第11話

「……それをもっと早く言って」

 脱力したように床に崩れた未生は、死にそうな声で絞り出した。尚人は思わず聞き返す。

「言わなかったっけ?」

「言ってません。聞いてません」

 きっぱりと即答されたので改めて振り返ると、確かに一度も明確な好意を言葉にした記憶はない。そのこと自体に尚人本人も少し驚くが、だからといってそこまで大袈裟な反応をされる筋合いもない。

「でも連絡先を教えて欲しいって言ったのは僕だった。僕が切り出さなきゃ君はあそこでお終いにするつもりだっただろ」

 久しぶりに再会したあの日、未生はそのまま立ち去ろうとした。その背中に追いすがってなんとか糸を繋ごうとしたのは尚人の方だったのに、「好き」の一言を言わなかっただけで薄情者扱いされるのも理不尽に思えた。

 だが未生は未生で納得がいかないようだ。

「そりゃ嫌われてるとは思ってなかったけど、お試しのまま三ヶ月も保留された上に蹴り飛ばされれば自信もなくなるよ」

「それは……!」

 痛いところを突かれて尚人はしどろもどろになった。

「蹴ったのは確かにやりすぎだったけど、そっちこそ急に押し倒してまるでセックスしか頭にないみたいに。それに未生くんみたいにとっかえひっかえしてた人が一年もの間、誰とも何もない方がおかしいんだから、こんなカード見たら……」

 言いながら自分でもまずいとは思った。

 結局こうなる。未生は言いたいことを我慢しないで欲しいというが、正直に心の丈をぶつければこんな風に人格を否定するようなことすら口を飛び出してしまう。何だって言えるのは嫌われても構わないと思っているからで、未生はもう尚人にとってそのような存在ではない。

「やってねえよ! 俺が禁欲するのがそんなにおかしいのか。だったらそっちこそどうなんだよ。この間は腹蹴って誤魔化したけど……」

 勢いよく言い返してきた未生も話が妙な方向に向かい始めていることに気づいたのか、はたと口をつぐむ。そこで二人は顔を見合わせた。

「あれ、つまり何の話だったんだっけ?」

「……ちょっと一旦セックスから離れて話を整理しようか」

 そこでようやく一度冷静になり、尚人と未生は向かい合ってフローリングの床に座り込んだ。もちろんセックスの問題は重要ではあるが、物事には順序というものがあるし、今すべきことは些細な行き違いをあげつらっての口喧嘩ではないはずだ。

「尚人は時間が必要だって言って俺との関係を保留した。そのまま三ヶ月経って、俺が女のいる飲み会に行っても平気だったし押し倒せば腹を蹴ったけど、でも俺が他の奴と寝るのは嫌だし好きだという気持ちはあると」

「うん」

 理路整然と説明されて尚人がうなずくと、未生は眉をひそめて改まった調子で訊ねる。

「それって、何が不満で俺はお預けされてたわけ?」

「不満なんてないよ。ただ毎週会って一緒にいると楽しくて、それで満足だったから、何となくこのままでもいいのかなって」

 でも、そう考えていたのはさっきまでの話で、今目の前で肩を落として完全に脱力した未生を見れば自分が間違っていたのだということはわかる。尚人がぬるま湯の居心地の良さに浸っている一方で、未生にとってそれは告白の答えを保留されたままの居たたまれない時間だったのだろう。

「君が急にセックスの話なんかするから驚いたんだ。それに前の……去年会っていた頃の僕はちょっとどうかしてたから、その、セックスも多分変なテンションで……普段の僕を知ればがっかりさせるかもっていう不安もちょっとはあって」

 そういう気持ちのひとつも伝えず、確かに言葉は足りなかった。反省しているつもりで結局のところ過去の失敗と同じことを繰り返しかけていた。でもそれを言うなら未生だって同罪、とまでは言わないが無罪ではない。

