ジムから数軒の場所にあるカフェに入ると栄はコーヒーを注文してジェレミーは紅茶を頼んだ。ポットで運ばれた茶の抽出をじっくりと待ち、たっぷりとミルクを注ぐやり方はいかにも英国人らしく優雅にも見えた。
「東京の生活はどうでしたか?」
会話の糸口にと当たり障りのない質問をすると、ジェレミーは笑う。明るいテラス席で見る彼の顔や雰囲気はロッカールームであったときより若く――いくらかあどけなさすら感じさせる。普段仕事でやり取りするやり手の経済人や、国は変われどどこか似たような雰囲気を漂わせる官僚たちとは異なる空気感は栄にとって新鮮なものだった。
東京の風景を思い出そうとするかのように軽く目を細め、青年は言う。
「とにかく大都会でびっくりしました。あんなにたくさんの高層ビルも人も見たことがなかったから、最初はお祭りでもやっているのかと思いましたよ」
「ああ、たまに聞きますよね。渋谷のスクランブル交差点とか」
あまりにたくさんの人が行き交う姿を目にした地方出身者や外国人が何かのイベントだと勘違いするという話。東京で生まれ育った栄はそれをおおげさな冗談だとばかり思っていた。だが、出会って間もない頃に尚人を観光に連れ出したとき、素直な彼は「お祭りか花火大会みたいに人がたくさんいる」と教科書に出てくるみたいな反応を示した。育ってきた環境によっては本当にそんな感想を抱くことがあるのだと、栄はむしろ驚いた。
だが、ここはロンドン。尚人の生まれ育った九州の小都市とは違う。繁華街には人があふれているし、近未来的なビルなど日本より多いくらいだ。
「でも、ロンドンだって人も多いし、シティやカナリー・ワーフあたりの高層ビルは東京よりも壮観だと思いますけど」
決してロンドンを持ち上げるわけではなく、正直な印象だ。しかしジェレミーは軽く首を振ると、自身はロンドン出身ではないのだと言った。
「サフォークの小さな街の出身で、大学までずっとその近辺でした。ロンドンには子どもの頃一度家族旅行に連れてきてもらったくらいで……だから東京に行くまでは大都市に免疫がなかったんです」
「サフォーク……」
栄は頭の中にブリテン島の地図を思い浮かべた。東側、確か州都はイプスウィッチ。ぼんやりと「このあたり」という場所はわかるが、はっきりとしたイメージはない。
この一年で地方への出張は何度か経験したが、どれもマンチェスターやリバプール、リーズといった大都市ばかりで、それらに比べてロンドンからの距離は近いものの、サフォークというのは確かにマイナーだ。
「いかにもイングランドの田舎町っていう感じで、のんびりしたいいところですよ。私の故郷は内陸部なので、イプスウィッチに行くのと変わらない距離にケンブリッジがあります」
ジェレミーはさりげなく栄の知識の及ぶ範囲まで話題を戻してくれたようだ。さすがにケンブリッジ大学くらいはわかる。だがそこも世界有数の大学を持つ学園都市というだけで、確かに「都会」という印象からは程遠い。そんなのどかな環境で生まれ育って、突然異国のしかも超大都市。それはさぞかし驚いたに違いない。
「だったら東京は騒がしくて馴染めなかったんじゃないですか?」
「最初は驚きましたけど、何もかも新鮮で刺激的でした。お金はそんなになかったですが、ただ歩き回ったり、なんなら山手線にぐるぐる乗ってるだけでも面白かったです。ほら、ロンドンだと私なんて田舎者だってからかわれることもありますけど、東京だとイギリス人だってだけでなんかちょっと格好いいみたいに思ってもらえたり」
「はは、それはあるでしょうね」
大学を卒業した頃に友人から「ALT」なる制度を使えば簡単に日本に行くことがでいるのだと聞いたジェレミーはすぐに応募を決めたのだという。祖母のルーツの土地ということで子どもの頃から日本に興味を持っていたが、留学や一般的な就職はハードルが高い。英語教師として、しかも公的な制度を使って訪日できるのは渡りに船だった。配属先は杉並区の小学校。
「子どもたちが教えた英語を使って一生懸命話しかけてくれるのも可愛らしくて、できることならずっと続けたいくらいでした」
そう言って微笑む姿にふっと懐かしい顔が重なり――栄はあわててそれを打ち消す。
