なんだ、そんなことか――というのが正直な感想だった。と同時にこれで栄の不機嫌の理由はすべて理解できた。
羽多野とロンドンで正式に親密な関係を築くことで職場にあらぬ疑念を抱かれないかという不安に、妹からの目撃情報とやらが上乗せされた結果がこの盛大な八つ当たりというわけだ。
「見られたって、いつの話?」
「伊勢丹にワインを買いに行ったときだと思います。どうやら逸……妹は仕事を早退して新宿にいたみたいで。俺、今年は一時帰国しないって言っていたから」
職場ばれを防ぐためにわざわざ霞が関を通らずに行ける新宿に出かけたのがあだになったというわけだ。とはいえ睦み合っている場面を見られたわけでもあるまい。
「で? 男と付き合ってるのかって妹さんから問いただされたのか」
「まさか。ただ俺と似た人が歩いているのを見たけど、まさか帰国してなかったよね? って鎌をかけられただけです」
「君はなんて返事を?」
「……人違いじゃないのかって。妹も一応は納得してくれたみたいですけど」
栄の妹とやらもデートに向かう途中で急いでいたため、兄と似た男のことはちらりと見かけた程度だったのだという。しかし家族に一時帰国の件を黙っていただけに栄は動転したのだろう。
「気にするなよ、俺のことを何か言われたわけではないんだろう。それに男二人で並んで歩いてるだけで色恋を疑う奴なんてそうそういないさ。特にストレートの人間は」
「……そうですよね」
栄はほっとしたような表情を見せるが、羽多野の言葉は半分は嘘だ。
栄本人は、前の恋人である相良尚人との同居を「大学時代からの親友同士」「相手は経済的に自立できていない大学院生」という理屈で押し通していたようだが、さすがにその後も男とばかり生活を共にしていれば彼の性志向を疑う人間は出てくるだろう。栄の過去も、羽多野の過去も知る人間の少ないここロンドンではまだいいが、帰国するときにはまた一悶着あるに違いない。
* *
なだめてすかして、王子の機嫌はある程度回復したものの寝室への侵入は許してもらえなかった。まさかいい大人同士の付き合いで本気でプラトニックを貫くつもりだとは思わないが、この夜に期待してきただけに羽多野の失望は大きかった。かといって自慰で気晴らしというのもあまりに虚しくて、もやもやとした気持ちを抱えたまま羽多野は朝方まで眠れなかった。
翌朝の栄は気持ちも落ち着き、それに伴い前日の態度を多少は後悔しているようだった。
「……家探し、俺が頼んだエージェントを紹介しましょうか?」
しかし、あれだけひどい言葉で拒んでおきながら今になって機嫌をとられたところで簡単に尻尾は振れない。むしろ意地の悪い気分になった羽多野は、よせばいいのに嫌味で返す。
「いいよ、俺は日系じゃなくて現地の不動産屋で探せるから」
ピキッと、リビングの空気に日々が入る音が聞こえた。
「そうですか、さすが海外生活に慣れている人は違いますね」
硬い表情で捨て台詞を吐いた後はだんまりで目も合わせず、栄は身支度を終えるとソファーの上に合鍵を投げつけて出て行った。
興味もこだわりもない家探しに時間をかけるつもりはなかった。ネットで適当に見つけた物件を扱っている不動産会社に電話をかけると、午後にでも内覧ができるという。三軒ほど見て、栄のアパートメントから一番近いところに決めた。
不動産会社の事務所に行き必要な書類に記入する。もちろんこれで終わりではなく、日本と同じように大家の審査に敷金や保証金、前家賃も払わなければならない。入居は早くても週明けになるとのことだ。
用事を終えると夕方。それから羽多野が足を向けたのは、前回滞在時に毎日と言っていいほど通った場所だった。
地下鉄の駅を出てしばらく歩き、大きな門をくぐる。緑の多い構内を歩き、建物の中に足を踏み入れるのは半年ぶりくらいだろうか
「……タカ!」
