第5話

 楽しい酒の席は、ほどほどの時間でお開きになった。昨日からのもやもやをまだ引きずっている羽多野としては飲み足りない気分だったが、アリスとトーマスは明日も出勤なのだから引き止めるわけにはいかない。

 椅子を立つとき、コートを着るとき、さりげなくアリスに手を貸すトーマスを眺めれば、微笑ましくもうらやましい気持ちになる。インテリ好青年と、ちょっと気の強い美女。まるで絵に描いたようなカップルだ。

「そういえば、トーマスが失言したあの夜だけどさ」

 ふと思い出して羽多野は笑いを噛み殺す。

「俺がアリスに馴れ馴れしかったって谷口くんに指摘されたな。仕事仲間の恋人に変な気を起こすなって叱られたのかと思って平謝りだった」

 目を丸くするのはアリスだ。

「……冗談じゃない。あの日までわたしにとってタカは、毎日病院の敷地内をうろうろしてるただの不審人物だったのに」

「だよな。こんな若くてハンサムな恋人がいるのに、失礼な勘違いだ」

 栄ほどではないものの羽多野だってそれなりに自信家だが、それでも自分がアリスを口説いた場合の勝率くらいは冷静に判断できる。

 しかし、ひとりきり笑ってからトーマスは肘でこつんと羽多野を小突いた。

「それは遠回しなご自慢ですか? 谷口さんが釘を刺したのが私のためだなんて、まさか思っていないでしょう?」

 だったらいいんだけどな、と珍しく弱気なことをぼやいたって今日くらいは許されるはずだ。これから羽多野が帰る先はもちろん栄の家。まったくもって友好的なやり方ではなかったが一応は合鍵をもらったから堂々と部屋に入ることはできる。問題はその先で、さて今夜の王子のご機嫌はいかがだろう。思わず口にしてしまった嫌味がまだ後を引いているかもしれない。

 羽多野にとっても、こういう状況はあまり経験がないものだ。リラは基本的には淡々とした性格で、面倒なことを言わないタイプの女だった。彼女と結婚したがったのは金や地位に加えて、ああいう女ならば一緒に生活する上でのストレスが少ないだろうという打算もあった。実際、羽多野の妊娠能力の問題さえなければ愛はなくとも円満な結婚生活は今も続いていただろう。

 離婚を経験するまでは、羽多野の野心というのは女ではなくもっぱら社会的な成功に向けられていた。自分の男性としての能力に自信を失ってからは反動のように顔も思い出せないほどの男女と関係をもったが、あんなのただのうさばらしに過ぎない。

 遊び相手なら多少のわがままや愚かさもご愛敬だが、継続的な関係に手間はかけたくなかったはずなのに。かつてもっとも嫌いなタイプで、いじめて傷つけて貶めてやりたかった相手が、なんと今では一番甘やかしたい相手なのだ。

「タクシー、アプリで呼ぶ?」

「いや、ひとつ先の通りに出れば拾えるはずだよ」

 自分が欲求不満に鬱々としているだけに、仲睦まじく腕を取り合うカップルを目の前にすれば愚痴のひとつもこぼしたくなる。タクシー乗り場に向かいながら、羽多野は背後からアリスとトーマスに声をかける。

「君たちだってたまには喧嘩したりギクシャクしたりすることもあるんだろう。どうやって仲直りのきっかけを作るんだ?」

「……え? 仲直りって、それは……」

 妙な質問に眉をひそめ、それから視線を合わせて照れくさそうに指先を絡める二人。ほら、フランス人あたりからはロマンティックのかけらもないと揶揄される英国人ですらこうなのだ。

「いいよ。参考になった」

 羽多野は首を振った。実際のところわかっているのだ――過去の経験も、他人の助言も、相手が栄である限り役にたたないということを。

 帰宅すると、ちょうど風呂場から栄が出てきた。ちらりと羽多野の顔を横目で見ただけでリビングを横切り冷蔵庫からビールを取り出す。

「俺にも一本もらえる?」

 声をかけて反応をみる。無視されるかと思ったが、栄は黙ったまま冷蔵庫からもう一本ビールの小瓶を手に取った。羽多野が気に入って飲んでいたIPA。以前は「味が好きではない」と見向きもしなかったのに、そういえば冷蔵庫には半ダースほども買い置いてあった。

 コートを脱ぎ終わる頃に歩み寄ってきた栄がビールを手渡してくる。と同時にふっと鼻先を羽多野の頬に近づける。キスの前触れのような動きに思わず心臓が高鳴るが、一瞬で離れていった栄は苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた。

