第6話

「暑い」――最初にそう感じた。

 次にやってきたのは「重い」で、栄は不快な感覚の正体を確かめようと億劫ながらもまぶたを持ち上げた。

 理由はすぐに判明する。寝ている栄を背後から無理やりのように抱きすくめている羽多野、この男が暑さと重さと不快の元凶だ。栄が目を覚ましたことにも気づいていないようで、耳元に気持ち良さそうな寝息が規則正しく響いてくる。

 無理やり叩き起こして引き剥がす前に、まずは状況を確かめようと視線だけを動かして、壁紙やベッドリネンの色柄からここが元客用寝室、つまり現在は正式に寝室として羽多野に与えている部屋だと認識した。

 それはともかく、なぜ自分が羽多野のベッドで寝ているのだろう。ふたりの寝室はきっちり分けていて、一緒に眠るのはセックスの後だけ。それも決して頻繁ではないが、互いの年齢や仕事の忙しさ――何より一度抱き合えば加減をしらない羽多野のしつこさを思えば十分だと思っている。

 正面きって認めるのはプライドが許さないながらも栄だって羽多野と自分の体の相性が良いことは理解している。自分が抱かれる側に回ろうとは想像だにしない三十年を過ごし、人生三十一年目にコペルニクス的転回が起きた。いまだにあれが羽多野の策略だったのか、それとも彼にとっても予想外の展開だったのかはわからないのだが、栄は自ら誘うような真似をして彼を受け入れた。

 とはいえ、少しでも隙を見せたり甘い顔をしたりすれば、どんどん増長するのが羽多野貴明という男だ。しかも羽多野は往々にして癖が悪い。何かと体を舐め回し、体液を口にし、それどころか最近では健康維持のためのプール通いすら阻止しようとしてキスマークや噛み跡を肌に残そうとする始末。栄の優位を保つには多少のお預けでは足りないくらいだ。栄だって人並みにムラムラする夜もあるが、羽多野との力関係維持のために簡単には擦り寄らないと決めている。

 この週末も一度くらいは寝てやってもいいと思ってはいたものの、しょっぱなの金曜日というのは考えていなかった。実際、昨晩もセックスはしていないはずだ。

 そう、

 ほんのりと宿酔いの感覚。栄は重い頭の中からおそるおそる前夜の記憶を引っ張り出そうとするが、何故だか上手くいかない。記憶をなくすほど酔うなんて自分にとっては珍しいことだが、よっぽどの量を飲んだのだろうか。

 前に羽多野がつけたキスマークがようやく消えたので、昨日は仕事帰りに久しぶりにプールで三キロ泳いだ。心地よい疲労感とともに帰宅したら――羽多野が飲んだことのないリキュールとレアもののジャパニーズウイスキーを準備して待ち構えていて――いい加減飲み飽きて、そろそろお開きにしようというところでうっかりウイスキーグラスを袖に引っ掛けてしまった。

 それから?

 酒のせい、もしくは自ら記憶を封印したがっているからなのか、その後のことは頭にもやがかかっているかのようにあいまいだ。スウェットのズボンを濡らしてしまったからシャワーを浴びて着替えようとバスルームに行って、そこで……。

「いや、落ち着け」

 何かものすごく嫌な、恥ずかしい目に遭わされたような気がする。もちろん我が身にそのような忌まわしいことが起きるとすれば原因は背後霊のように体に取り憑いたこの男。

 背後に向けてまずは肘打ちをひとつ。栄は上半身は寝間着代わりのスウェット、下半身はいつものボクサーブリーフ姿だが、羽多野は上半身裸で寝ていたようで生身の体に肘がめりこむ鈍い音がした。

「……うっ」

 熟睡していた男もさすがに鳩尾に肘が入ればそのままではいられない。低いうめき声に続いてもぞもぞと動き出す。

「なんだよ谷口くん……寝相悪いな……」

 そう言って再び腕を回してくる男を振り払い、栄は弾かれたように上半身を起こした。恐ろしい記憶が徐々に浮かび上がってくる。

 バスルームまで無理やりついてきた羽多野。彼は「見守り」を理由に栄が着ているものを脱ぐのを眺め、それから下着を取り去った下半身を見て言ったのだ――。

「いや、待て。そんなことない。そんなことあるはずない、さすがに……」

 これはきっとただの悪い夢だ。羽多野がべったりくっついて寝るからうなされただけの悪夢。頭を抱えて自分に言い聞かせて、それでも蘇った記憶はあまりに生々しい。ダブルベッドの上であぐらをかいた栄は覚悟を決めるようにひとつ息を吸うと、震える手でへその下に手を伸ばし、下着のウエストゴムを引っ張った。