ナースステーションの中にいたアリスは、羽多野の姿を見るなり顔を輝かせて飛び出してきた。アリスの恋人であるトーマスは大使館で栄の秘書のような仕事をしているが、羽多野が再渡英済みであることは彼女に伝わっていなかったようだ。いや、もしかしたら栄はトーマスにすら羽多野の話をしていないのかもしれない。
末期がんでこの病院に入院していた元義父に会って、彼が死ぬ前にもう一度恨み辛みをぶつけてやるのが、羽多野が昨年の初夏に渡英したときの目的だった。だが、栄との生活を続ける中で過去にとらわれることよりも、前を向きたいと思うようになった。事情を話さないままに病院に通うことをやめたので、アリスにもずいぶん心配をかけたらしい。
「いつロンドンへ?」
「昨日着いたんだ。君たちにも心配と迷惑をかけたらしいって聞いて、お礼を言わなきゃと思って」
「とりあえず無事で良かったわ。急にぷっつり姿を消すし、サカエの様子は尋常じゃないし」
「はは、たいしたことじゃないんだ。こっちで仕事を見つけて、手続きのために日本に戻ってただけだ。日本からトップアップできなかったせいで電話がつながらなくて」
虚実をとりまぜた言い訳をしていると、通りすがる他の看護師がちらほらと羽多野の方に目をやる。久しぶりに例の怪しい東洋人が現れたとでも言いたげた視線に羽多野が肩をすくめると、アリスは小さく笑った。
「事情があるなら最初から話してくれれば良かったのに。あの人……」
彼女は金色の長い睫毛に縁取られた目を伏せるが、そのことはもうどうだっていい。
「亡くなったんだろう、聞いたよ。でも大丈夫。本心から会いたかったわけはないし……きっと、会わなくて良かったんだ」
「そう」
背後に何か重い事情があることを察して、だからこそアリスは何も言わない。職業倫理ゆえなのかもしれないが、それは羽多野にとってありがたい配慮だった。
ふと、顔を上げたアリスの耳元に美しいピアスがゆらめいていることに気づく。赤いガラスに切り込みを入れた特有の細工には見覚えがある。笠井志郎の前に羽多野が仕えていた国会議員は東京東部を地盤としていて、地元の工芸品である江戸切子のグラスを事務所の応接用に使っていたおんだ。いつだったか支援者に誘われて工房の視察に行ったときに、最近はグラスや器だけではなくアクセサリーも作っているのだと聞いたことがあった。
「アリス、そのピアスきれいだな。もしかして江戸切子じゃないか?」
「名前は知らないけど日本のものね。サカエがお土産にくれたの」
そういえば一時帰国中の栄は、トーマスとアリスへの土産ははずまなきゃとぶつくさ言っていた。羽多野の知らないうちにこんな気の利いた土産を準備していたとは驚きだ。
人に頭を下げるのが嫌いな栄にとってトーマスやアリスを頼るにはどれほど覚悟が必要だっただろう。改めてそんなことを考えながら、羽多野は今朝の大人気ない言動を反省した。
「……俺からも何かお詫びがいるかな」
それは誰に向けたわけでもない言葉だったが、アリスはにっこりと笑って羽多野の肩を叩いた。
「ちょうどいいわ、あと三十分で交代の時間なの。トーマスと夕食に行く約束をしているんだけど、タカも一緒にどう?」
もちろん断る理由などない。
レストランに現れたトーマスは怪訝そうな、というよりは明らかに戸惑った表情を浮かべていた。奥のソファにはアリスがいるが、あえて恋人の隣には向かわずに羽多野の隣のチェアに腰掛けて日本語で耳打ちしてくる。
「いいんですか、谷口さん抜きで」
そう、アリスは今日の夕食に栄も誘うつもりだったようだが、止めたのは羽多野だ。
「いいんだよ、彼は今ちょっとセンシティブになってるんだ。また誰かさんが余計なことを言ったらたいへんなことになる」
「あ……あの話、聞いたんですか?」
羽多野の言葉にトーマスが気まずそうな顔をする。