「アルコールのにおいがする」

 明らかに批判の意図が込められた口調に、その真意はなんだろうかと考える。だがどんな反応をしたところで結局は不正解の烙印を押されてしまうのだろう。

 もちろん今夜の〈秘密会議〉の件は栄には黙っておくつもりだ。トーマスだって進んで仕事上のパートナーとの関係を悪化させたがってはいない。賢い彼は栄の前では今までどおり何にも気付いていない顔を続けるはずだ。

「谷口くんは、いいにおいがする。シャンプー変えた?」

 話を逸らすなと怒られるかと思ったが、栄は何も言わなかった。羽多野に聞こえるか聞こえないかのため息を吐いて、そのままカウチに体を沈める。

「においだけじゃない、酔ってるじゃないですか。変なこと言って」

 怒りより、呆れの方がまだとりつくしまがある。それは羽多野がこの半年で学んだことのひとつだ。ビール瓶を手にしたまま栄の隣に腰を下ろしてため息で返す。

「そりゃ酒くらい飲みたくなるさ。こっちは蜜月気分でやってきたのに、俺の王子はつれない」

「……そんなこと」

「こっちは楽しみにしてたのに空港に迎えにも来てくれないし、家も探せと」

 責めればむきになるとわかっているから、あくまで冗談めかして自虐的に。道化をきどって羽多野は自分がいかに傷心であるかを訴えた。うつむいた栄は両手で握っていたビール瓶から右手を離し、水滴で濡れた手のひらを気まずそうにスウェットで拭う。

「理由は話しました。それに迎えも家も、あなただってあっさり納得したでしょう」

「それって、もっと粘ったほうがよかったってこと? 俺がしつこくすれば君は怒っただろう」

「……ちょっとイライラしていたんです。昨日のことは謝ります」

 昨日よりは落ち着いた状態で、さすがに自分の理不尽さを否定しきれないと思ったのか栄は小さな声で謝った。羽多野は自分の作戦が正しかったことを確信する。

 だが、焦りは禁物。まずはカバンの中から不動産屋でもらってきた書類を取り出し、物件詳細を栄に差し出す。

「俺の契約しようとしてる部屋、見る? ここからすぐ近く」

 栄が職場の手前、羽多野と住居を別にしなければいけないと思いつめていたこと――それと同時に「もう少しごねて欲しかった」と思っていること。それだけわかれば十分だ。

 手にした書類に印刷された間取り図をみて栄は目を丸くする。狭小ワンルーム、しかも半地下。立地こそいいものの、とても稼ぎのあるアラフォー男が住むような物件ではない。家賃だってこのあたりにしては破格の安さだ。

「……なんですかこれ。いい年した大人が住むようなところじゃ」

 からかわれているのではないかと不審そうな顔をする栄の肩に、羽多野はそっと腕を回した。抵抗はない、というかきっと動揺のあまり触れられたことにも気付いてはいない。

「俺がここの家賃を分担せず、名目上別に住んでればいいんだろ? それともこういうところまでお役所の大好きな『実態により個別に判断いたします』って言われるわけ?」

 問題なのは物件の名義と、誰が家賃を払っているか。羽多野はそう判断した。

「つまり?」

「別々に住まいを構えていたって、結果的に恋人の家に入り浸ることなんて、よくあることだろう」

「……ええ」

 曖昧な返事だが、ノーと言わないのはつまり、イエスということだ。

 片付けられた部屋やあらかじめ準備されたスリッパ、ビールなどからして、栄は決して羽多野がここに来ることを嫌がっていたわけではない。そのことが確信できただけで今日のところは十分だ。

 失いかけた自信を取り戻した羽多野は、ここぞとばかりに栄を抱き寄せ髪に口付ける。くすぐったそうに身をよじって、栄は逃げ出そうとした。

「外から帰ってきたままの体で触らないでください。せっかく髪洗ったのに」

 昨日と比べれば圧倒的に弱い抵抗はチャンスの証し。そして「いける」と判断したが最後、羽多野は決してこのタイミングを逃しはしない。

「風呂に入れば触ってもいいってこと?」

「だからそういうのが屁理屈だって……」

 栄はやはり「駄目だ」と断言はしなかった。

 風呂場に行った羽多野は、湯船の縁に二つのラバーダックが並んでいるのを見つける。ひとつはかつて羽多野が買って、日本に帰国する際にも置いていったもの。もうひとつは栄が日本に一時帰国する際に買ってきた「ダッキー二号」。羽多野が今朝荷物から取り出して洗面台に置いておいたのを、栄が風呂場に持ち込んだらしい。

「ギャップ萌えか、まあそういうのも悪くないかもな」

 羽多野は仲睦まじく肩を並べる二つのアヒルにそう語りかけた。