風呂を終えて髪を乾かして、鏡に映る自身の顔をまじまじと見つめてから念のため剃刀を当てた。髭剃りは毎日朝の一度と決めているが、前回だらしない風貌を責められた記憶はまだ生々しく残っている。爪は日本を出る前にしっかり切ってきたはずだが、念には念を入れて両方の指先をもう一度確かめた。
気合を入れ直すように最後に冷水で顔を洗い、浮かんでくるのは苦笑い。まったく、この年になってたかがセックスのためにここまでなんて、まるで童貞のティーンエイジャーに戻ったような気分だ。そんなことを考えながらも、今の自分にとってあの男を抱くことが決してたかがという言葉ですむほど軽くないことはわかっている。
リビングの灯りは消えている。運動の後には喉が渇くと決まっているから水のボトルを一本手にして栄の寝室へ足を向ける。同居していた期間も数えるほどしか入ったことのない部屋。
小さな女の子の手を引くリラを見て言葉にできない激しい感情に襲われたのは秋の日のことだった。約十年ぶりの電話で彼女の声を聞き「末期がんの父に会ってほしい」と恥知らずな頼みを聞かされたときよりもはるかに強烈な衝撃に羽多野は冷静な思考を失った。
リラへの怒りとは違っていた。子どもの存在をうらやんだわけでもない。ただ、すっかり母親の顔をしたリラと手をつなぐ少女が、羽多野がこれまでの人生で失ってきたもの、手に入れられなかったものすべての象徴のように思えたのだ。
少年時代の屈辱。なんとかリラを口説き落として理想の人生に近づこうと必死になった若い日々。子を持つことは困難だと医者に告げられたときのことや、目の前で「娘と別れてくれ」と土下座する義父。そして――政治活動の実務面の多くを頼ってきていたくせにいざとなれば「秘書が」の一言で切り捨てられた失望。
あのときすでに栄に惹かれていた。銀の匙をくわえて生まれてきたような、美しく有能で家柄もよく、しかもそのことを鼻にかけている傲慢な男。そして、家族や周囲や彼自身が作り上げた理想の姿を体現するために努力を惜しまず身をすり減らし苦しみ続ける男。どこまでも憎らしい高慢さと、どこまでもいじらしい実直さを兼ね備えた彼の吐く正論に救われたい。そんな思いも、あの日だけは激情の前に脆かった。
かつて仕事で出会った栄を痛めつけて、なんなら壊しても構わないと思っていたのとよく似た破壊衝動。彼を傷つけて踏みにじることで、もしかしたら少しでもこの苦痛が和らぐのではないか。だから、それまで黙っていた秘密を告げた。
――相良尚人と笠井未生は今では恋人関係にある。
いくら円満に関係を解消したと強がったところで、かつての恋人がよりによって寝取った相手とくっついたと知ってプライドの高い栄が平気でいられるはずがない。相良尚人との交際期間の末期には性生活に困難を抱えていたという栄にセックスの話を持ち出せばさらに深く傷をえぐることだって計算していた。
栄の寝室で、栄のベッドで彼を組み敷いたのはあの晩だけ。屈辱のあまり部屋を飛び出した栄はそれ以降は警戒して寝室に施錠することが増えた。練習を口実に触れることを許されてからも、大抵は羽多野のベッドの上。栄の性格的には彼の個人的な領域に他人が入ることは好まないだろうし、羽多野も一応は後ろめたさを感じているので無理に押し入ろうとまでは思っていなかった。
いざドアの前に立ち、ゆっくりとノックする。返事はない。しかしドアノブは簡単に回った。
栄はベッドヘッドに背中をもたせかけるように座り、本を読んでいた。
「何時間かけて風呂に入ってるんですか」
顔を上げた栄はそう言った。わざとらしいまでに喜びも驚きもない、きっとこれは平静を取り繕おうとしているときの顔。
「君ほど長風呂じゃないつもりだけど」
「今日は相当なものですよ。溺れて死んでるんじゃないかと思いました」