いくらか日本人の血が入っているとはいえ人種的にはまったく異なるし、顔立ち自体に似たところはないのだが、そういえばジェレミーの柔らかい雰囲気はほんの少しだけ尚人に似ているかもしれない。いや、でもこんな考え失礼だ。出会ったばかりの他人を元恋人に重ねるなんて。
「帰国後はロンドンに?」
「故郷には仕事もないですし、日本文化やコンテンツに興味があって」
昨年英国に戻ってから、コンテンツ輸入を手がける会社に勤めはじめたのだとジェレミーは話した。会社としてはアジア圏全体のコンテンツを取り扱っているが、本人としては最近他国に押されつつある日本文化の輸入に関わっていきたいのだと、静かな口ぶりだがその奥には確かな情熱が感じられる。とたんに栄の職業病もうずきだす。
「へえ、それは素晴らしいですね。実は私……」
経済アタッシェの栄にとって日本コンテンツの輸出というのは興味深い話だ。知日派――留学やALTやワーキングホリデーで日本の生活や文化に親しみを持ってくれた層をその後いかに「日本ファン」として引き留めて国と国との架け橋になってもらうかというのも、もちろん大きなミッションである。
この出会いはただのジム仲間で終わらず、仕事にも活かすことができるかもしれない。湧き上がった下心のままに手帳型のスマホケースを開くと最後の一枚の名刺が残っていた。
「大使館、そんな立派な方だったんですね」
栄の肩書を目にしたジェレミーの目に率直な感動が浮かぶのに、キュンと胸の奥が締めつけられるような感覚。きっとこの手の「素直な尊敬」に触れるのがあまりに久しぶりだったからだろう。
「興味深いお話をありがとうございました。良かったら、またときどきお話を聞かせてください」
七割は仕事上の下心、三割はジェレミーという青年への好感……と行ったところだろうか。ジェレミーも彼のビジネスカードを取り出すと、裏側にプライベートの電話番号を書きつけて手渡してきた。
カフェでの会話に思いのほか夢中になって、帰宅するとすでに七時を回っていた。玄関には羽多野の靴がある。映画の後寄り道もせず帰ってきていたようだ。
水着やタオルといったジム用具一式を洗濯機に放り込んでからリビングに行くと、カウチで本を読んでいた羽多野が顔も上げないまま口を開く。
「ずいぶん長く泳いでたんだな」
「はい?」
「十キロは泳いだか? それとも途中で溺れてたのか」
そこでようやく自分が嫌味を言われているのだと気づいた。せっかくの休日の午後をバラバラに過ごしたことへの不満を述べているつもりなのだろうか。だったら栄の希望も聞かず勝手に映画に行ってしまった羽多野も同罪だ。
第一、こういう遠回しな言い回しは気分が悪い――と、常々素直にものを言わない自分のことは棚上げして栄は眉をひそめた。
「いつもと同じ三キロですよ。今はコンテンツ輸入をやってる日本滞在経験者と偶然ジムで会って、何か仕事に役立つかもと思って話を聞かせてもらっていたんです」
ジェレミーとはほんのしばらく話をしただけで後ろめたいところはないにもかかわらず栄は「仕事」という部分に心なしか力を込める。
「プールで出会う、ねえ」
「なんですかその言い方。どこで出会おうと関係ないでしょう」
噛み付くような栄の態度に、羽多野がようやく顔を上げた。この男が栄のプール通いを良く思っていないのはわかっているが、いくらなんでも勘繰りすぎだ。しかし羽多野はまだ納得がいかないらしい。
「アタッシェってそういう仕事なのかもしれないけど、プライベートの出会いも何もかも仕事につなげて、谷口くんには感心するよ。で、その相手は日本語上手いのか」
「まあ、それなりに。どうしてそんなことを聞くんですか?」
そして、次に投げかけられた言葉はあまりに直球すぎた。
「君は日本語ができる現地人にちやほやされるのに弱い。剣道のおっさんといい、今日のそのプールの男といい」
栄の頭にはかっと血が上る。考えるまでもなく馬鹿にされているのだ。
英語では現地の人間と対等に渡り合えないから自分が優位に立てる関係に逃げているのだと――。そして悔しいが、必ずしもそれは見当違いの指摘とはいえない。栄はじっとこちらを見る男を睨みつけた。
「羽多野さんって、本当に感じが悪いですよね。いくら子どもの頃に苦労したかは知りませんが、今のあなたは自分の経歴や能力を十分鼻にかけているように見えます」