3.栄

 案の定、行為の後に疲れて二度寝してしまい、目を覚ますと昼過ぎだった。これだから朝からセックスなどするものではない、と思いつつも「適度な運動と十分な睡眠」の効果は抜群で、激務で疲れ切った体も一気に回復したような気がした。

 起き出して、昼食にしても遅すぎる食事をとりながら羽多野は映画に行くつもりだと申し訳程度に栄を誘った。おそらく断られるのは承知の上での社交辞令なのだろう。

「遠慮します。俺、泳ぎに行ってくるんで」

 羽多野はわざとらしく目を見開いて驚いた振りをする。

「泳ぎに行くって、大丈夫なのか?」

「大丈夫って?」

「いや、足腰がくがくなんじゃないかと思って」

 案の定であるとはいえ、爽やかな土曜の午後には似つかわしくない下品な冗談に栄は顔をしかめて言った。

「あなたのそういうところ、嫌いです」

「谷口くんはいつでも嫌とか嫌いとかばかりで、たまには褒めて伸ばしてくれよ。そういうのもマネージメント技術のうちだぞ」

「だったら褒められるような振る舞いや言動を心がけてください」

 そういえば、一時期巷では「大切な人の好きなところを100個書き出す」というのが流行していた。同じ部署の女性職員たちが飲み会で盛り上がっているのを、部下だった大井が白けた顔で眺めて「くっそ面倒くせえ」とつぶやいたことを記憶している。飲み放題の安ワインでほんのり酔いながら栄は、自分は尚人の好きなところを100個上げられるだろうかとぼんやり考えた。いくら愛していたって、具体的に100と言われれば難しい。

 そして、ふとそのことを思い出して気づくのが――。

「俺、羽多野さんのいいところって、ほとんど思い浮かばないです」

 いや、客観的に見れば羽多野にもそれなりに優れた部分はある。しかしそれが栄として「好きな部分」かと言われると疑問だし、そもそもどれも留保付きの長所なのである。

「歳の割に」顔も体型もいい、「押しが強くて性格が悪いが」仕事はできる、「強引で変態的でねちっこいが」セックスは上手い。さらに一般的には褒められるべき、高身長・高学歴で英語が堪能という部分に至っては、栄にとっては憎たらしい短所でしかない。

「ひでえなあ」

 眉を潜めながらも、このくらいの暴言はいつものこととばかり軽く受け流して、羽多野はベーコンエッグの最後の一切れを口に放り込んだ。栄はもう一言付け加えるべきか迷い、結局自分の心の中に留めておくことにした。

 ――嫌いなところなら、いくらだって思い浮かぶんですけどね。

 

 土曜日の午後のジムは混み合っている。この辺りのようなロンドン中心部に暮らすビジネスマンは基本的に年収も高ければ社会的地位も高い。日本以上に健康や外見が「仕事上の信用」に直結しがちな欧米のビジネスシーンを考えれば彼らがジム通いやらオーガニックやらスーパーフードやらに凝りがちなのは理解できるが、それもまたある種の社会的圧力なのだと考えると気の毒にも思える。

 案の定プールにも普段より多くの人間がいてうんざりする。そこらの安いジムと比べれば高額の利用料を支払っているだけあって衛生管理はしっかりしているに違いないと自分に言い聞かせるが、赤の他人と同じ水に浸かることは楽しくない。しっかりとゴーグルを付けて水に入り、今日は普段より早いペースで泳ごうと心に決めた。

 いつもと同じ三千メートルを短めのタイムで泳いだので、プールを出たときには息が上がっていた。腰のあたりがだるいのは今朝の疲れが残っているから……そんなことを考えて恥ずかしさに顔が熱くなるのを感じる。風呂で何度も確認したにもかかわらず、ふと不安になって裸の上半身に目を落として「痕跡」がないことを確認した。

 大丈夫、肌には染みひとつない。今も時間があるときにはたまに剣道グループに稽古をつけに出かけているが、最初のときと違って簡単に打たれることはなくなった。胴に不格好な青あざを作ることもない。

 ちらりと自身の胸にも目をやるが、そこも羽多野と寝る以前と変わらないはずだ。冗談まじりに「泳ぎに行けないようにしてやる」と言われたときには恐怖したが、インターネットでも調べまくった結果、常識的な回数・方法の愛撫で目に見えるほど乳首が肥大するようなことはまずないらしい。もしも羽多野が言ったような変化が体に起きていたならば、栄は絶対に胸に触れることを許さないだろう。

