第10話

「尚人、ちょっと待って」

 完全に想定外の出来事を受け止めきれず手の中のカードをじっと見つめている尚人に向かって未生は焦ったように声を上げた。待てと言われても尚人はただ呆然としているだけなので、何を待てばいいのかわからない。

「何か誤解してるかもしれないけどさ、そのカードのことは……ちょっと落ち着いて俺の説明を聞いて」

 落ち着いて、という台詞は尚人よりもむしろ未生自身に向けているかのようだった。そして当然の話ではあるが、焦りというのは後ろめたさと密接に結びついているものだ。

「説明って……」

 率直に言って、尚人はその先を聞きたくないと思った。だって、この紙に書いてある事実以外に一体何があるというのか。二十ポイント溜めると宿泊が一度無料になるラブホテルのポイントを未生はカードいっぱいに溜めていたというのは間違いのない事実。彼がこの手の場所に慣れているのはわかりきったことだし、そんなこと今さら言い訳する必要もない。

 だが未生は尚人の認識に真っ向から対抗しようとする。

「それは俺のじゃなくて、貰ったっていうか押し付けられたっていうか。とにかく違うから!」

 貰った、押し付けられた……尚人にはその意味がすぐには理解できなかった。あまりに動揺しているからか普段から回転が速いとはいえない頭がますます動きを遅くしているようだった。

 未生の言葉を何度も反芻して尚人はようやくひとつの答えを出す。顔を赤くして未生が熱心に訴えている内容はつまりのところ……。

 

「未生くんは、このホテルには行ってないっていうこと?」

 誰かにカードを貰っただけでそのホテルと未生の間には一切の関係がなく、ゆえにそこで誰かと寝た事実はないと、そう言いたいのだろうか。ところが未生はさらに首を振って尚人の理解を覆してしまうのだ。

「いや、嘘ついてもしょうがないから言うけどさ、行くことは行ったんだよ。でもそれは道端でゲロ吐いた酔っ払い女を介抱した結果の話で、別にやましいことは何もないから。要するにあの、想像してる……かどうかはわかんないけど、とにかくこれは一切エロい話じゃないってことはわかって欲しい」

「えっと……?」

 理路整然から程遠い未生の釈明に、尚人はますます混乱した。

 未生は一昨日の晩、尚人が他の男と寝ているのではないかと疑い怒りをあらわにした。だがその一方で、自分は女性とホテルに行ったのだという。それは泥酔した女性を介抱するためで、一切尚人が想像するようなことをしていないという未生の言葉を信じるならばそれで終わりだ。だが逆に未生が嘘を付いていて実際はその女――もしくは不特定多数の相手がいるのかもしれないが――このホテルに二十回も通っていた場合、尚人はそれに対してどういう態度を取るべきなのだろうか。

 嬉しくないのは確かだ。というか正直いって悲しい。過去に未生が奔放な性生活を送っていたことを受け入れているつもりでいたが、予想を超えてひどく悲しく腹も立つ。だが、問題はその悲しみや怒りが正当なものでないことだ。だから尚人は身動きが取れなくなる。

 だって少なくとも出会ってから現時点まで、ほんの一瞬だって未生が尚人の恋人であったことなどない。確かに再会したときに好きだという意味の言葉は聞いたが、その答えを保留している尚人に未生を縛る資格があるのだろうか。

 それに何より――尚人自身が、かつては栄という恋人がいながら未生と浮気をした身だ。そんな自分に、恋人でもない未生が他の誰かと寝たからといって責める資格などあるはずもない。むしろ因果応報、自業自得という言葉がふさわしいような気もしてくる。

「……そういうことなら、うん」

 返事をすると同時に手から力が抜け、ポイントカードははらりと床に落ちる。尚人は未生から視線を逸らすと、そのままふらふらと玄関に向かおうとした。

 自分の顔面が蒼白であることも能面のように表情が消え失せているだろうこともわかっているが、取り繕う余裕もない。見つけてしまった浮気の証に等しい品と、未生の一応筋が通っていると言えなくもない言い訳――そして、隠し切れない失望の一方でそんな感情を抱くことは許されないという自制心。ぐちゃぐちゃの気持ちをどう扱えばいいのかわからずとにかく一人になりたかった。

 右足がキッチンに踏み込んだところで、しかし後ろから肩をつかまれる。

「待てよ」

 そんな言葉に従う気にはなれず、尚人は無言のままその腕を振り払ってさらに一歩進む。だが未生は今度は腕をつかんでより強い力で尚人を引き止めにかかった。

「待てってば」

 力でねじ伏せる態度には正直腹が立つ。もしかしたらそれ以外の言葉にできない苛立ちもすべて上乗せしていたかもしれない。ともかく尚人は振り返ると同時に噛みつくように反論した。

「何で待たなきゃいけないんだよ。君の言い分は聞いたんだから、もうそれでいいだろ。それともまだ何かあるっていうの?」

 未生も負けじと言い返す。

「何かあるのはそっちだろ。全然納得してない顔して、何が『そういうことなら』だよ」

 自分の棘のある態度や口調が未生の感情に火をつけたのはわかった。でもこの状況で図星を突かれて平静でいられるほど尚人も人間ができてはいない。全然納得していない、というのが事実であるゆえに尚人は未生の手を振り払う努力をしながら必死に睨み返す。