「でも、君だって何も言ってくれないじゃないか。早く答えが欲しいとか、飲み会に行くのをを止めて欲しいとか、言ってくれないとわからない。それに……介抱でも他の人とホテルに行くのは嫌だっていうことくらいは言わなくてもわかって欲しい」

 これで今胸の中にあるもやもやは全部吐き出した。ひどく恥ずかしいし未生がどう受け止めるか不安ではあるが、それでも少し心が軽くなった気がした。そして、険しい顔をしていた未生の表情がふっと緩む。

「まあ、じゃあ今回はお互い様ってことで。俺は賢くもないし大人でもないから、尚人の気持ちを察することもリードすることもできないからさ。いろいろ足りないとこはあるだろうけど」

 和解の言葉に安堵しながら尚人はようやく未生の言葉に滲む卑屈さの意味に気づいた。未生が何に焦っているのか、「誰に比べて」賢くなくて「誰に比べて」大人でないと感じているのか。

「……君は栄を気にする必要なんかないんだよ。全然別の人間なんだから」

 はっきりと名前を出して話すことに躊躇がないわけではないが、尚人はそう告げた。尚人が栄との恋愛の失敗を引きずっているように、未生もまた栄という世間的にはハイスペックすぎる男の影を気にしている。

 でも、それでは意味はないのだ。栄と尚人はお互い頑張りすぎて弱味を見せることができず、それが積み重なって関係がほこびていった。だから自分の格好悪いところや欠点をてらいなく口にする未生のことを尚人は内心では尊敬しているし、自分もできればそうありたいと思っているのだ。

「完全に気にしないって言うのは無理だけど、努力はするよ」

 尚人が訴えたいこと自体は理解できるのか、未生も小さくうなずいた。

「……で、これで今回は仲直りってことでいい?」

 正直これが喧嘩だったのかすら尚人にはわからない。でもやっと言いたいことをお互い告げて、ぎくしゃくした空気は和らいだ。これでひとまず一件落着としたい尚人がそう問いかけると未生はいたずらっぽく笑う。

「仲直りはいいけど、お試し期間は? 俺もうコーヒーだって飲めるようになったんだけど?」

 今度こそ真正面から答えをねだられて、でも言葉にするのが照れくさいから尚人は膝立ちになりゆっくりと手を伸ばす。未生の頰と首筋の境目辺りに触れて、引き寄せて――。

 触れるだけ、でも短くはない。押し当てた唇の感触と体温をじっくり味わってから触れるときと同じ緩慢な仕草で離れると、未生はなぜか目を見開いたまま固まっていた。

 顔どころか耳まで赤らんでいる未生を見て、尚人は思わず噴き出してしまう。

「……どうしたの、らしくもない」

 あの未生が、尚人からすれば百戦錬磨といえるほどの経験を持っている未生が触れるだけのキスに硬直して赤面するなんて。正直天変地異並みの驚きだ。

 尚人の正直な指摘に未生はますます顔を赤くした。

「一年以上も禁欲してたんだから、前と一緒にするな」

 柄にもなくキスひとつに動揺する未生が妙に可愛く思えて尚人は悪いと思いつつも笑いが止まらない。そんな尚人をにらみつけ未生がため息をついた。

「ったく、だから年上はたちが悪いっていうのか」

「何の話?」

 聞き返すと、先ほど尚人が床に落としたラブホテルのカードを拾い上げる。

「これだよ。これ押し付けられたのもそもそもは尚人のせいなんだからな。この間の飲み会で周囲がうるさいから年上と付き合ってるって言ったら、年上男に弄ばれたっていう女に類友だと思われたんだよ。ゲロ吐くまで飲んで愚痴ばっかりこぼしやがって」

 そこまで聞かされてようやく尚人はホテルのカードに関する顚末を理解した。最初からそう言ってくれれば余計な疑いなど持たなかったが、未生もさっきはよっぽど焦っていたと言うことなのだろうか。何より言葉足らずの未生に尚人が怒りを堪えきれなかったのがきっかけでわだかまりが溶けたのだから、これも怪我の功名ということになるのかもしれない。