以前に四人で飲んだときに彼は栄に「羽多野と恋人同士なのか」と訊いたのだという。そっと心に留めていたトーマスの失言について栄がぽつりと漏らしたのは年明けのこと。その場できっぱり否定はしたものの、相当に動揺したらしい。羽多野からすれば、その頃からきっちり意識されていたのだと悪い気はしなかった。
「それはすみませんでした。今後は気をつけます」
「……ちょっと、男二人でひそひそ話なんて感じがわるいわよ!」
二人が顔を寄せ合いひそひそと話をしているのを見て、アリスは面白くなさそうだ。何を話していたのかと問われて、トーマスは言いづらそうに、以前彼が羽多野との関係を疑ったことで栄を怒らせたのだと告白する。しかし日本人――というよりは谷口栄という人間の情緒を多少なりとも理解しつつあるトーマスと比べればアリスはあまりに無神経だ。
「でも、タカはサカエのボーイフレンドなんでしょう?」
栄が耳にしたならば卒倒しそうな台詞を吐いて、一体何がいけないのかわからないという顔をしている。羽多野は今日この場に栄を呼ぶことを断った自分の判断は正しかったと確信した。
「だからアリス、そういうのがセンシティブな話題なんだ。ここだって性志向に対してはいろんな考え方を持つ人がいるだろう。日本は輪をかけて保守的だから」
「だったら日本人の前で話さなきゃいいんじゃないの? 第一、サカエがタカの居場所がわからないって血相変えてた時点で、ねえ」
「いや、それでも……」
職業倫理に関する細やかさが嘘のようにアリスの考えは豪快だ。説得の言葉に詰まり助けを求めるような視線を向けてくるトーマスに、羽多野は首を振る。
「それに実のところ、まだボーイフレンドとしても認められてはいない」
その言葉を聞いたアリスと――今度はトーマスも――の顔面に「理解不能」の文字が浮かぶのが目に見えるようだった。今度は二人そろって羽多野の胸に飛びつかんばかりの勢いで質問をぶつけてくる。
「だったらどうして谷口さんは……」
「意味がわからない! だって栄はタカを追いかけて日本にまで行ったじゃない」
それらの質問には羽多野だってはっきりとした答えを持っているわけではない。何しろ相手はあの谷口栄なのだから。
「それとこれとは別なんだ、多分。俺にもよくわからないが彼の頭の中では」
今の自分に答えうる限りの内容が、それ。しかし苦虫を噛み潰すような羽多野の表情にさすがのアリスも複雑な状況を察したらしい。大きな息を吐いて、羽多野に対する心底の同情を込めた口調で言った。
「サカエってそういう感じに見えないけど、意外に面倒な性格してるのね」
「ああ、まあ……外向きの顔は本当にいいんだけどね」
大正解。羽多野は腕を組んで何度も深くうなずくと、ふと思い立ってトーマスに訊ねてみる。
「ところでトーマス、ツンデレって日本語知ってる?」
「スラングですか? 残念ながらそっちの方面には弱くて」
「いや、いいんだ。スラングっていうか……」
さすがに折り目正しい日本語を学び将来は在英駐日大使のスピーチライターを目指す男に「ツンデレ」はなかったか。羽多野はそのまま話を終えようとするが、自分の知らない日本語の存在が気になってたまらないのか、トーマスはスマートフォンでぽちぽちと検索しはじめた。一方のアリスは日本語を解さないので直接羽多野に答えを求めてくる。
「それ、どういう意味なの?」
「えっと。普段はそっけなくて冷たいけど、たまに優しいところもあるってこと」
穏当すぎるほど穏当にした表現で告げると、彼女の中の栄のイメージとはそぐわないのか、アリスは首を傾げて妙な顔をする。
「サカエがそれだって言いたいの?」
「俺にとってはね」
そう言ったところでひとしきり「ツンデレ」の意味を調べ終えたトーマスが納得した様子で顔を上げた。
「で、その『ツンデレ』な谷口さんが、羽多野さんにとっては『ギャップ萌え』ってことですか」
彼の手の中のスマートフォンには二つの単語が並んで表示されていた。どうやら羽多野はこの真面目な英国人青年によけいな日本語を教えてしまったらしい。