おまけ(2)

 あり得ない。

 乗り込んだタクシーの中、栄は何度も心の中で繰り返す。

 

 この国では日本と比べてスリや置き引きといった軽犯罪が多いことは知っている。その上で普段から自衛してきたはずだった。

 貴重品をポケットなどの無防備な場所に入れない、持ち物から目を離さない、路上でスマートフォンを見るときはスリに狙われないよう周囲に気を付ける、どれも簡単なことだ。とはいえ英国にやってきて八ヶ月が過ぎ、目立ったトラブルも経験しない中で当初の緊張感が失われてきていたのもまた事実だ。

 慣れてきた頃が一番危ないんだよ、と久保村も言っていたではないか。彼の場合は渡英から二年目、段差につまづいて転んだ息子に気を取られた一瞬の隙を突いてポケットのスマートフォンをすられたのだという。他の大使館員についても、被害の多少はあれど何らかの軽犯罪被害にあったという話は枚挙にいとまがない。

 だが、よりによって自分が――しかも、失態を一番知られたくない相手と一緒にいるときにこんな目に遭うだなんて。後部座席の窓ガラスに頭をもたせかけた栄はひと言も口を聞くことなしに肩を落としていた。

「気にするなよ、財布や身分証は無事だった方のバッグに入っているんだろう? それに……金が入ってないことがわかればどこかに放り出されて、見つかる可能性だってゼロじゃない」

 栄のショックの大きさを察してか、羽多野は不注意を責めることもからかうこともしない。らしくない優しい態度になおさら惨めになった。

「……それにしても置き引きなんて。しかもこんな遅い時間に」

 栄は改めて自虐的な言葉を噛みしめた。

 そう、同じ盗難被害に遭うにしても、昼間ならずっとましだった。だが今日の場合はロンドンを発ったのが夕方で、夕食を済ませた時点ですでに夜の九時を回っていた。盗難に気付いてすぐに警察に電話をかけたものの衣類の入ったかばんの置き引きに対する反応は鈍かった。

 すぐにでも盗難届を出したいと前のめりになる栄に対して、電話口の警察官は「急いだところで状況は変わらない」と落ち着いているのか冷たいのかわからないことを言い、さらには盗難届は後でゆっくりオンラインで提出すればいいと付け加えた。警察は盗難程度にはまともに付き合ってくれないと聞いてはいたが、実際の「塩対応」は聞きしに勝るものだった。

「犯罪が多いから、ちょっとした盗難は出てこないのが前提なんだろうな。盗難届さえ出していれば携行品保険でカバーできることも多いし。谷口くん、保険は?」

「一応、入っています」

 海外暮らしに備えて入った保険の他に、確かクレジットカードにも携行品保険は付帯していたはずだ。だが、被害額相当の現金くらいで何もかもが元どおりになるわけではない。

 栄が明日着ようと思ってかばんに入れてきたのが、自ら生地やボタンを選んでオーダーした老舗テーラー製のハンドメイドシャツだということを羽多野は知らない。数年待ちでようやく仕立てることができたシャツは一番のお気に入りで、だからこそ初の旅行で着る服として選んだ――なんて恥ずかしくて言えるはずもないのだが。

 いや、高級シャツが惜しいなどとはこの際言っていられない。何より切実なのは、イングランドの地方都市で、この時間に着替えを買うことのできる店が開いていないということだ。かすかな期待をこめてタクシーの運転手にも聞いてみたが、「この時間だと無理だね」とあっさり返されて終わった。

 汗をかかない季節なので、不快ではあるが服は明日も同じものを着て、なんなら外出先で新しいものを買えばいい。だが一番の問題は今夜風呂に入った後で着替える下着も、寝間着もないということだ。

「……俺、人生でこんなにコンビニを恋しく思ったことはありません」

 英国では、飲食店やクラブ以外に真夜中に営業しているのは中東移民が経営する小さな食品店くらいのもの。日本のコンビニエンスストアのようにワイシャツから下着から二十四時間購入できる場所というのがどれほどありがたいことかを栄は心の底から思い知った。

 やがて到着したホテルはそれぞれの部屋が独立したコテージになっていて、こじんまりとしているが家具や付属品のセンスも良い。遅い時間にも関わらず、チェックインの手続きをしているあいだにウェルカムドリンクに食用花を浮かべたハーブティーが振る舞われ――男ふたり連れの出迎え方としてはやや複雑な気持ちもあるものの――置き引きの件さえなければ旅情はそれなりに盛り上がっていたことだろう。

