第8話

「だからって、すぐにこんなところを」

 腕の中の栄は明らかに動揺して逃げを打つように体をよじるが、結果的に自らそこを羽多野の指に擦り付けるような動きになる。

「なんだよ、まんざらでもなさそうじゃないか」

「違います!」

 鼻先が触れ合いそうな距離で顔を赤くしてわめく姿は、仕立ての良い細身のスーツを着こなす昼間の彼とは別人のようだ。もしかしたらこういうのもギャップ萌えの一種だろうか――そんなことを考えながらいったん腕をゆるめた。

 気持ちははやるが、あれ以来一度もそこに触れていないという栄の言葉が事実ならば乾いた指先だけではどうにも心許ない。一刻も早く中に入りたいのが正直な気持ちとはいえ、栄を傷つけたいわけではなかった。それに、口は悪いながらも今夜の彼がならば焦らなくたっていいだろう。

 後孔に触れていた手を抜くと同時にスウェットと下着をひとまとめにしてぐいと引っ張ると、栄はぎこちなく腰をあげて協力の意思を示した。

「いい子だ」

 ささやきながら下半身を裸にする。濃厚なキスの名残なのか、わずかに硬さを持ちはじめているペニス。その下の陰毛は前に見たときよりも少しだけ範囲が狭まっているような気がする。考えすぎだろうかと思いながらもまじまじとそこを眺めていると、顔面に枕が押しつけられた。

「何じろじろ見てるんですか、変態」

 相変わらずひどい言い草だ。恋人の性的な場所に興味を示して一体何が悪い。羽多野は仕返しとばかりに栄の陰嚢に手を伸ばし、下から柔らかく握り込んだ。

「あ……っ」

「君が見られるだけじゃ不満みたいだから」

「そういう意味じゃ、なくて」

 だが、何を言おうが言うまいが結局は同じこと。抱きしめて、舐めて、溶かして、挿れて揺らす。せいぜい順番が変わるだけだ。できることならば最後は中にぶちまけてやりたいところだが、前回さんざん叱られたので今回はさすがに自重すべきだろうか。

 袋越しにふたつのふくらみを手のひらで転がしながら反対の手で竿を握る。栄のペニスは敏感で濡れやすい。味気ない下手くそなセックスでもすぐに達することができそうだという意味では、この感度の高さが彼を性的に淡白にしていた要因のひとつでもあるのかもしれない。

 改めて思うが、栄がこの年齢まで自身の体に無自覚だったことには感謝しなければいけないし、彼が最初に出会ったのがあの相良尚人であったことも僥倖ぎょうこうだった。こんな体、ちょっとでも探究心のある相手に見つかっていれば、今ごろ開発され尽くされていた。それほどに栄の体はいじめ甲斐があるし、この性悪な性格に嗜虐心をそそられるのは羽多野だけではないだろう。

「ん……ぁっ」

 ここまでほぼ手付かずでいてくれたことに感謝しながら前を触ってやるうちに、再び栄の吐息が濡れはじめる。と同時に艶かしい姿に羽多野の欲望も昂りはじめた。前への刺激に夢中になっているあいだにじわじわと腰を膝の上まで抱き寄せると、栄の性器は完全に上を向いてとろとろと露を滴らせた。

「後ろは自分でしてないんだよな」

「……言っただろ、してないってば……」

 何度も同じことを聞かれるのが苛立たしいのか、それとも性感を高められ余裕をなくしているのか栄の言葉が乱れはじめる、この瞬間がとても好きだ。羽多野は思わず目を細めた。

 馬鹿みたいに人目を気にして外向きには温厚な紳士を気取っている栄だが、普段から羽多野に対する態度はひどいものだ。そんな中でもギリギリ保っている矜恃なのか、もしくはあえて距離感を保つ嫌がらせのつもりか、慇懃無礼な言葉遣いだけは守り通している。

 だからこそ栄の敬語が崩れる瞬間はたまらない。言うなれば、高慢な姫君のドレスを一枚一枚脱がせて、最後に一枚残した下着を奪い去るような満足感に襲われる。

「こっちは? 毎日するの? それとも週に何度か?」

 気を良くした羽多野が茎を上下に擦ってやると、こぼれてきた先走りが塗り広げられぬちゃぬちゃと濡れた音が響く。卑猥な質問に栄はいやいやと首を振って答えることを拒否する。そんな態度、ますます羽多野を煽る結果にしかならないのにまだ学ばないのか、それともただ余裕がないのか。

「朝? それとも寝る前? この間は後ろを触るところしか見なかったから、今度はこっちもやって欲しいな」

「や、だって。もう、なんだよこのエロおやじっ」

 さすがにまだ意識の残っている状態では、あっさり自慰を見せてくれるような展開にはならない。

「じゃあ、こっちは?」

 まだ着たままの上衣の裾をぺろりとめくると細く締まった腹が現れる。水泳で鍛えた裸の腰をひと撫でして、指先が向かうのは胸。無防備に縮こまった先端を爪先で弾くと栄は体を震わせた。

