おまけ(1)

「はい、これ」

 羽多野がそう言って鉄道の切符を差し出してきたのは、栄がとことん酒を飲まされ、わけがわからないまま下半身を剃毛されてしまった「忌まわしい週末」が明けてすぐのことだった。

 クリーム色のカードの上下にはオレンジ色の太いライン、左上にはQRコード。日本のものよりはずいぶんスタイリッシュに見えるカードタイプの切符を反射的に受け取ってから、栄は首を傾げる。

「列車の切符?」

「ああ、週末に出かけようと思って。谷口くん、今月は急ぎの仕事はないって言ってただろう。初の給料が出るから、これまで養ってもらったお礼を兼ねて」

 切符の行き先はチェスター。それがイングランド北西部にある街だということは知っている。同じ北西部にあるマンチェスターやリバプールといった大都市と比べると圧倒的に知名度は劣るが、ローマ人の作った城壁やチューダー風の建築物など中世の雰囲気を残した歴史遺産を目当てに、英国やヨーロッパ各地からの観光客は多いのだと聞いたことがある。

 だが、なぜ突然――などと考えるまでもなく、要するに先週末の強引な行為について羽多野なりにフォローしているつもりなのだろう。切符の往路は金曜の夜、復路は日曜の午後、二泊三日の週末小旅行というわけだ。

「……ふうん」

 栄は鼻を鳴らして、どう返事するか考える。

 羽多野が機嫌を取ろうと媚びへつらってくる状況は、正直とても気分が良い。一方で引っかかるのは、これが泊まりがけの旅行であることだ。抜け目のない男はきっと、それなりのホテルかコテージあたりを予約しているだろう。

 つまり、恋人――という言葉を公に使うかどうかは別としても、実質そのような関係である二人が旅行という非日常に置かれれば、普通ならば「やることはやる」。そのくらい栄にだってわかる。

 下半身をみっともない格好にされたのは、ほんの数日前のこと。あまりの屈辱に羽多野の隠し持った高級ウイスキーをすべて下水に流し、しばらくは土下座されてもお預けをするのだと決めた。しかし雰囲気の良いホテルの寝室に連れ込まれればまたもや羽多野の手練手管に流されてしまわないだろうか、なにしろ、羽多野と一緒に過ごすようになってこの方、まったくもって趣味ではないにもかかわらず、いつのまにか相手のペースに乗せられてアブノーマルな行為ばかりに付き合わされている。

 とても口に出せないような場所を舐められたり噛まれたり、体の自由を拘束されたり目隠しされたり。自分で自分の後孔をほぐす羽目になったこともあるし、下半身を無毛にされた挙句に鏡に結合部位を映しながら交わったのはほんの数日前のことだ。

 このままではまずい。心底そう思う反面、羽多野との未知の行為ではいつも我を忘れるほどに高められてしまうのもまた事実。栄も人並みの性欲を持つ大人の男として、自分の理性やプライドと抗えない肉欲の板挟みで懊悩しているのだ。

 決して認めたくはないが――もしかして自分は羽多野と体を重ねるうちに、以前のようにノーマルで淡白なセックスでは満足できなくなってしまうのではないか。考えると体が震えるが、それももしかしたら恐怖のせいだけではないのかもしれない。

「おい、せっかくのプレゼントなのに何を黙り込んでるんだ。まさか俺に旅費を奢られるのが気に食わないって言い出すんじゃなかろうな」

 羽多野は怪訝そうな顔をしてそう言うと、これは決して金銭面で栄にマウンティングしようとしているわけではないのだと付け加えた。昨年九月から「無職」を理由に三ヶ月ほどもこのアパートメントに居座ったが、その間彼は一銭も生活費を払わなかった。その罪滅ぼしのつもりなのだと。

「……そんなこと言って、また何か企んでるんじゃないですか。俺はもう心底懲りたから、旅先だろうがしばらくはあなたと酒を飲む気も、一緒に寝る気もありません」

「君がそう言うなら合わせるさ。今回のはほら、初任給で親に旅行をプレゼントするようなものだから、健全な旅行たまには悪くない」

「俺はあなたみたいな最低な息子を持った覚えはないです。そもそも、俺よりずいぶん年上のくせに」

 ぶつぶつと文句を言いはするものの、毎度ながら羽多野は狡猾だ。年休を取る必要がない週末旅行で、すでに切符は購入済み。目的地は近すぎず、遠すぎず。しかも栄が嫌がる日本人満載の有名観光地というわけでもない。

 まあいいか――と思ってしまうのは結局のところ、初めての旅行に誘われて栄も内心で舞い上がっていたのかもしれない。

*  *  *

 そして金曜、仕事を終えてからユーストン駅で待ち合わせたふたりは列車に乗ってチェスターに向かった。

 到着までは二時間半。駅からタクシーで予約してあるレストランに向かい夕食を取る予定だ。それからホテルにチェックインして就寝。土曜は丸一日のんびりと観光をし、週明けに疲れを持ち越さないよう日曜は早めにロンドンに戻る。

 ヴァージン・トレインズの赤いスタイリッシュな車体は乗り心地もよく、ほぼ遅れなしにチェスター駅に着いた。レストランは料理もサービスも十分で、栄は宣言どおりノンアルコールを貫いたが、羽多野もしつこく酒を勧めるようなことはしなかった。

 そんな完璧な夜にケチがついたのは、ひとえに栄の気の緩みゆえだった。食事を済ませてタクシーを呼び、あとはホテルに戻るだけとなったところでほんの一瞬手荷物から目を離したのがいけなかった。

 会計を終えたところで羽多野は手洗いに行き、栄は先に店の外に出た。配車アプリで呼んだタクシーは五分もすれば来るはずだ。空いた時間についやってしまう手癖でポケットからスマートフォンを取り出し、メールチェックをする。その際、貴重品の入ったショルダーバッグは肩にかけたままだったが、着替えなど旅行用の手荷物が入ったミニボストンは足元に置いた。

「あ……」

 仕事用のアドレスに日本からのメール。新たな法律を作る参考に、英国の類似制度について調べて欲しいのだという。大使館員として正式に調査を行うための訓令は来週発出するが、先に項目を送っておくから……と添付ファイルがついていた。内容が気になり、ファイルをプレビューしようとタップところで、羽多野が店から出てきた。

「タクシーまだ来ない?」

「ええ、もう少しかかると思います」

 スマホの画面を閉じて振り向いたところで――羽多野が栄の足元に目をやる。

「あれ、谷口くん、かばんはどうした?」

「かばん?」

 つられて視線を下に向け、栄の背筋に冷たいものが走る。

 二泊三日の旅行用荷物を入れてきたミニボストンは、ほんの一分ほど目を離したあいだに、きれいさっぱり消えていた。

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