 それに――と、怪しまれない程度に栄はプール近辺にいる男たちを見る。栄が東京で通っていたジムも六本木という土地柄、日本にしてはかなり客層が多国籍だったと思う。しかしここロンドンはそれこそ世界有数の国際都市で他民族都市。多様性は東京の比ではない。泳いでいる人たちの髪の色、肌の色、体格など実にバラエティに富んでおり、当然それは胸の色や形状、股間の膨らみについても例外ではない。

 そこまで考えたところで、はっとする。プールで他人の体を観察するなんて、まるで変態みたいな真似じゃないか。それもこれも、羽多野が変なことを言うからいけない。いつも通り都合の悪いことすべてを羽多野に押し付けて、栄は大きく深呼吸して息を整えるとシャワーへ向かった。

 いつもより念入りに全身を洗って、ジム用のマイクロファイバータオルで髪を拭く。水から上がって時間が経つにつれてずっしりと重石のような疲れが全身を襲い、どこかに寄って帰る気力もなさそうだ。どうせ家はすぐ近所、しっかり髪を整えなくたって誰にも会わない。そんなことを考えながら着替えて荷物を整えていると、カタンと音がして、コロコロと何かが床を転がってくる。

 思わず拾い上げたのはゴーグルのケースで、どうやら隣で着替えていた男のものらしい。

「どうぞ」

 差し出すと、男はにっこりと笑った。

「ありがとうございます」

 栗色の髪に白い肌。細身で栄よりやや小柄な男の顔立ちにはどことなく親しみやすさを覚える。その理由を探してじっと見つめてしまったことに気づかれたのか、ゴーグルケースを受け取りながら彼は言った。

「どちらのご出身ですか?」

「日本です」

「ああ、日本人の方なんですね。初めまして。こんにちは、私はジェレミーと言います」

 突然彼の口から訛りは強いが流暢な日本語が飛び出したので、栄は驚いた。いや、大都会ロンドンだから日本語が話せる人間だってあちこちにいても不思議はないのだが、偶然ジムのロッカーで隣に立った男から日本語で声を掛けられるというのは想像していない展開だ。

「日本語……お上手ですね……」

 思わず月並みな言葉を返すと、ジェレミーと名乗った彼はうなずいた。

「私、おばあさんが日本人なんです」

「ああ、どうりで!」

 そこで納得がいった。ジェレミーの顔を見た瞬間に感じた親しみやすさの原因は、その顔立ちの中に慣れ親しんだ東アジアの血を感じたからなのだろう。

 だがジェイミーは栄の「どうりで」を、彼の日本語能力への感想と受け取ったらしい。

「あ、違います。おばあさんからは日本語は習っていないので、日本には大学を卒業してから二年間、働きに行っていたんです」

「仕事?」

「はい、子どもに英語を教える仕事です。ALTと呼ばれる制度、ご存知ですか?」

 栄はうなずく。ALT――アシスタント・ラングエッジ・ティーチャーの精度自体は総務省と地方自治体が担当なので直接の関わりはないが、存在は知っている。一時期その労働条件が法的に不適正ではないかとマスコミや国会で取り上げられたことも記憶に残っている。

 確か、各国のネイティブの英語話者が、日本の小中学校で英語を教えるアシスタントとして来日して働くことができる、という制度だ。日本の英語教育へのメリットという面だけでなく、若い外国人に日本で生活し仕事する機会を与えることで親日派を醸成する効果もある……どこかの会議で担当者がそんなふうに語っているのを聞いたこともあった。

「へえ、日本のどちらに?」

「東京です」

 ありがちなことだが、異国で意外なつながりのある人物に出会うと、それがたいした共通点でなくても嬉しくなってしまう。もちろん道端で片言で客引きしてくるような怪しい人物は問題外だが、ここは高級住宅街の高級ジム。しかも目の前にいるのは栄とそう変わらない歳格好の、人懐っこい顔をした男。

 だから栄は、ジェレミーに「良かったらコーヒーでも飲みに行きませんか?」と誘われて、二つ返事でOKした。