これは暑いせい、もしくはバスローブの肌触りのせい。そう自分に言い聞かせるが、意識すればするほど体温が上がってゆく。栄は気を逸らそうとしてもぞもぞと寝返りを打とうとするが、自ら引いた〈境界線〉が邪魔になって十分な身動きがとれない。
それに、羽多野を起こしたくはない。呑気に寝ていられるのは腹立たしいが、この状況で――多少なりともむずむずと、いや正直に言えばむらむらしてきたことを知られるのは屈辱だ。
たまにひとり性欲を感じる夜もあるが、羽多野の部屋を訪ねるような真似はしない。他のことを考えたり、窓を開けて部屋の気温を下げたりしているうちに自慰をするまでもなく体はおさまる。だからきっと大丈夫。
体の上にあるブランケットをそっと床に落とす。それでも火照りが消えないのでバスローブの前を緩めることにした。寝ているうちに脱げないようにと前を深く合わせ固く紐を結んでいたから苦労したが、しばらくの奮闘の結果、分厚いタオル地の内側に空気を入れることに成功した。
だが、なぜか今夜に限って栄の体は落ち着くことを知らない。
これもあんな下着を履いているからなのか。だとしたら、卑猥なものを着用して興奮するなんて自分はいよいよ変態の仲間入りをしつつあるのではないか。気持ちも体も苛立って、なぜだか下半身に血流まで集まりはじめる中で栄は苦悶した。
結局、頭を冷やす必要があるという結論に達する。
そろりとベッドから降りて後ろを確かめると、羽多野は栄に背を向けて気持ちよさそうに眠っている。腹立たしさにまかせベッドから蹴落としてやりたいくらいの気分だが、そんなことをしたところで自分を追い込むだけなので我慢した。
こんな格好で部屋の外に出るわけにはいかない。窓を開けて羽多野を起こすこともできないとなれば、行き先はひとつ。栄は足音を忍ばせてそろそろとバスルームに向かい、ドアをきっちり閉めてから明かりをつけた。
「はー……」
思わず大きなため息をついたのは、安堵というよりは脱力。予想したとおり、バスルームは寝室と比べると気温が低く、火照った顔や頭が少しだけすっきりしたような気がする。しばらくここでゆっくりしているうちに心身が落ち着くことに期待するしかない。
立ちっぱなしもどうかと周囲を見渡すと、幸いバスルームには小さな椅子があった。髪を乾かすときに使うためのものなのか、もしかしたら介護が必要な客の入浴を補助するためにあるのかもしれない。いずれにせよおかげで便座の蓋にもバスタブの縁にも座らずに済む。
そのまま座るのは気持ち悪いのでフェイスタオルを座面に敷いてから腰を下ろした。紐を緩めていたせいでバスローブの前がはだけて、視線をちらりと下に向けると自分の下半身が目に入る。下着の前身頃――申し訳程度の黒い布地がぴんと張り詰めて、その中にある性器が半勃ちになっているのは明らかだった。
「ったく、なんでこんなことに……」
振り返れば、何もかもあまりに巡り合わせが悪い。よりによって羽多野がこんなものを持っているときに限って、置き引きにあって着替えをなくす。「置き引きにあうなんて知らなかった」と羽多野は弁明したが、万が一にも栄のかばんを持ち去った人間が羽多野の差金で動いていた――なんて陰謀論すら唱えたくなるくらいだ。
なんで自分はこんな状況で惨めにバスルームに籠っているのに、羽多野はキングサイズのベッドで気持ちよく寝ているのか。嫌だといっても強引に迫ってくる男が、栄が熱を持てあましているときに限って素知らぬ顔をしているのだ。意図的にしろ天然にしろ、許せない。
そう、体がうずきはじめた頃から栄はずっと、内心では期待していた。
実は羽多野は寝たふりをしているだけで、本当はチャンスを狙っているのではないか。しばらく待てばいつもみたいに強引に迫ってきて、この熱をおさめてくれるのではないか。なのに今日に限って「セックスはしない」という栄の言葉に馬鹿正直に従おうとしているのだ。まったく、空気を読まないにもほどがある。
とてもではないが、こんな気持ちのままで旅行を続けることはできない。朝になって下着が乾いたら、すぐにもとの服を着て、タクシーを呼んで駅に行こう。羽多野は勝手に残って城壁跡やら大聖堂やら好きなだけ観光すればいい。栄は隣室で眠る男相手に心の中で悪態をつき続けた。
不思議なことに、ロマンチックな気持ちとは程遠いのに体だけは言うことをきかない。しばらく座っていても緩い勃起がおさまらないし、いやらしい下着を押し上げる体は視線の端に入るだけで情けない気持ちに拍車をかける。だから栄は最終的に「自己救済」をすることに決めた。