「……っ」

 服の中に顔を潜り込ませるようにして羽多野は胸元の検分をはじめる。中途半端に高められたペニスをそのままに興味の先を変えられたことに、栄は一瞬泣きそうに表情を歪めて腰を揺らすが、羽多野の手は二本しかないのだから仕方ない。どうしても気持ちよくなりたければ栄だって自分で動けばいいのだ。手で慰めるのが恥ずかしければ羽多野の下腹部に擦り付けるなりなんなり、いくらだって方法はある。

「なあ、こっちも良さそうだったけど全然触ってないの?」

 まるで受け身の行為の象徴であるかのように本人は否定するが、ここが栄の性感帯であるのは確かだ。まだほとんど平らな胸先に指の腹を擦り付けて、押さえつけながら縁を描くように動かしてやると案の定、すぐにぷくりと膨れて赤くなる。

「や、触るなっ」

 尖りかけた乳首を摘もうとしたところで思わぬ反撃にあった。栄は羽多野の両肩を強く押して引き離そうとして――その勢いのまま背中からベッドに倒れ込む。かと思えば、すぐさまはだけた上衣を引き下げて頑なに胸を隠そうとした。

「……谷口くん?」

 勃起してよだれを垂らすペニスをあらわに、胸だけをガードする格好は滑稽でもあり、倒錯的でもある。仰向けに横たわった体を囲い込むようにマットレスに手をついて羽多野が名前を呼ぶと、栄はぷいと顔を背ける。機嫌を取ろうと頬に触れるとすぐさま手の甲をはたかれた。

「どうした、急に」

「こ、こんなとこよりもっと……」

「それは、こっちを触って欲しいっていうおねだり?」

 ぴんと立ち上がって震えるペニスは物欲しそうだが、栄は首を振って否定する。

「そうじゃないけど、でも、こっちは嫌だから」

 とはいえはっきりとした理由も言わず拒まれれば、追求したくなるのが男のさがだ。羽多野はいつかの夜のようにそっと栄の手足の関節を狙って体重をかける。

「羽多野さん……?」

 スウェット越しに胸の辺りをぎゅっと抑えている栄の手、その指にキスを落とす。それからわがままな恋人に笑顔で告げた。

「君と俺は半ば一緒に暮らす仲なのに、セックスひとつまともにさせてくれないのか? 谷口くんがどう考えているかは知らないけど、俺はセックスって恋人同士に不可欠のコミュニケーションだと思うんだ」

 ぐっと引き結ばれた唇に、栄の動揺が見て取れた。

 卑怯な手を使っているのはわかっている。何しろ、他の要因も山ほど積み重なっていたとはいえ栄が相良尚人を失うことになった最後の一撃は笠井未生に寝取られたことで、あの貞淑そうな男がなぜ浮気に走ったのかといえば直接的な原因はセックスレスだった。

 うだうだと言い訳をしながらも、汚い言葉で羽多野を罵りながらも、きっと栄は求められれば最終的には拒めない。セックスレスが恋人の心を遠ざけてしまうことに気づいているから――彼が羽多野のことを手放したくないと思っている限りは多少の強引さは許される。

 そして羽多野は紳士ではないから、見えている弱みにはとことんつけこむ。

「なあ、谷口くん。ここを触らせるか、理由を教えるか、選択肢はふたつだ。暴れたらいつかみたいに腕を縛るっていうのも悪くないな」

 まだ触れるだけだった頃のいつか、うるさい抵抗を繰り返す栄の手首をネクタイで拘束した。緊縛趣味はないつもりだが、栄があれをまたやりたいと望むならばやぶさかではない。だが、「縛る」という言葉を聞いた栄は顔色を変えて、それから悔しそうに歯噛みしてつぶやいた。

「だって、プールに行けなくなるのは困る」

「え……?」

 羽多野は思わず動きを止めた。

 そういえば前に寝たときに、そんなことを言った記憶がぼんやりとある。弄ってやると男だって乳首が大きくなるから、恥ずかしくて人前で裸になれなくなると――。

 確実なことは知らないが、ちょっとやそっとの愛撫で普段の乳首の形状に大きな影響が出るとは思えない。冗談まじりの睦言のつもりだったが、栄はあれを真に受けて、胸に触れられることを恐れているというのだ。

「まったく、谷口くんは……」

 世馴れた顔して、一皮めくればどこまで初心うぶなのだろうか。脱力して笑い出す羽多野に馬鹿にされたと思ったのか、栄は何か言い返そうとした。それを無視して両腕を引いて一度体を助け起こす。

 強引にスウェットを頭から抜き、しかし残された袖が背中側で栄の両腕の自由を奪っている。理由を答えたのに腕は拘束したまま――嘘つきだと詰られるのは確実だが、言い訳は後から考えればいい。

 欲望に浮かされた羽多野は改めて、程よい筋肉に覆われた胸に口付けた。