第7話

 羽多野は栄の唇を柔らかく噛みながら、後ろへ回した手でうなじを撫でる。はっきり認めたことはないが、そこは栄にとって弱い場所で、特に襟足を指の腹でくすぐられると体から力が抜けそうになる。

 だが――こんなことでごまかされるわけにはいかない。今回のいたずらは、ちょっと首筋や胸元にキスマークをつけるのとはわけが違う。時間が経てば再び生え揃うにしたって、あまりにアブノーマルで、あまりに屈辱的だ。何しろこれからしばらくの間、排尿や入浴、着替えのたびに栄は自分自身のみっともない下半身を目にする羽目になるのだから。

 息継ぎのために唇が離れた隙をついて栄は羽多野の顔を両手でぐいと遠ざけた。

「こんなことで俺を丸め込めると思ってるんですか?」

 しかし羽多野はちっとも悪びれない。

「昨日は君が酔っ払って眠ってしまったから我慢した。寝てるところを無理やり抱かなかっただけでも感謝して欲しいな。いちゃつかれるのは嫌だっていうから、こっちだってずっと自制していたんだから」

 気にしていたことを直接責め立てられて、栄は言葉に詰まった。確かにあれは失言だったし、言いすぎたとも思っている。だからといって、日常的なスキンシップすら照れくさいのに、よりにもよって休日の朝っぱらから。しかもこちらは下半身を完全に剃られた状態なのだ。

「だったら、今の俺は正気です」

 これまで栄の気持ちを尊重して正気のときには抱かないようにしていたのなら、今だって同じようにすればいいだけ。なのにすっかり妙なスイッチの入った羽多野は近い距離から熱っぽく栄の目をのぞきこんでくる。

「大丈夫、すぐに正気じゃなくしてやるから」

 そして唇を塞げば噛みつかれるとでも思ったのか、今度は首筋に顔を埋めにかかった。

 しまった、加減を間違えた――お預けもやりすぎれば逆効果だとわかっているのに、どうやら栄はやりすぎてしまったらしい。押し付けられる股間は朝勃ちだか欲情だかわからないが、起き抜けというのに呆れるほど勇ましく勃起している。

「駄目です、見ないでください。元に戻るまでは絶対嫌だ」

 栄は下着の生地が伸びてしまうことも気にせずウエスト部分を手で押さえ、羽多野は構わず脱がせようとしてくる。まるで子どもの喧嘩のようにベッドの上でもつれあいながら、羽多野は意外なほど切羽詰まった顔で訴えた。

「元に戻るなんて、そんなこと言ってたらまた数週間もお預けだ。冗談じゃない」

「そんなの、自業自得でしょう!」

 反射的に鋭い言葉を投げ、一瞬の隙をついて栄は羽多野の手を逃れた。彼の得意分野であるだからといって、常にやられっぱなしとは限らないのだ。そのまま後ろに体をずらし、壁に背をつけて体勢を整える。

 とても休日の朝の恋人同士とは思えない状況だが、二人はベッドの上で半メートルほどの距離を空けて睨み合った。しばしの膠着状態。そして羽多野は大きなため息を吐く。

「……だって、谷口くんは俺の頼みを何も聞いてくれないじゃないか。疲れて帰ってちょっと肩を抱こうとしただけで冷たいことを言うくせに、赤の他人の前では堂々と素肌を見せる。しかも、俺が同じジムに通いたいって言ったら頑なに断ったよな」

「それは……」

 哀れぶった口ぶりは多分に演技なのだろうが、それでも栄をうろたえさせた。

 赤の他人に素肌を見せる、というのは誤解を招く言い振りだ。栄はただ健康と体型を維持するためにジムに通っているだけで、プールにいる他の男たちにいかがわしい気持ちを抱いたことは一度としてない。とはいえ、ウェイトトレーニングのために同じジムに加入したいと言う羽多野を止めたのもまた事実だった。

