6.羽多野

 これっぽっちも仕事に気持ちが向かわない月曜日を終えて、そろそろパソコンをシャットダウンしようとマウスに手をかけたところでコンコンとドアが鳴る。カモン、と声をかけると姿を現したのは神野だった。どうやらオリエンテーションが終了したらしい。

 羽多野と仕事をするのは明日からだと言われているのだから、わざわざ顔を出す必要などないのだが、この手の気遣いはいかにも日本人らしい。目と目が合った瞬間、彼女は頭を下げた。

「あの、私イギリスで仕事するの初めてなので、いろいろとご迷惑お掛けするかもしれません。ふつつか者ですが、明日からどうぞよろしくお願いいたします!」

 羽多野は唖然としてしまった。アラフォーの自分から見てもやや時代錯誤な物言い。確か彼女は十歳ほども年下ではなかったか。昭和の嫁入りでもあるまいしと肩をすくめたくなるが、少なくともやる気はあるようだ。

 だが、彼女の過剰なまでに日本的な振る舞いと「言葉」を目の当たりにして羽多野の中には再び不安が湧き上がる。この女性の指導役としてふさわしいのは本当に自分なのだろうか。むしろ同じ国の出身者ということで神野の成長を妨げはしないだろうか。

「やっぱりメンター、別の誰かに頼んだ方がいいんじゃないか? 自分から言い出しづらければ、俺からボスに話そうか」

 そう口にした瞬間、色白の神野の顔がさっと青くなる。

「どうしてですか!?」

 本人は、ただ挨拶しただけなのに担当を投げ出されたと思ってショックを受けたのかもしれない。ファイルとノートをぎゅっと抱きしめて唇を震わせる。

「お忙しいところインターンの世話なんて面倒だってわかってます……私も日本でインターンシップの受け入れ担当したときは嫌々でしたし。でも、どんな小さな作業でも一生懸命がんばりますからお手伝いさせてください!」

「いや、そういうことじゃなくてさ」

 気合だけは十分なようだが、羽多野が気にしているのは別の部分だ。

 部屋に入ってきて以来、神野はずっと日本語で羽多野に話しかけている。日本語が双方にとっての母語である以上不自然とまでは言えないが、これが彼女にとって「英語で仕事をする」第一歩なのだとすれば、日本的なマナーを理解し日本語でコミュニケーション可能な羽多野相手では教育効果は半減だ。もちろん本人が仕事上の成長になど興味がなく、ただつつがなくインターンを終えたいというだけならば余計なお世話なのだろうが。

「神野さん、あなたの正直な気持ちを聞きたいんだけど、インターンは思い出作り? それとも本気でロンドン……いや他の国でもいいんだけど、日本以外で仕事をしたいと思ってる?」

 瞬間、青かった顔が真っ赤になって、意外なほどの剣幕で神野はまくしたてた。

「日本には帰りたくないんですっ!」

 

 午前中のうちに彼女のCVには目を通した。神野小巻、二十九歳。日本ではそこそこの難関として知られる私立大学を卒業後、非上場ではあるが規模の大きな教育系企業に就職。数年ののちに退職してロンドンに留学……というのが大まかな経歴だ。

 安定した仕事を捨てて退路を絶っての海外留学。企業や公務での留学にありがちな「経歴への拍付け」目的ではなく、本人なりに強い気持ちを持っているのかもしれない。彼女の個人的な事情を詮索するつもりはないが、羽多野としても三ヶ月もの間インターン指導にそれなりの時間と労力を取られるからには相手にも相応の態度を求めたい。

 日本人にはありがちなことだが、神野の応募書類の英語は実に立派だった。大学院の成績も良い。だが、彼女はおそらく読み書きに比べて口頭のコミュニケーションに苦手意識があり、さらにこれも日本人によくいる「日本人の前で英語を話すことを躊躇する」タイプ。羽多野は神野をそんなふうに分析した。

「そこまで強い海外就職の意思があるなら、相手が俺だろうと少なくともオフィスでは英語で通すくらいの気概が必要なんじゃないか? メンターが日本人だからって甘えるようじゃ、インターンをやる意味がない」