「そんなの考えすぎだって。未生くんが何もないって言ってるならそうなんだろうし、それに何かあったとしても僕にはそれをどうこう言う権利だって――」

 売り言葉に買い言葉で投げつけた、その最後の部分に未生の顔色が変わった。

「ふざけんなよ! 前々から尚人のそういうとこムカついてて、でもそういう相手に惚れたんだから仕方ないって思ってたけど……こんなの、さすがに我慢できるかよ」

 あまりの大声にぎょっとする。どうして自分が怒鳴られなければいけないのか――だがその理由はすぐに明かされた。

「賢い頭で何を考えてるのかわかんないけど、そういう言い方ないだろ! 俺が何のために三ヶ月もお預け食らってがまんしてると思ってるんだよ。その気持ちを理解した上で他の奴とやっててもしかたない、どうこう言う権利はないなんて、おまえ本気で思ってんの?」

 怒りに燃えた目でそう訴えられて尚人は完全に圧倒されるが、それでも未生の問いかけへの答えはひとつだけ。他の回答など想像もできない。

「だって権利なんかないだろ。僕は君のやることを制限することなんてできな……」

 口ごもりながらなんとかそこまで反論したが、続きは未生の鋭い声にさえぎられた。

「しろよ!」

「え?」

 その意味がわからず尚人は思わず聞き返す。すると未生は身を乗り出して、噛みつくような勢いで繰り返した。

「制限しろよ! 嫌なことは嫌だって言って欲しいんだよ、こっちは!」

 尚人の腕を食い込みそうな強さで握っている未生の手が熱い。それと同じくらい未生の表情も声色も、何もかもが熱を持っている。だが対照的に尚人の心は至って平静――というよりも、未生の激しさについていけず戸惑っていた。

「ごめん全然わからない」

 それが正直な答えだった。だって尚人は未生に対して現時点で何の権利も持たないのに、それでも未生は尚人に彼の行動を制限するような言動を望むと言うのだ。それは尚人の理解の範疇を超えている。

 目を丸くして立ちすくむ尚人に、未生はさっきよりも大きなため息をつく。そして尚人から逃げ出す意欲が消えたと見てか、きつく腕をつかんでいた力を緩めた。

「尚人おまえさ、言っとくけど謙虚も鈍感も度を超せば暴力だからな。つまり俺は……俺のやることでやめて欲しいこととかあったら言って欲しいし、むしろ今みたいに理解ありすぎるよりは、ちょっと束縛するくらいでいいって……言いたいんだよ」

 出だしは威勢が良かったのにだんだん未生の声は小さくなり言葉は自信なさげになる。それどころかひどく恥ずかしそうに耳元を赤らめてすらいる。

 尚人の中ではあくまで、相手の貞操を縛る権利というのは恋人同士や夫婦になって初めて発生するものだった。その概念を覆すような未生の言葉に戸惑いながら再確認する。

「えっと、付き合ってないのに?」

 未生はがっくりとうなだれて懇願するように今度は両手で尚人の手を握る。

「もうさ、順番なんかどっちでもいいから。大体、好きって言ってその場で断られずに時間をくれって言われたら普通期待するだろ? なのに俺が女のいる飲み会に行こうが妬きもしないし。ホテルのカード見てようやく顔色変えたかと思ったらそのまま帰ろうとするし。一体おまえは何なんだよ」

 そこまであけすけに言葉にされて尚人はようやく未生の意図するところを知る。つまり未生は、嫉妬してほしかったと。女性のいる酒の席に行くことを止めて欲しくて、他の人間とホテルにいったことが不愉快ならそう言って欲しかったのだと――。

「要するに、僕が嫉妬すれば良かったってこと?」

 率直な問いを投げかけると、未生はますますがっくりと頭を低くする。

「どうせガキっぽいって笑うんだろ! 当たり前だろ経験値がないんだから。それに、確かに俺は尚人を寝取ったけど、それでも自分が同じことされるのは嫌なんだよ。だから尚人だって過去なんかどうでもいいから、俺にやられて嫌ならそう言って欲しいんだってば」

 未生の訴える内容は、尚人にはひどく勝手なものに思えた。自分は人を傷つけるようなことをしたけれど、同じことをされるのは嫌だと恥ずかしげもなく口にする。果たしてそれが人として正しい態度なのだろうか。でもそう思う一方で――理性を超えた場所、尚人の心の単純でプリミティブな部分は、未生のストレートな感情表現を喜ぶことを止められない。

 振り返れば恋愛なんていつだって正しくないことばかりだった。人を好きになる気持ち自体は崇高であるはずなのに、実際あふれてくるのはわがままで自分勝手でどろどろとした気持ちばかり。でももしかしたら、そんな気持ちを正直にぶつけ合って落としどころを探していく形の恋愛もあるのかもしれない。そう思うと急にすっと心の重石が取れたような気がした。

「前は――」と、尚人は口を開く。

「未生くん相手だと気が楽で、言いたいことを何も気にせず口にできたんだ。だから相手が君だとずっとそういう風にいられるんだとばかり思ってたんだけど……でも君を好きだと思う気持ちが大きくなると、段々言いたいことが言えなくなってきて」

 そこまで言ったところで、未生が俯けていた顔を上げる。

「……待って尚人、今なんて?」

「言いたいことが言えなくなって」

「違う、その前」

「君を好きだと……」

 今度こそ未生は完全に床に崩れ落ち、尚人はわけもわからずただそれを見守った。