こんなのただの朝勃ちと変わらない。一度出してしまえば頭も体もすっきりして眠れるに決まっている。ちょっと握って擦るだけだ。もちろんパートナーとの旅行先で、ひとりバスルームに籠もって変な下着のまま自慰をするというのは滑稽この上ないのだが、背に腹は替えられない。
忌まわしい下着ではあるが、朝まではこれ以外に穿くものがないので汚すわけにもいかない。栄は腰の部分のゴムを少しだけ押し下げて、緩く勃ち上がったペニスを外に出した。
剃毛以来、自分の下腹部の状態をできるだけ見たくも感じたくもないから、排尿のとき以外は直に触らないようにしていた。入浴時はスポンジを使い、自慰は一度もしていない。
いざ覚悟をきめてそこに触れると、つるりと毛がない皮膚の様子が指先に生々しく感じられる。一方、剃毛された箇所は刺激に慣れていないから、自らの指で触れているだけなのに腰が震えるほどの快感が生まれる。つるつるとしたペニス周辺の肌をくすぐると、亀頭がびくんと震えて勃起の角度がました。
自分の手ですらこんなに反応するだなんて――理性は「落胆」を指示するのに、体はそれを裏切っていく。
ほんの一週間前に羽多野がここをじっと眺めて、剃刀をゆっくりと、何度も丁寧にすべらせてすべての隠毛を剃り落としたのだ。それだけでなく翌朝は鏡の前で交わった。どんなふうに自分の後ろが羽多野をくわえこむのか、栄はもう感覚だけでなく視覚でも知っている。
「……っ」
思い出すと、もう止まらない。ぬるりとした透明の液体がペニスの先端から溢れ出し、栄はそれを茎になすりつけて手を上下に滑らせた。
抜くだけで満足だと思っていたのに、先週の行為を思い出せば思い出すほど栄の体は「その先の感覚」を思い出し反芻する。太いものを後ろに咥えこんで、出し入れされるときに薄赤い襞の内側すらあらわになった。羽多野はそこを熱っぽい視線で見つめていた。
交合だけではない、そこに至るまでには指で丁寧にほぐし、唇や舌でも触れてくる。そういえば最初のときは羽多野の爪が伸びていたから、栄の口に指を差し込んでやり方を教え――栄は熱に浮かされたまま自分の秘部を自分の指でほぐしたのだった。
この体の中があんなに熱くて、狭くて、湿っているだなんて知らなかった。そこまで思い出したところで栄ははっとして首を振る。
だめだ、あんなのは。あの日は羽多野があまりに傷ついた様子だったからついほだされてしまっただけ。二度と自分で後ろに触れたりはしないし、触れたところでで感じたりしない。そう言い聞かせながら、しかし鼓動は高鳴るばかりだ。
栄はそっと椅子から立ち上がった。ゴムバンドを外周にまとわせただけの尻は剥き出しで、もちろん後孔を覆い隠すものもない。急所保護のためのサポーターだとしても、下着であるからにはこっちを隠す機能もつけるべきではないのか。そんなことを考えながらゆるゆると指を後ろに滑らせた。
おそるおそる指先で触れると、そこはきゅっと硬くすぼまっていた。羽多野が触れるときは嘘のように簡単にほぐれるのに、指一本入り込む隙間もないように思える。
怖い気持ちと、中に触れたい気持ちがせめぎあった。そしてぎりぎりのところで勝利するのは後者。仕方ないのだ――今日は置き引きというショックな出来事があり、しかも変な下着を履かされて、ちょっと気持ちが昂っているだけ。だからこんなありえないことをしてみたくなる。
右手の中指に唾液をまぶしてから息を止めて、窄まりの中央に押し込む。押し返すような抵抗があったが、ぐっと力を入れると中指の第一関節までが温かい肉に食い込んで――。
ガタッと音がした。
「……!」
心臓が止まるほど驚いて、いや、実際止まってくれた方が幸せだったかもしれない。確かめなくても何が起きたかはわかっている。
なぜバスルームに鍵をかけなかったのか。いくらよく寝ているように見えたからといって、気を抜くべきではなかった。だがそんなことをいくら考えたところで、何もかもが遅い。
「谷口くん?」
ベッドから消えている栄を心配して探しにきたのか、それともトイレにでも行きたくなっただけなのか、寝起きで半開きのまぶたをこすって――それから羽多野はかっと目を見開いた。
「何やってるんだ?」
栄はぱっと自分の下半身から手を離し、バスローブの前身頃をかきあわせた。
「な、何もしてません……」
もちろんその答えに無理があることはわかっている。