 尚人と付き合っていた頃の旅行といえば、どこに行ってどこに泊まって何をすれば尚人が驚き感動するかに心を砕きながら栄が企画するものと決まっていた。洗練された遊びも非日常の贅沢も知らない尚人に新しい世界を見せては悦に入っていたのは独善的ではあるが、幸福な思い出でもある。

 そう、いつも自ら主導してばかりだった栄にとって、こんなふうに誰かが自分を喜ばせるために心を砕いた旅行というのは初めての経験だ。羽多野が栄の機嫌をとるために組んだプランがどれほどのものか評価してやろうと言う意地悪い気持ち半分で――残り半分は初めてアテンドされる旅行を楽しみにしていた。

「あの、実は旅行かばんを置き引きされてしまって。着替えも、身の回りの品も全部入っていたんです……何かここで購入できるものやお借りできるものはないでしょうか」

 最後の希望とばかりにレセプションのスタッフに聞いてみると、使い捨ての歯ブラシやシェーバーを出してくれたものの、着替えを手に入れることはできなかった。

「落ち込む気持ちはわかるけど、仕方ないだろ。着替えなら明日買えばいいじゃないか」

 センスの良い部屋を吟味して回るどころか、がっくりとソファに座り込んでしまった栄に、羽多野も面白くなさそうな顔をする。

「……そんなことわかってますよ。でも、今夜着るものがないんです!」

「今夜って、あとは風呂に入って寝るだけだ」

「下着の替えもなければ、寝間着もないのに?」

 そこでふと思いついた。以前に東京の羽多野のマンションで、下着を洗濯されるあいだ素肌に借り物のスウェットで凌いだことがある。きっちり着込んで眠りたい栄と違って、羽多野は普段から下着だけで寝ることも多い。栄に着るものを譲ったって問題はないはずだ。

「羽多野さん、寝間着を貸してください」

 しかし、羽多野は首を左右に振りながら即答する。

「持ってない」

「は?」

「荷物増やしたくないから、裸で寝ればいいと思って」

 栄はがっくりと頭を垂れた。そうだ――普段から下着だけで寝ることが多い男なのだから、旅先の夜のためにわざわざ寝間着一式を持ってくるはずもない。

「君だって裸で寝てもいいんじゃないの? どうせシーツは毎日替えてくれるんだし」

「俺はそういうの嫌なんです!」

 そもそも栄は旅行中は羽多野と一緒には寝ないと宣言してあった。この部屋のベッドがキングサイズ一台である時点で約束が違うのに、同じベッドで裸で寝たりなんてしようものなら――「旅行中はセックスをしない」という最低限のルールすら破られかねない。

 クローゼットに目をやると、分厚いバスローブが二着ぶら下がっている。ごわごわとして暑苦しそうだし下半身は心許ないが、これでも着ないよりはましだろうか。それともみっともない格好で寝るよりは、今夜はスーツを着用したまま通すべきだろうか。

 霞が関に勤務していた頃は何度も服を着たまま机につっぷして仮眠していたではないか。しかしこのままの格好で一夜を過ごせば、明日の朝はみっともなく形崩れした服を着て出かけることになる。

 今夜どのような格好で眠るかというちっぽけな問題に栄が真剣に頭を悩ませ続けていると、やがて羽多野が気の進まない様子で口を開いた。

「あのさ……あるといえばあるんだけど、新品の下着が」

 栄は弾かれたように顔を上げて、羽多野の胸ぐらを掴む。

「そういうことは早く言ってくださいよ……あ、でも」

 羽多野が旅行用に新品の下着を持ってきて、それを栄に融通してくれるというならば願ってもいない話――だが肝心なことを忘れていた。

 羽多野の下着の趣味は最悪だ。

 彼が愛用しているのは、栄にとっては目にするだけで恥ずかしくなるようなビキニブリーフ。ノーパンにバスローブで寝るのと、羽多野お気に入りのビキニブリーフで寝るのどっちがマシか……究極の選択に頭を悩ませる栄に羽多野は付け加える。

「いや、俺の着替えは使用済みのやつだから、潔癖な君は死んだって穿きたがらないだろう。ただ、その……ちょうど今日の昼休みに買い物をして」

「買い物? 下着を?」

 怪訝な顔をする栄に、羽多野はバッグから小さな紙袋を取り出した。普段は無駄に余裕たっぷりの男なのに、差し出してくる手はなぜかためらいがちだ。そして――有名デパートのロゴ入りの包みをおそるおそる開き、中身を取り出した栄は言葉を失った。