛び出したであろう紙切れ。何気なくそれに目をやって――。
「……あ、それ!」
未生があわてた顔をするから、思わず拾い上げてまじまじと見つめてしまった。何の変哲もないピンク色の、二つ折りのカード。表面には妙にファンシーな店名と会員証であることを示す文字列のみ。何気なく裏返すと〈溜めてお得! 十ポイントでご休憩一回、二十ポイントでご宿泊一回無料!〉というポップな文字が躍っている。
「ご休憩、ご宿泊……」
「ちが、尚人それ違うから」
他人のものを勝手に見てはいけないとわかっていながら、尚人はゆっくりとカードを開く。二十ポイントのところまでスタンプはいっぱいに押されていた。つまり、これは。
「……宿泊一回無料分」
尚人の呆けたようなつぶやきに、未生が脱力したように大きなため息をついた。