羽多野が眠そうな顔をしているのをいいことに、栄はまず「なかったことにする」可能性にかけてみることにした。だが、案の定そう簡単にはいかない。
「……何もしてないってことはないだろう。だって、いま」
「ね、寝ぼけて夢でもみたんじゃないですか」
疑わしげな視線を向けてくる羽多野に食い下がってみるが、一歩一歩にじり寄られて結局は壁際まで追い詰められた。悪い意味で既視感のあるシチュエーションだ。
ぐっと身をのりだした羽多野は栄の顔をじっと見つめ、言う。
「寝ぼけているどころか、すっかり目が覚めたよ。なんたって、すごいものを見たからな」
「……っ」
これ以上逃げられないことを悟った栄は、必死に保っていたポーカーフェイスを崩す。体だけでなく顔までも燃えるように熱い。すごいもの見た――確かにそうだろう。バスローブをはだけて左手でペニスを握り、右手は後孔に。変な下着というトリガーを与えられたのは確かだが、羽多野に強要されたわけでもないのに、栄は自らそこに指を伸ばしたのだ。
「あれは、あの、なんというか」
「セックスはしたくなくても、オナニーは別腹ってわけか? わからないわけじゃないが、隣にいた身としてはちょっと傷つくな」
人ごとのような口ぶりにかちんとくる。
「なっ……傷つくって、そっちこそ気持ちよさそうに熟睡してたじゃないですか」
羽多野がもう少し気を利かせて、空気を読んだ動きをしていればここまで恥ずかしいことにはならなかった。あのままベッドで襲われていたとすれば別の意味で屈辱ではあるが、少なくともバスルームでひとり尻に指を入れている場面をおさえられるよりはましだった。
「あなたは無神経すぎます!」
居直った栄が責め立てると羽多野は考え込むように口元に手を当てた。ちなみに「荷物を減らすため」寝間着を持ってこなかった羽多野は裸にビキニブリーフ姿だ。
もともとはジョギングのほか、ジムでウェイトトレーニングをしていた羽多野の体は、水泳で絞った栄の体躯に劣らず見栄えがする。最近ではたまに職場の近くにあるジムの非会員メニューで汗を流すことがあるようだ。素直にその施設の会員になってくれればありがたいのだが、決断を先延ばしにしているところを見るとまだ、羽多野は栄と同じジムに入会することをあきらめていないのだろう。
ともかくいまの栄は自慰をがまんできない程度に追い詰められており、しかも扇情的な格好をした羽多野が目の前にいる。至近距離で顔を見るのは気まずいが、だからといって視線を落とすとたくましい胸や腹、中にあるもののシルエットを隠し切れていないぴったりとした下着までも目に入る。見ないようにしようと思えば思うほど意識してしまい、どうにか気をそらそうと栄は気まずくバスローブの合わせ目をいじった。
次に投げかけられる質問は、あまりにもストレートだ。
「寝ている俺が悪いってのはつまり、君はしたかったってこと? 今週末は絶対に俺とはやりたくないっていう前言は撤回するのか?」
「そういうことじゃなくて」
はあ、と羽多野があきれたようにため息を吐くと熱い息が栄の前髪を揺らした。
「いつもそうだ、俺に答えを当てさせて、でも何を言ったところで『そうじゃない』『そういうつもりじゃない』。谷口くんとゲームをするのは楽しいが、ときどき面倒くさい気持ちにもなる」
伸ばされた指が首筋、ちょうど頸動脈のあたりに触れた。ぞくりと腰の力が抜けるような感覚に震えるのは、バスローブの中はまだおさまっていないからだ。動揺は十分すぎるほど伝わっているようで、羽多野は楽しそうに栄の首をなぞり、指先をタオル地の内側に差し込もうとする。思わず栄はごくりと喉を鳴らした。
「必死に前をかきあわせて、その分厚くて着心地の悪そうなものの内側はどうなってるんだ?」
揶揄するような言葉に煽られて、ますます体温が上がる。この中は――さっき慌てて隠したときのままで、ちっぽけな下着からは勃起したペニスがはみだしていて、後ろだってまだ刺激を待ちわびている。
「どうって、何も……」
「このままオナニーショーを見せてくれるっていうなら、それも大歓迎だ。でも君が別のことをお望みだっていうなら、きちんと言葉で命じて欲しいな。だって俺は『お預け』されている身だから」
いくら待っていたところで羽多野の前であんなことの続きをやる気はない。かといって、このまま顔を見合わせていて自然に熱が消えることもないだろう。栄は返事に困って唇を噛んだ。
あからさまな言葉が必要だろうか。いや、何も言っていないのに羽多野の下着の前だって、すでにさっきよりも膨らんでいる。恥ずかしいおねだりなんてしなくたって、バスローブの前を開いて見せさえすれば、がまんできず男はがっついてくるだろう。布地を握る手は緊張で震える。
「あなたが、こんなものを買ってくるから」
思わず栄が泣き言をこぼすと、ほとんど勝利を確信しているであろう羽多野の口元に笑みが浮かび、手のひらはなだめるように栄の髪を撫でた。
「でも、君はセックスをしたくないと言って、俺は誠実にそれに応じようとした。ベッドの上の境界線だって一ミリもはみだしてはいない」
「だから、こういうときだけ……」
本当にさっきの羽多野は眠っていたのだろうか。栄がもじもじと身じろぎしているのを面白がっていたのではないだろうか。疑いは再び頭をもたげ、深くなる。しかしそんなことをいくら考えたってきっと時間の無駄。
毎度のことだが、羽多野は決して本当のことを明かしはしない。それはひどくもどかしく苛立たしいが――彼の底知れなさやコントロールの難しさこそが栄を引きつけ、蜘蛛の糸のように彼のそばで身動きできなくする源でもある。
「悪かったと思っているんだ。だって谷口くんは本当に怒っていただろう。君のご自慢の腕時計と同じくらいの値段のするウイスキーをひと瓶全部、気前よく下水道のドブネズミに飲ませてやるくらいに」
「あれ、そんなにしたんですか?」
先日の「被害額」をさらりと明かされ、栄はぎょっとして目を丸くした。剃毛と破廉恥なセックスの仕返しに、栄は羽多野の秘蔵の酒を全部キッチンのシンクに流した。ひどく腹を立てていたし、詳細を目にして怖気付くのも嫌だったので、極力酒瓶のラベルに目をやらずに勢いでやりきったが――。
「そういえば確か、山崎が一本あったような気も……」
「ああ、山崎二十五年。秘書時代に知り合いの会社経営者に紹介されて、付き合い半分で買ったが、今じゃ目が飛び出るような金額で取引されてる」
栄だって「山崎」や「響」、「白州」や「竹鶴」といった銘柄が値上がりしていることが知っていた。そういえばバーで「白州」の何年だかを頼んだときには小さなグラス一杯で数千円取られた。シンクに流した山崎はたしかにものすごく良い香りがしたが、まさかそんなに高いとは。他の酒まで合計すれば三桁万円近いコレクションをふいにしたのは、いくら仕返しにしたってやりすぎだ。
悪かったと思っている、という言葉とうらはらに羽多野はまたもや器用に栄の罪悪感をかきたてた。その上でとっておきの甘い言葉を耳に囁くのも、いつもの作戦。
「いいんだ、君にはそのくらいの価値がある」
そう、これはいつものずるいやり方だとわかっているのに、栄は歯の浮くような言葉にうっかり気を良くしてしまうのだ。