5.羽多野

 働き盛りの男性の自殺が多いのは月曜日の朝、という研究結果があるらしい。つまり世の中には仕事から死を思うほど強いストレスを受ける人間も少なくないようだが、羽多野についてはその手の悩みとは無縁だ。

 振り返れば、初めて労働力を金に換えたのは大学時代のこと。米国では留学生のアルバイトは厳しく制限されているが、学内の仕事だけは例外だ。大学入学後しばらくは構内の売店で品出しやレジ打ちをして、成績優秀と認められてからは統計学のチューターをやっていた。貧乏学生にとっては金を使わずできることといえば勉強が散歩くらいのものだ。アルバイトは小遣いをもらって英語&米国文化ができる暇つぶし――つまり、一石三鳥だった。

 マスターコースを終えると、高木リラの父親が経営する商社で働いた。日本育ちの娘婿が会社の後継となることは誰もが知るところで、最初から〈そういう目〉で見られて〈そういう扱い〉を受けた。かつては羨むばかりだった自分が羨まれる。期待も羨望も心地よく、社会人として経験する挫折や失敗は羽多野の反骨精神を程よく刺激した。

 リラとの結婚生活が破綻し帰国してからは、なりゆきで国会議員の秘書を務めた。労働基準法適用除外の長時間労働、わがままな議員や支援者対応さらには不安定雇用の三重苦の割に給与は平凡で、国会議員を目指しているわけでもない羽多野にとって旨味がある仕事ではなかったが、余計なことを考える間もないほどの忙しさに救われたのもまた事実だった。

 そして、半年ほど前に働きはじめたロンドンの政策系シンクタンク――単純な「仕事としてのストレスの軽さ」を思えばこれは断トツだ。顧客や支援者に頭を下げる必要もなければ、小うるさい上役や議員にへつらう必要もない。年間計画をどおりに調査や分析を行いきっちり成果物さえ仕上げればそれで良し。若い頃の自分だったら「リターンが見えず張り合いがない」「実利を生まない仕事に意味はない」などと眉をひそめていただろうが、二度の挫折を経て仕事による自己実現という考えを捨て去った羽多野にとってこの環境は天国といっていい。

 というわけで、普段の羽多野は月曜の朝だからといって憂鬱になることはないのだが、今日のところは事情が違う。

 土曜日の夜に栄とちょっとした口論をした。泳ぎに行ったジムで出会った英国人の男とお茶を飲んできたというだけでも面白くないが、連絡先を交換してきたのだと聞いて冷静ではいられなかった。

 にやけた顔を見るだけで、栄がその男に好感を持っていることはわかる。なのにわざとらしく「仕事に役に立ちそうなネットワーキング」を強調してくる小賢しさにますます腹が立った。

 かといって嫉妬も醜いので自制して軽い嫌味にとどめたつもりだが、どうやら隠しきれない悪意が滲んでしまったらしい。栄は羽多野の口の聞き方が気に食わないと立腹した。

 口もききたくないとばかりに寝室に篭城した栄だったが、翌朝にはいくらか怒りも冷めたのか、口数は少ないものの同じテーブルで朝食をとった。和解のサインを感じた羽多野は普段より低姿勢に甘んじて、ようやく昼過ぎには王子のご機嫌も通常レベルまでに回復――しかし羽多野は実のところまだ「プールの男」のことを気にしていた。

 ジム――しかもそれなりの高級エリアで、それなりの人間ばかりが集まる――で人を〈そういう意味〉で品定めする人間など多くはないはずだ。それをわかってはいてもぼんやりとした不安が胸に居座るのは、羽多野がそもそも向けられる視線の意味を問わず、栄の裸体を自分以外の誰にも見られたくないと思っているからだ。

 多分に恋人の贔屓目なのだろうが、羽多野に抱かれるようになってから栄は以前とは違う色気を醸し出すようになった。顔立ちが良くスタイルが良いのも、王子然とした品の良い立ち振る舞いも元々のものだが、触れられて乱れることを覚えた人間特有の艶かしさとでも言えば良いのか、そういった色香が彼の内側から滲み出している。

 だが、たちが悪いことに本人は今も「羽多野が奇特な物好きであるだけで、基本的に谷口栄とは男を組み敷く側の人間である」と信じて疑わない。よって警戒心もなければ、他人からの性的な視線への認識自体が乏しい。そういった栄のある種のおぼこさに付け込んだことが事実であるだけに、同じような狡猾さと強引さを持った男がもし栄に目をつけたならば……。羽多野はそれを最も恐れているのだった。

