「何ですか、これは……?」
紙袋から出てきたのは下着――と呼ぶのが正確であるのかすら栄には判別がつかない物体だった。
太いゴムバンドが二本交差するような形につなぎ合わさり、その中央部には小さな袋状の布がついている。これが男性用下着だとしても栄が普段着用している腰全体を覆うボクサーパンツとはまったくの別物だし、羽多野が愛用しているスポーツビキニと比べてもあまりに異様だ。
とはいえ「下着だ」と言って渡され、じっと眺めているうちに何となく着用方法はわかってくる。この太いゴムははおそらく下着のウエストバンドに当たる部分で、小さな袋状の布はいうまでもなく局部を覆うためのもの。いや、だったら尻はどうなるのだ? 下着の後ろ身頃に当たる部分には、尻の外周部を覆う枠組みのようにゴムバンドが伸びてはいるものの、布はまったく存在しない。
普段だったら即座に馬鹿にするなと怒鳴り散らすところなのだが、手渡されたものが想像をはるかに超える代物だったがゆえに叱責の言葉も出てこない。
「――誤解しないで欲しいんだが」
ゴムとわずかな布で構成される謎の物体を手にあぜんとする栄に向かって、羽多野は体裁悪そうに切り出した。喜び勇んで酔っ払った恋人の下半身を剃毛してしまう程度には常識のないこの男ですら、この下着を手渡すのは気後れするのだろうか。だとしてもこんなものを買ってきた時点で品性下劣の烙印は免れない。
「誤解って?」
「それは別に、いやらしい目的で作られた下着ってわけじゃなくて、ジョックストラップという名前のある、れっきとしたスポーツ用のサポーターなんだ。……だかセックスショップや怪しい通販じゃなくて、ちゃんとした店で買った」
栄とて馬鹿ではない。この男がやたらと饒舌なときは、人を陥れて調子に乗っているときもしくは、後ろめたい企みを隠そうとしているときだと決まっている。第一、このジョックストラップとやらが羽多野の言うような品だからといって、なぜよりにもよって「いま」かばんに入っているのかという疑問の答えにはなっていない。
「……で、わざわざ小旅行に行こうって当日に運動用のサポーターを買いに行ったってわけですか。俺もそれなりにスポーツはやってきましたが、こういうものを見るのは初めてですね」
下手な言い訳を聞いているうちに、栄の頭もだんだんといつもの回転を取り戻す。こめかみにぴきぴきと青筋が浮かぶのを感じつつ羽多野をにらみつけた。
セックスはしないと宣言した栄に従うと言っておきながら、結局そういう魂胆だったのか。適当に言いくるめて、こんなものを着用させようとしていただなんて、ちょっとは反省してこちらの機嫌を取ろうとしているのだと思っていたが、がっかりもいいところだ。
「だから、まあ、その……」
栄のとげとげしい言葉に押されたのか奥歯にものが挟まったような物言いをしていた羽多野だが、やがて開き直ったかのように一気にまくしたてる。
「ああ、俺だって男だから、状況によってはあわよくば、って気持ちがあったことは否定しない。でも、別にここで無理やりどうこうってつもりはなかったし――機会がなきゃ、自分がランニングのときに使えばいいくらいの気持ちだったんだ」
「自分で……?」
この変態男が栄に妙な下着を穿かせようと企んでいたというのは、受け入れるかは別として過去の振る舞いとの整合性はある……ような気がする。だが羽多野が自らこれを着用するつもりだったと言われれば、栄はうろたえるしかない。やたらきっちり手入れされたアンダーヘアも、露出の多いビキニブリーフも文化の問題だと受け入れてきたが、もしや自分は想像を遥かに超える変人と暮らしていたのだろうか。
思わず栄が後ずさると、羽多野はスマートフォンで検索した画面を突きつけてくる。ウィキペディアの「ジョックストラップ」の項目には見た目は多少異なるが、いま栄の手の中にあるのとよく似た下着を身につけている筋骨隆々とした男の写真が掲載されていた。
「……ジョックストラップは、男性用下着の一種で運動時の陰部の揺れや動きを防ぐためのスポーツ用サポーターである……」
「ほら、サポーターだって。変な意図じゃなく、俺学生時代にレスリング経験があるからそのときに」
栄が死んだような表情で画面に書かれた内容を読み上げると、羽多野はなぜか誇らしそうな顔をした。確かに、説明文の続きにはこのタイプの下着の用途として、野球やアメフト、レスリングなど、格闘技や球技など、急所にダメージを受ける危険性の高い競技が列挙されている。
どうやら羽多野の言い分はまったくの出任せというわけでもなさそうだが、だからといって「スポーツ用」という言葉を鵜呑みにする気にもなれない。