 日本や米国では二年かかるマスターの学位が、英国の大学院では一年で取得できる。特に社会人留学の場合、この一年の差は時間の面でも学費の面でも大きい。だが、院で初めて留学した人間にとって「一年間」は仕事で通用する英語を身につけるに不十分であることもまた事実である。

 羽多野が英語能力について指摘していることに気づいた神野はうなだれた。

「すみません、つい。これからは仕事場では日本語は使いません」

「いや、ただ言葉の問題だけじゃなく……」

 うまく言語化できないが、今回のケースはこれまでの羽多野の経験した「新人指導」とは明らかに異なっている。異国で、同胞を指導するということ。母国文化と現地文化の間で宙ぶらりんになってしまうのはなんとも中途半端で気持ち悪い。話せば話すほど神野の指導をしたくない気持ちが高まるが、どうやら彼女の側には担当替えを願い出る気はさらさらないらしい。

「わたしはロンドンで仕事をしている日本人の先輩として羽多野さんにご指導いただきたいんです。本気で、絶対に十年は日本に戻らないって決めて渡英してきたんです。だから正直……仕事の探し方とか応募テクニックとか、ビザの話とか、そういうのも含めて相談に乗って欲しくて」

「いや、ちょっとそれは」

 つまり彼女の側としては、英国で職を得るハードルが低い英国人や欧州出身者ではなく、あくまで高度技能を持った外国人労働者として仕事をしている羽多野こそがロールモデルで、あらゆる意味で相談に乗って欲しいと言っているのだった。

 異国での就職活動が不安な気持ちはわからなくもないが、業務を超えた要求を向けられたところで困惑するだけだ。

「あなたの目的はわかったけど、俺じゃ役に立てないと思うよ」

 過度な期待をかけられてもお互い不幸になるだけなので、羽多野はため息とともに正直な感想を口にする。何しろ畑違いの分野での実務経験しか持たず英語コミュニケーションも万全ではない彼女と違い、羽多野に言語のバリアはないし政策秘書として政策立案の実務に携わってきた経験もある。

 日本の新卒一括採用――大学での専攻がさして重視されず「真っ白な若者を自社色に染め上げる」文化には批判も多いが、未経験の若者が仕事を得るハードルが低いというメリットはある。一方で、ジョブ・ディスクリプションが明確で「人に仕事を充てる」のでなく「仕事に人を充てる」この国の文化はプロフェッショナルの育成や人材の流動性の面で優れている反面、職務経験のない若者が「最初のポスト」に食い込むことが容易でない。

 今や全世界の優秀な人間がこぞって欧米を目指している。数カ国語を滑らかに使いこなし有名大学でマスターを取ったにもかかわらず正規のジョブにありつけない三十代なんて、英国人にだって履いて捨てるほどいる。

 羽多野が「ここで仕事を見つけるのは簡単ではない」という所感をそれなりのオブラートに包んで告げると、神野は顔をくしゃくしゃに歪めた。

「でも……あきらめたくないんです」

 泣きそうな顔。いや、泣かせてはまずい。指導を始める前からパワハラ扱いというのは非常によろしくない。

 民放のワイドショーで朝晩「政治不正の黒幕」として報道されまくった経験もある。ここが日本ならばいまさら職場での悪評など気にしないところだが――今の羽多野には、栄の任期が終わる二年後までは是が非でも就労ビザを維持し続けるという目標があった。どうしたって職場での態度は保守的になる。

「そりゃ、せっかく留学したから残りたいって気持ちはわかるが」

 トーンダウンして宥めにかかるが、どうやら羽多野の対応は神野の琴線に触れてしまったようだ。

「そんな軽い気持ちじゃないです。私、本気なんです。絶対にこの国で就職したいんです」

 見た目はほっそりとして、どちらかといえばおしとやかそうに見える神野だが、意外にも口調は頑固そのもの。表情にはエキセントリックさすら漂う。「絶対」という言葉に並々ならぬ意志の強さを感じて羽多野は思わず問うた。

「一体なんでそんなに……」

 するとなぜか即答を避けて、神野は言った。

「羽多野さん、この後お時間ありますか?」

「え?」

「飲みに行きましょう。そこで話します」

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