 どれほど幼稚な嫉妬であるかは自覚している。過去に付き合った相手や配偶者だったリラにもいくらかの独占欲はあったが、振り返ればそれは感情でなく男としての沽券やプライドを気にしていたような気がする。恋人が誰かに触れられるどころか欲望の視線にさらされる自体に不快感を持つというのは正直、初めての経験だった。

 四十がらみの男が同性の恋人の交友関係に口を出すなんて。どう考えても気持ち悪い。頭ではそう理解している。だが、理屈では割り切れないのが独占欲なのだ、そして、正面きって「他の男と二人で会うのはやめてくれ」と言えない程度に羽多野のプライドは高い。

 さて「プールの男」は何者で、何を狙っているのか。万が一危険人物だった場合にどうやって栄から引き離そうか。そんな柄にもないことで悶々として、羽多野の月曜日は憂鬱に幕を開けたのだった。

 

 閉め切っていたドアがゆっくりと内向きに開くのを目の端にとらえて、ヘッドフォンを外す。視線を上げると、所属部門のマネージャーが遠慮がちな顔で立っていた。

 目と目が合って、彼は笑う。

「やあ、タカ。取り込み中だったら後にするけど」

 もちろん、取り込んでいるはずがない。ヘッドフォンから漏れ出すのは仕事とは関係ない音楽。普段はいつでも誰でも入ってこれるように開きっぱなしにしているドアを閉めていたのは単に気分の問題だった。

「いえ、大丈夫です。何か?」

 資料が欲しいとか意見が聞きたいとか、もしくは何か追加での仕事の依頼か。いくつかの選択肢に思いを巡らせつつ、羽多野はマネージャーの背後に「何かがいる」ことに気づく。ドアの開け方が控えめだったことに加えて彼は身長が約二メートルもあるので、もう一人の存在がすぐにはわからなかった。

「ほら、前に話しただろう。インターンの日本人が来るからタカの手伝いにどうかって」

 マネージャーが一歩分横にずれると、ほっそりとした女性が現れた。オフホワイトのスーツを着て、黒いロングヘアの前髪は眉のあたりできっちり切りそろえられている。二十代後半から三十そこらか。見たことのない女だった。

 顔には愛想笑いを張り付けて、目では如才なく値踏みをし、羽多野は「前に話した」という言葉の意味を探った。

 日本人のインターンが来るという話は聞いた。ロンドンの大学でマスターを出た女性で、期間は三ヶ月。東アジアの政策研究が専門なので羽多野の手伝いができるかも、と言われた記憶はあるが、あれはコーヒーブレイクの立ち話ではなかったか。若者の指導など面倒でしかないから「俺なんてまだジョインして半年のペーペーですから」と適当にお茶を濁したつもりでいたのだ。

 あのときマネージャーは、羽多野の仕事ぶりは政策立案現場での経験に基づいたクオリティの高いもので、謙遜する必要はないと言った。お世辞だろうと思いつつ礼を言ったのが、いつのまにかイエスと受け取られていたとは……。

 同じ言語を話す国でも、米国人と比べて英国の人間は遠回しな物言いをする――表面上の英語能力に問題はなくともコミュニケーション手法についてはまだまだ学ぶ必要があるようだ。

 インターン、しかも日本人の女など面倒この上ない。だが、当人はすでに目の前にいて、「この男が君のメンターだ」と紹介されてしまった。ここから断るのは可哀想な気もする。

 何より羽多野は上司の頼みを断る正当な理由を持ち合わせていなかった。他人の世話をする余裕がないほど忙しいわけでもない。日本人に日本人を指導させるのは安易な気もするが、国籍や民族ではなく単に専門分野の問題だと言われればそれで終わりだ。

 羽多野の葛藤に気づかない様子のマネージャーと、初めての職場に緊張した面持ちの彼女。四つの目が羽多野をじっと見つめる。

 ――まあ、仕方ないか。

 相手の能力にもよるが、資料検索や翻訳の役には立つかもしれない。そう腹を括ると羽多野は立ち上がって右手を差し出した。

「初めまして、羽多野貴明です。歓迎します」

「……初めまして、私は神野じんの小巻こまきといいます」

 ほっとしたように右手を差し出し、いかにも日本人らしい仕草で神野はぴょこんと頭を下げた。

 

 初日は総務の手続きのオリエンテーションでつぶれるので、神野が羽多野のもとで仕事を開始するのは明日からになる――マネージャーはそう告げると神野を連れて部屋を出て行った。

 見送った羽多野はテーブルの上に置きっぱなしだったヘッドフォンを再び頭に掛ける。ニューオーダーの「ブルー・マンデー」これほど今日にぴったりな曲もない。