 そこには、あるべきものがなかった。あまり濃い方ではないとはいえ、根本付近を中心に男性器周辺には陰毛が繁っているはずだったのに――まるで子どものようにつるつるとして、一本の毛すら生えていない。

「……」

 あまりのショックにしばし言葉を発することも、身動きすることもできなかった。呆然と下着の中を覗き込んでいると、肘打ちのダメージから回復した羽多野も身を乗り出してくる。

「明るい中で改めて見ると、やっぱりいいな。一本も残さず根元まできれいに剃れ……っ」

 思い切り振り上げた拳は間一髪のところで避けられた。いつもそうだ。隙を見てなんとか一発目だけは当てても、二度目の攻撃はきっちり避けてくる。そういうところも腹立たしい。

「な、な、な……羽多野さん。あなたっっっ!」

 あまりのことに罵声すら浮かんでこなかった。ただ確かなのは昨日の晩、目の前にいるこの男が言葉巧みに弱みにつけこんで、栄の下半身を完全なる無毛状態にしてしまったという事実だけ。

 蘇るのは、バスタブの縁に座って片足を上げた恥ずかしいポーズを取っている自らの姿と、床にしゃがみこんで栄の下腹部に丁寧すぎるほど丁寧に剃刀の刃を滑らせる羽多野。タイル張りのバスルームに響くしょりしょりという音と、必死に堪えているのに唇からこぼれる淫らな吐息。嫌でたまらないはずなのに、快感なんて感じていないはずなのに、なぜだか勃起がおさまらなかった。

「嘘だ。こんなの嘘だ……悪夢だと言ってくれ」

 がっくりとうなだれると、先ほど打たれた鳩尾を撫でながら羽多野が言う。

「谷口くん、昨晩のことどこまで覚えてる?」

「――?」

 死んだ魚の目で羽多野を横睨みすると、男はうなずきながら繰り返した。

「ああ。見た感じよりも酔ってたみたいだけど、どこまで覚えてるのかなって」

 確かめるように言われて背筋が寒くなる。まさかいやらしいポーズを取らせて下半身を剃毛しただけでは飽き足らず、羽多野はそれ以上のことをしたというのだろうか。だが、ウイスキーを痛飲しただけとは到底思えないほど、昨晩の酔いは栄の記憶に濃い霧を残している。

 なんだっけ、あの毒々しい黄緑色をしたペルノだかアブサンだかいう薬くさいリキュール……あれはよっぽど悪い酒だったに違いない。いまさら――と後悔するのは何度目だかわからないが、栄は羽多野の口車に載ったことを死ぬほど後悔した。それから憎い男に両手を伸ばし、掴む襟首がないので代わりに裸の両肩に爪を立てて揺さぶる。

「おい、あれから何をした? 人の下半身をこんなみっともなくしただけじゃ飽き足らず、まだ何かしたんだろう!」

 殺意に満ちた視線と動作。普段ならば少しくらいは動揺した素振りを見せそうなのに、なぜか羽多野はほっとしたように表情を緩めた。

「いや、俺は何もしてないよ」

「嘘だ! だったらなんでそんなニヤついてるんですか! 第一、あなたがこれだけで満足するはずがない」

 信じられない気持ちで栄は羽多野に詰め寄る。このド変態が剃毛だけで満足するはずがない。

 しかし羽多野は首を左右に振るだけだ。

「谷口くんが上手く処理できなかったアンダーヘアを整えて欲しいって言うからお手伝いしたところが手が滑って……。右側だけ剃り込んでるよりは全部処理した方が見た目がましだろうって君も合意した。覚えてる?」

「……覚えてます……」

「で、俺が君の下半身を誠心誠意込めて剃毛してたら、君はどんどん勃起してベトベトに濡らしたから、互いに手で擦ってフィニッシュした。それは?」

 耳を塞ぎたいような言葉だが、言われてみればそんなこともあったような気がしてくる。

「……覚えてる、かもしれません」

「で、酔い潰れた君が寝たから、パンツ履かせて、風邪ひかないように上を着せて、ここまで引っ張ってきた。それだけ」

 白々しい言葉と表情。うさんくさくて仕方ないのに栄は反論するための記憶も言葉も持たない。それどころかまるで羽多野の言葉を裏付けるように、強引に抱かれていれば尻に残っているはずの痛みや違和感も存在しないのだった。

「本当の本当に、それだけですか?」

 額がくっつきそうな距離で栄が問い詰めると、羽多野は笑い、巣にかかった獲物を回収する蜘蛛のように長い腕を伸ばした。

「うん。だからさ、これからか」

「――は? あなた何言って……」

 次の瞬間、視界が裏返る。まず目に入るのは白い天井、続いて覆いかぶさってくる羽多野の顔が見えるがそれも刹那。

 唇を塞がれた栄は反射的にまぶたを閉じた。