「でも、この写真のやつより露出が多い気がしますが。なんかデザインも派手だし」
ウィキペディアに掲載されているのはオフホワイトに申し訳程度の模様が入ったいかにも無骨なスポーツ用具といった外見だが、羽多野が買ってきたものはやや光沢のある黒い布地に、ゴムのあしらいもよく言えばファッショナブル、率直に言えば卑猥な感じがする。
「……だからあわよくば、って認めただろう。本来スポーツ用だけど、今じゃメンズのセクシー下着として使われてることも否定はしない。もし君が穿いてくれるならこういうのがいいなって思ったんだ」
しつこい追及を受けて、羽多野はようやく栄に着用させること前提でこの下着を選んだことを認めた。
だが、いくらここで言い合いをしたところで、一番の問題である栄の着替えについては解決しない。というよりは選択肢は引き続き二つ。ノーパンにバスローブで寝るか、この異様な下着にバスローブで寝るか――どちらかを選ぶしかないのだった。
* * *
栄は悩んだ。時間稼ぎのため湯当たり寸前まで風呂に浸かって悩み続けた。
最終的には、前がはだければ無毛の下半身が丸出しになる状況よりは、こんなものであろうと一応局部を隠すことができるほうがマシ……ただし穿いているところは絶対に羽多野には見せない、と覚悟を決めた。これまでの人生で三本指に入るほどの苦しい選択だった。
これも朝までの我慢だ、と自分に必死で言い聞かせる。脱いだ下着は風呂場で手洗いし、しっかり脱水してタオルヒーターに干した。きっと朝には乾いているはずだ。慣れ親しんだボクサーブリーフに穿き替えた後はこんなもの、細かく切り裂いてゴミ箱に投げ込んでやりたい。いっそ燃やし尽くしたい。
「穿いたの? あれ」
バスローブの前を深く合わせて風呂から出てきた栄を見て、羽多野の目が怪しく光る。しかし今日はこれ以上羽多野には取り合わないと決めているのだ。
「あなたには関係ありません。前にも言ったとおり、今日は俺に指一本触れないでください。ベッドもこっち半分には入らないでくださいよ」
風呂場にあった余分のバスタオルをよじって、栄がキングサイズのベッドの真ん中に境界線を引くと、羽多野は眉をひそめる。
「八つ当たりするなよ。俺が多少の下心持っていたのは事実にしろ、今日のところは君の言うとおりにするつもりだったんだ。そもそも置き引きにあって着替えがなくなるなんて計算してたはずがないだろう。それをまるで何もかも俺のせいみたいに」
八つ当たり、というのは図星だけに栄はむきになる。
「あなたのせいだなんて言ってません! 羽多野さんこそ、俺が置き引きにあったせいでせっかくの旅行が台無しになったくらいのことを思ってるんでしょう! 間抜けで悪かったですね」
「おい、自己嫌悪に俺を巻き込むな。俺は一言も台無しだなんて言ってないだろう!」
そこから先はいつものパターンだった。どちらも一歩も引かないまま激しい口論は続き、物別れに終わる。せめて自宅であればそれぞれの部屋に引っ込んで朝まで冷却期間を置けるのだが、ここでは逃げ場すらない。結局、バスタオルで作った境界線の左側で羽多野が上掛けを使い、右側で栄がブランケットをかぶり背中合わせで横たわり、明かりを消した。
初の旅行で大喧嘩。坂道を転げ落ちるような夜に、栄は悶々と眠ることができず、背後から静かな寝息が聞こえはじめるとなおさらに苛立ちが募った。
――こんな状況で、なんで気持ち良さそうに寝てるんだよ。
こっちは、せっかくの旅行での失態や喧嘩にこんなにも落胆しているのだ。しかも分厚いタオル地でできたバスローブは風呂上がりこそ問題なかったものの、だんだんと暑苦しく不快になってくる。しかもバスローブの下は裸に、羽多野に渡されたジョックストラップとやら。股間こそ柔らかい布地で保護されているものの、剥き出しになった尻が直接ごわごわしたバスローブに擦れるのは妙な感覚だった。
第一、バスローブで必死に隠しているとはいえ、いまの自分の格好といえばどうだ。風呂上がりに勇気を出して下着を身につけたとき、一瞬だけ目をやった鏡の中の光景を思い出すだけで赤面して死にたくなる。
幸か不幸か下半身が無毛状態であるため、小さな布地の周辺から余計なものがはみ出しはしないものの――いや、だからこそペニスを覆う三角形の袋を黒いゴムバンドだけで体に固定するジョックストラップがやたらといやらしく、倒錯的に見える。特に丸出しの尻の周囲を取り囲むバンドはどことなく緊縛風というか……過去に腕を縛られたり目隠しされたりしたことを思えば、羽多野がこれを栄に穿かせたがったことにもある種の一貫性が感じられた。
そんなことを思い出しているうちに、何やら体がむずむずしてきた。