第12話

 尚人のやや控えめなお誘いに、眠りと覚醒の半ばにいる未生は少しの間気づいていないようだった。

「尚人、今なんて?」

 ようやく聞き返されたときには妙な間のせいで尚人は正気に戻り、恥ずかしさでいっぱいだった。

「なんでもない、です」

 そうしらばっくれてはみるものの、赤らんだ耳元が嘘だと主張する。未生の腕にぐっと力が込もり、抱き寄せられた尚人は目がくらむような思いだった。

「もう一回聞きたい。お願い」

 耳に唇をくっつけるようにして寝起きのような掠れ声で囁かれれば正気でいられるはずなんかない。目の前には未生の首筋。恥ずかしくて顔を見ることはできないから尚人はそこに鼻先を擦り付けるようにしながら繰り返した――「今、したい」。

 一昨晩には腹を蹴って拒んでおきながら、今度はこちらから欲しがるなんて。わがままや気まぐれに呆れられてしまうかもしれないという懸念は口にするまでもなく消え去る。

「すげえ」

 横向きに尚人を抱きしめていた未生は、するりと体を反転させて尚人を腕の下に組み敷いた。そして何がすごいのかわからず目を瞬かせる尚人に感慨深げに言う。

「尚人からこんなこと言ってもらえるなんて、嘘みたい。俺、死んでもいいかも。って、やる前に死ねないけど」

「……ちょっと。そういう人聞きの悪い冗談、僕は、」

 好きじゃない、と最後まで言い切る前に迫ってくる唇に思わず目を閉じた。さっき尚人からした触れるだけのキスとは違う噛み付くような口付け。まずは呼吸ごと奪うように尚人の口を覆い、それから角度を変えながら唇を舐め、甘噛みしてくる。

 セックスが一年以上ぶりならばキスだって同じだ。さっき軽いキスひとつで赤面した初々しさを長い禁欲のせいだと言ったが、今の未生は追い立てられるような性急さで尚人の唇を求める。まるでこれが現実かどうかまだ疑っているかのように、目覚める前に貪らなければ消えてしまうのではないかと恐れているかのように。

 もちろんそれは尚人だって同じだ。もう三ヶ月も毎週末一緒に過ごして、互いの気持ちを言葉にして、何よりここは人目を忍んで逢引するホテルではなく未生の部屋。けれどそれだけではまだ足りない。

「……ん……」

 自分から口を開いて未生の熱い舌を迎え入れる。一緒に穏やかな時間を過ごすことができれば十分だなどというのがどれほどの欺瞞だったかはこうして粘膜を触れ合わせればすぐにわかる。過去への気まずさ、未来への恐れ、そういったものにとらわれていただけでずっと抱き合いたかったのはきっと尚人だって同じだ。

 夢中で舌を絡めていると、濡れた音と熱い息遣いが頭の中に無性に大きく響いて、一気に高まる興奮は背筋を伝って腰まで伝わっていく。厚い舌を拙くも懸命に吸いながら、尚人は熱を持ち始める部分を未生の腰にぐっと押し付ける。直接的なアピールに応じて唇を離し、尚人の口元を濡らす唾液を舐め取った未生の表情はどこか悔しげに見える。

「何がつまんないセックスしかできないかも、だよ。十分やらしいよ、おまえ」

 そう言って尻のあたりをぐっとつかまれる。尚人の昂りかけている場所が未生のそこに触れ、同じような熱さと硬さに感じるのは戸惑いでなく喜び。とはいえセックスへの欲望を露骨に揶揄される恥ずかしさや不安はある。

 思わず未生の胸を押し返そうとすれば、ごめんごめん、そういうつもりじゃない、とあやすような言葉と再びのキス。

「喜んでるんだよ。だって、相性が良いってことだろ」

 そう言って未生は服の上から尚人の尻を揉んだ。行為がすでにキスの次の段階に向かっていることを認識して、尚人はふと正気に戻る。

「あっ、でも……待って準備が」

「準備?」

 首筋を舐めながら未生は怪訝な声を上げる。だが受け入れる側の尚人として体の準備について無視することはできない。かつて未生と寝るとき尚人はいつも事前に風呂で自らそこをほぐしていた。だが最後にセックスしてからはすでに一年以上。昨日の朝少し後ろに触れてみはしたがそれも指先だけだったし、今日については何の準備もしていない。

 ごにょごにょと不安を告げると、未生はむしろ嬉しそうに答える。

「いいよ、そんなの。今日は全部俺がやるから」

「全部って……」

「まだやったことないこと、全部」

 甘い囁きに尚人は思わず言い返す。

「もう大概のことはやったよ」

 ごくごくノーマルで淡白な行為しか知らなかった尚人の体にあれこれと教え込んだのは他ならぬ未生だ。これ以上まだ何があるのかと腰が引ける尚人に、未生は首を振る。

「そんなことない。俺はひとつも跡付けたことなんかないのに、あんなに見せびらかすみたいに」

 その言葉に、未生が一年以上前に別れを告げた後にコーヒーショップで会ったときのことを覚えている――どころか根に持っていることを知る。マフラーを剥ぎ取られ、首筋に散る赤い跡を見られた。もちろんそれは浮気を知った栄が怒りに任せてつけたものだった。

「それは仕方ないだろ。あのときは……」

「わかってるよ、そんなこと。でも悔しいんだからしょうがないだろ」

 そう言って未生は尚人の首筋を強く吸った。

「あっ……見えるとこは、駄目だって」

 栄に散々跡を残されたのはまだ肌寒い季節だった。でも今は初夏、スーツで仕事をする尚人が首元を隠すのは簡単ではない。一ヶ所だけなら虫刺されとでも言い張れるがこれ以上はいけない。