「そんなに俺と一緒にいるのが嫌なのか?」

「違う、違うけど」

 この外見を維持するために必死の顔で運動しているところを羽多野に見せたくない――という気持ちを正直に口にするには、栄はあまりにプライドが高すぎた。

 結局のところいつもと同じパターンだ。押さえつけて、踏みつけて、優位を思い知らせるつもりがやりすぎて逆襲される。頭ではわかっているのに感情のコントロールができず、何度だって似たようなことを繰り返す。

 殊勝な態度についほだされかかったところで、羽多野は再び栄の頬に右手を伸ばし、左腕で腰を抱き寄せた。

「でも、嫌だ。こんなみっともないところを……」

 ほとんど押し切られているにも関わらずまだぐずぐずとためらってみせる栄に、羽多野はさも名案を思い付いたかのように笑顔を見せる。

「パイパンがそんなに恥ずかしいなら、見られていないことにすればいいんだろ?」

「……見られていないことに?」

 何かのとんちのつもりなのか、言われた意味がわからず首を傾げると、羽多野はひらりとベッドから飛び降りて作りつけの大きなクローゼットの隅にある観音開きの扉を開けた。左側の扉の裏には大きな姿見、右側の裏には作りつけのネクタイハンガー。

 するりと引き抜かれた二本のネクタイのうち濃紺のものには覚えがある。いつだったかそれで両手首を戒められて、好き放題に体を舐められた。

「羽多野さん、もしかしてっ」

 気付いたときには遅かった。驚くべき俊敏さでベッドに舞い戻った男はそのまま栄の上体をマットレスに押しつけ、まずはえんじ色のネクタイを使って後ろ手をゆるく、しかし自力ではほどけないよう拘束する。そして悪い予感は的中し、次の瞬間栄の視界は濃紺に覆われていた。

「何するんですか、外してください。こんなの冗談じゃ済まない。もしこのまま続けるようなら俺……」

「このまま続けるようなら、谷口くんは俺をどうするんだ?」

 ――どうするというのだろう。

 殴るか、蹴り飛ばすか、これまでにない長いお預けを食らわせるか、はたまたここから追い出すか。さまざまな脅し文句が脳裏を駆け巡り、しかし少なくとも今の自分は本気で羽多野を切り捨てることができないとわかっている。だから栄は続きを口にすることができず、ぎゅっと目を閉じ息を詰めた。

 次の瞬間、下腹部の緩やかな圧迫感が消えた。羽多野は引き下ろした栄のボクサーブリーフをそのまま足首から抜き去り、おそらくはベッドの反対側――簡単には栄の手が届かないような場所に投げ捨てた。

 ごくごく平凡で常識的なセックスしか知らなかった栄にとって、これまでだって十分すぎるほどのアブノーマルな行為を強要されてきたが、下衆で下品な男の引き出しはまだまだ尽きていなかったようだ。四つん這いで裸の尻を突き出すような格好と、無毛の前面を見られるの、どちらがましなのかは血が上った頭では判別がつかない。

「いい子だ」

 囁く声はいつもどおり甘い。栄は悔しさに唇を噛むが、こうやって睦言を耳孔に流し込まれ、大きな掌でゆるゆると肌をさすられるうちに、怒りも嫌悪もどうでもよくなってしまうこともまた事実なのだった。

 羽多野はうつぶせの栄の腹に腕を回し、ゆっくりと抱き起こす。肩越しにのぞきこまれればきっと、子どものようにつるんとした股間も、そこに不似合いな成熟しきったペニスも――以前羽多野も言っていたが、根本を覆う繁みがなくなればそれはきっとこれまでより長く立派に見えるだろう――何もかも暴かれてしまう。

 朝の光の中で両腕を戒められ目隠しをされ、下半身をあらわにした自分は羽多野の目にどのように映るのだろうか。想像するだけで腹の奥がどくんと脈打った。