そういえば以前、あまりに栄の風呂が長いから溺れかかっているのではないかと不安になってバスルームまで見にいったことがあった。これはあのときの意趣返しのつもりだろうか。羽多野は笑いながらベッドに歩み寄る。
「君をもう一度抱く前には死ねないな」
栄はあからさまに変なものを見る顔をして、それから照れたように羽多野から視線を背けた。
「……アメリカに長く住むと、そういうことを恥ずかしげもなく言えるようになるんですか?」
「さあ、それはどうだろう」
栄はコンプレックスゆえ羽多野の在米経験を過剰に評価しているが、羽多野が米国で過ごしたのは小学~中学生の三年ほどと、あとは大学以降。思春期的な意味で一番多感なタイミングは日本にいたわけなので自分の恋愛感がどこまで日本的でどこまでアメリカナイズされているのかはよくわからない。ただ、確かなのは栄相手に遠回しな物言いは良策でないことだ。
「君には曖昧なことを言ったって逃げられるからな。誤解の余地もないくらい直接的な言葉を選ばないと、すぐに言葉遊びで逃げられる」
「だからって、あんまりあからさまなのも風情がないです」
栄の手元の本にちらりと目をやる。昨日リビングで読んでいたのと同じものだが、しおりの位置はほとんど進んでいるようには見えない。羽多野が今夜の作戦について風呂場で考えているあいだ、栄は栄でやきもきしていたのかもしれない。
羽多野はベッドの端に腰かけて栄の髪に手を伸ばす。指先でほんの一筋だけすくいとるが、くすぐったそうに頭を振ってすぐに逃げられてしまう。
「まったく、谷口くんを口説くのは簡単じゃないよな」
「だって、あなたなんかに……」
聞かずともわかる言葉の先は塞ぐ。いきなり唇でやると叱られるので、まずは指先で。そして羽多野はふと思い出した文句を口にする。
「蝸牛に口説かれたほうがまだましって?」
「カタツムリ?」
唇に触れる指を鬱陶しそうに振り払い、栄は怪訝な顔をしている。
「のろのろしているけど家を担いでやってくるだけおまえよりまだましだって、求愛を退けるんだ。今度観に行こうか」
身分を隠した男装の姫君が愛する人の言葉をわざと高慢な言葉であしらう『お気に召すまま』の有名な一場面、羽多野はそれを学生時代に授業で読んだことがあった。なにしろここは英国なのだから、シェイクスピアくらい掃いて捨てるほど上演されているだろう。
だが観劇デートのロマンティックなお誘いは、ため息に打ち消される。
「羽多野さんって、たまにそうやって文学的素養をひけらかそうとしますよね。嫌われますよ」
「嫌われるって、誰に?」
「誰にだって」
万事において人の上に立ちたい栄は、自分の知らないことを口にされればそれをマウンティングだと受け止める。だが、恋人のそんな性質を承知した上で羽多野がわざと彼の苦手分野を攻めているのもまた事実だ。
「君にはいつもやり込められているんだから、たまにはいい格好もさせてくれよ。それに谷口くんは前に俺が勧めた本だってちゃんと読んでくれた」
「あれは……」
年末に、羽多野の部屋に栄が持ち込んだ『タイタンの妖女』について遠回しにほのめかすと、栄の頬に紅がさした。フィクションには興味がないと言い、実際に政治や経済の本ばかりで書棚を埋め尽くしている栄がどんな顔をしてあの文庫本を買い求め、どんな顔で読んだのか、想像すると胸の奥がくすぐったくなる。
顔を赤らめたままうつむいていた栄が、ぽつりとつぶやく。
「俺は、あなたから見て〈手近にいて愛されるのを待っている〉ように見えましたか?」
「……むしろ君にとっての俺がそうだったんじゃないかと思ってるけどな」
そう言うと同時に頬に触れ、顔を寄せる。ふわりと香るシャンプーの匂いが栄のものなのか自分のものなのかわからない。いや、どうせこれから絡み合ってひとつになるのならばどっちのものだってかまわない。
申し訳程度の抵抗を押し切って唇を押し当てると同時に、栄の体から力が抜けるのがわかった。