「じゃあ見えない場所ならいいってことだな」

 尚人の抵抗にあっさり引いた未生だが、次は服の上から尚人の右胸に噛み付いた。

「ん――、あっ」

 意識していなかったが、キスと股間への刺激ですでにそこも凝っていたようだ。布越しに軽く歯を立てられて尚人は悲鳴を上げかけ、ぎゅっと唇を噛む。幸いというか未生の部屋は一階にあるので床への振動を気にする必要はないが、学生用アパートなので壁の厚さは心もとない。

 だが未生はそんな尚人の配慮など無視してシャツ越しにそこを舐め、甘噛みし、存分に尖らせたところで嬉しそうに報告すらしてくる。

「ほら尚人、すっげえエロい」

「……っ!」

 何のことかわからず導かれるままに視線を向けると、唾液で湿って透けたシャツ越しに赤く浮き上がる乳首が目に入る。恥ずかしさにめまいを感じながらしかし尚人の頭の片隅に残る理性がこれではまずいと警告を出す。なぜなら部屋着用のよれたTシャツとトランクス姿の未生と違って尚人は一応外出着姿で、そもそも泊まる準備もしてきていない。

「待って、着替え持ってきてないから」

「洗えばいいだろ、乾くまでは俺の服貸すから」

 せっかく盛り上がってきたところに水を差されて未生は不満そうだ。確かにこれだけ唾液まみれにされればシャツは洗わざるを得ない。だがせめて下だけは、と尚人はあわててベルトに手をかけた。

 ベルトを外しボタンに手をかけたところで焦れた未生が尚人のチノパンを引きずり下ろす。脱いでたたみもせず投げ出しておけば皺になるのは明らかだが悠長に服の始末をしている余裕などどちらにもない。恥ずかしい染みを作らずに済むだけでもましだと自分を納得させて尚人も今度こそ目の前の未生の体に夢中になった。

「ここ、あいつに触られた?」

 未生はしつこく乳首への愛撫を続けながら問う。出来るだけ気にしないようにする、と言ってはおきながらどうしても栄を気にせずにはいられないようだ。

「だから、その話はもうっ」

 触られた。前は感じなかった場所を未生に開発されたのだと言ってひどく怒っていた。でもそんなこと死んだって言えない。正直に口にすれば未生がどれほど嫉妬をたぎらせ、その結果がどのような形で返ってくるか――想像したくもない。

 だが未生は尚人の歯切れの悪い返事から正しい答えを導き出したようだ。ぷっくりと膨らんだ乳首を指先で捏ねながら、今度は鎖骨のあたりを強く吸い上げる。

「いいじゃん、嫉妬するくらい。あいつがしたのと同じこと全部俺にやらせて。で、あいつがやってないことも全部する」

 意地の悪い声はかつての未生と同じようで、けれど前とは比べ物にならないほど甘い。これは他人のものをこっそりと味わい背徳的な喜びを感じていたかつての未生ではない。腕の中の尚人を自らの恋人だと認め、その体にくまなく所有の証を刻み込もうとしているのだ。

「ここは舐めてもらった? あれから」

 下着の上から性器を緩やかに擦られて尚人の喉から耐えきれず喘ぎが漏れる。そこがすでに完全に立ち上がり、布地は色を変えるほど湿っているのだということは見なくてもわかる。

「して、ない」

 答えると、未生は満足そうな笑みを浮かべて尚人の下着を引きおろす。その際ゴムの部分が先端を刺激して、それだけで腰が砕けそうになった。続いて未生の指先は後ろへ。まだ固く窄まった場所に指先を当てて尚人の耳に意地の悪い質問を吹き込む。

「こっちは――あいつ、いつもちゃんと付けてた?」

「……いつもは付けてたけど……君とのことがバレたときはすごく怒ってたから」

「ここに、生で入れたんだ?」

 尚人は小さくうなずく。嘘をつくことなどいくらだってできるはずなのにそれをしないのは、その先が見たいから。傷つけたくないし怒らせたくないし嫌われたくなんかない。でも――もう二度と恋人を裏切ったりしないと決めたからこそ今だけは――未生の嫉妬と独占欲が見たい。そしてきっと未生も同じことを望んでいる。

 未生のまだ乾いた指先が、敏感な場所を円を描くように刺激する。

「で、中に出されたの? ここの奥に」

「そ、そのときだけ」

 そう答えた瞬間、未生の目の奥に火が見えた。苛立ちと欲情。

「じゃあ俺も今日は、付けないから」

 未生は有無を言わさぬ口調でそう告げると尚人の体をぐいと裏返し、腰を高く上げさせた。

「未生くん……っ」

 夏の日は長く、カーテンを閉めているとはいえ室内は明るい。未生は以前も明かりをつけたままセックスをしたがることが多かった。とはいえ明るい中で受け入れる場所をこんなにもまじまじと覗き込まれた記憶はなく、尚人は羞恥に震えた。

「俺もここに全部出すけど、後でちゃんと奥まで洗ってやるからいいだろ」

 栄に許したことはすべて未生にも許されるべきだという子どもじみた対抗心。でも今はチリチリと肌を焼く怒りすら心地よい。奥まで貫かれ揺さぶられ、熱いものを受け止めるところまで思い浮かべて尚人の後ろはひくつき、前は震えて雫をこぼす。とはいえ自ら濡れることのない場所がまだ異物を受け入れるには程遠いことも確かで、尚人はローションでもオイルでもいいので何か潤すものがないか未生に訊ねようと首を後ろに向けた。

だが、その瞬間――。

「うそ、あっ……んっ」

 ぬるりと熱く湿ったものが後孔に押し当てられた感触に、尚人の腰は砕けた。