 未生をラブホテルに連れ込んだ女性に感謝、とまではいかないがとりあえず恨むのはやめておこうと尚人は思う。それに何より気になるのは――。

「年上と付き合ってる、って言ったんだ」

 再び笑いを堪えきれない尚人に、未生はようやく失言に気づいたようだ。

「いいだろ、ちょっとくらい見栄張ったって」

 お試しで保留されてるなんて格好悪くて言えないから……そう拗ねたようにつぶやく未生の耳元に内緒話のように尚人は囁く。

「……もう、堂々と言える?」

「尚人様の許可がいただけるなら、是非堂々と」

 鈍感な尚人にもわかるくらいロマンティックな雰囲気で、このまま手を握るのか再びキスするのかといったところだが、未生はなぜだかそこで眠そうにひとつ大きなあくびをした。

「あー。なんかほっとしたらすっげえ眠くなってきた。もうちょっと寝たい」

 せっかくの甘い空気ががらがらと音を立てて崩れていくのを全身で感じながら、ここ数日の睡眠不足の反動で熟睡している未生をチャイムの音で叩き起こした張本人としては罪悪感もある。

「今日はアルバイトは?」

 そう言いながら時計に目をやると夕方五時過ぎ。普段の未生ならば土曜日は七時か八時からのシフトに入っているはずだが、尚人の問いかけに首を左右に振る。

「さすがに体力も限界だから代わってもらった」

 そして未生は眠そうにマットレスに倒れこみながら尚人を抱き寄せた。

「昼寝は嫌いだって言ってたけど、たまには付き合えよ。で、起きたら夕飯でも食いに行こう。うまい定食屋が近所にあるんだ」

 そう言われて横になると確かにちょっと眠気を感じる。一晩中アルバイトをしていた未生ほどではないが、尚人だってここ数日はあまり眠れていない。

 土曜日の夕方、クーラーの効いた部屋、マットレス、恋人――もう恋人と呼んでいい相手の腕――確かにこれだけの好条件が揃っているのだからたまにはちょっと昼寝するのもいいかもしれない。

「心配しなくても、もう腹蹴られるようなことしないから」

 抵抗しない尚人に向かいそう囁いて、未生はあっさり目を閉じた。唇を押し付けるだけのキスに真っ赤になるほど、一年間の禁欲生活は未生の心を純情にしてしまったようで、だとすればただ隣りで眠るだけという言葉にも嘘はないのかもしれない。

 尚人も少し眠ろうと心を決めるが、いざ横になると目が冴えてくるのはどうしてだろう。あっという間に睡魔は去ってしまい、かといって未生はしっかりと尚人を腕の中に抱いているから抜け出すことはできない。

 この状態でできることは限られているので、あまりしっかり眺めたことのない未生の顔を間近で見て、意外とまつ毛が長いことや、過去に怪我でもしたのかこめかみ近くに小さなケロイド状の傷があることなど尚人はいくつも新しい発見をする。しかしそんなひとり遊びも長くは続かず、未生の温度に包まれているうちに尚人は次第に落ち着かない気持ちになる。というよりむしろ、なぜこの状況で未生が平然と寝ていられるのかがわからなってくる。

「未生くん」

「んー」

 半分寝ぼけているような声は、よっぽど眠いのだろう。だとすればここで起こすのは残酷な気もするのだが、とはいえ言いたいことがあれば我慢するなと釘を刺してきたのは他ならぬ未生自身だ。

「あのさ、眠いとこ邪魔するの悪いんだけど……僕ちょっと……」

「何だよ」

 気持ちの良い眠りから引き戻されたせいで少し不機嫌な未生が薄眼を開けたところで尚人はストレートに告げる。

「したい、かも」

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