とことん自分本位な性格の持ち主ではあるが、羽多野はこれまでの職業人生ではそれなりに管理職的な振る舞いも求められてきた。だが、離婚で最初の職を失い、例の事件で議員秘書を辞めたときに思った。いくら献身的に振る舞ったとしても自分は仕事というものには恵まれない運命なのだ、と。
だからロンドンで仕事を探すときにもチームワークの必要性の低い職種に絞った。まさか議員秘書自体にたびたびやる羽目になっていた「部下の機嫌をとるために飲みに誘って愚痴を聞いてやる」的な振る舞いを異国の空の下で求められるとは完全に想定外だった。
職場から少し離れたところにあるパブに神野を連れて行くと、レストランフロアになっている二階に上がる。月曜の早い時間だからか空いていて、窓際の四人がけの席に向かい合って座った。
「しっかり夕飯食いたいなら神野さんは適当に頼んで。俺はビールとつまみくらいでいいから」
そう言ってメニューを差し向けると、神野の視線がちらりと羽多野の左手をかすめた気がした。直接「家で夕食を作って待っている家族がいるのか」と聞いてこないのは初対面の遠慮からだろう。年格好からすれば妻子がいたって不思議ではないどころか、その方が自然。しかし羽多野からは家庭を持つ者に特有の生活臭が感じられない。きっとそんなことを考えながらこちらを値踏みしているのだ。
「念のため言っておくけど、俺は結婚はしてない。ただし特定の相手はいる」
いつまでも探るような視線を向けられるのも気持ちが悪いので、あらかじめ宣言しておくことにした。相手がいることも明かしたのは、万が一にも彼女が自分に関心を抱くことを牽制する意図もある。
ちなみに夕食は特に申し合わせることはなく、早く帰った方が適当に作るというのが最近の家庭内ルールだ。どちらかといえば平日は羽多野が担当することの方が多い。今日の栄は総理訪英の後始末で残業の予定だと言っていたから、ちょっと神野の話を聞きながら飲んだとしても羽多野の方が先に家に着くだろう。
「すいません、詮索するつもりじゃなかったんですけど……」
指輪の有無を確認したことを咎められたと思ったのか、神野は頬を薄く赤らめる。一人でしっかり食事をするのは気まずいと思ったのか、彼女もビールの他には軽い付け合わせ程度を注文した。
やがてビールが運ばれてくるが、乾杯という雰囲気でもない。何も言わず羽多野がグラスを口に運ぶと、気合を入れるように神野もぐっと一口飲んだ。
そして――。
「私、バツイチなんです」
彼女がまず羽多野に告げたかったのは、どうやら自身の離婚歴だったらしい。
「へえ、バツイチ……」
奇遇だな、俺もだ――などと言うつもりはない。わざわざどうでもいい女相手に自分のプライベートをペラペラ話す必要性は感じないし、そもそもあの結婚は今となっては黒歴史といっていい。ついでに神野小巻がバツイチだろうがバツニ、いやサンでもヨンでも果てしなくどうだっていい。
だが離婚歴があると聞いた時点で、そしてそれを神野がまず自分に伝えてきたことで彼女のストーリーについては漠然と想像がついた。
離婚というのはそれに至る段階でも、いざ実行するに当たっても、何かと消耗するものだ。かつてリラとの結婚が破綻した羽多野が憤怒と失意の中で日本に戻ることを選んだように、彼女は日本国内での思い出や人間関係といったん距離を置きたくて留学してきたのではないだろうか。
「で、気分転換に国外脱出してきたと? クソみたいな元ダンナのいる日本はもううんざり?」
神野は小さくため息を吐いた。
「羽多野さんって意地悪なんですね。人が込み入った話をしようってときに結論を先取りするのって、女には嫌われますよ」
細い体に色白の肌、黒髪の大和撫子的な外見には似つかずこの女も意外とはっきり物を言う。
「悪いけど俺、合理主義なんで。同じ結論にたどり着くのに長々とした物語を聞く趣味ないんだ。仕事の上でもそうだっていうのは覚えといて」
何が「女に嫌われますよ」だ。そんなの望むところだ。ただでさえ家に帰れば尋常でなく面倒くさい男のご機嫌をとるお仕事が待っているのだから、外で無駄なエネルギーを使うのは極力避けたい。
「でもまあ、簡単に言えばそういうことです。入社後の宿泊研修で意気投合して同期婚第一号って周囲には派手に祝福されて……それなりに幸せだと思ってたんですけどね」
長々とした話は不要と言ったばかりなのに、聞いていたのかいないのか神野は昔話を続けつつぼんやりと遠い目をする。
続けて語られた離婚のきっかけも予想の範疇。結婚三年目に残業を理由に帰宅が遅くなることが増えていた夫の浮気が発覚したというのだ。しかも相手は勤務先にアルバイトに来ていた女子大生。妻は同期入社で浮気相手も社内とは、とりあえず恋愛関係は手近なところで調達する主義の男だったのだろう。
思ったとおりの平凡な話。だが、どんな平凡な話も張本人にとっては世界を揺るがすほどの悲劇となりうることを羽多野は知っている。「たかが」子どもを作れないだけで羽多野の結婚生活は破綻した。「たかが」仕事が忙しかったことをそもそもの原因として栄は八年間も付き合った恋人に浮気され別れる羽目になった。よくある話だと肩を叩くのは簡単だが、当事者にとってそんなもの何の慰めにもならない。
修羅場の末に男とアルバイトがまず会社を放逐されて、それから自分も退職を決めたのだと神野は肩をすくめた。喧嘩両成敗、いやこういう場合は三者痛み分けというべきか。
「世の中には社内不倫がばれても開き直る男の方が多いから、一応は恥の意識くらいはあったのかな」
「あら、違いますよ。恥の意識があったら最初からバイトになんか手を出さないに決まってるじゃないですか」
毒にも薬にもならないような羽多野の感想に、日本語のやりとりなど誰が聞いているわけでもないのに神野は声をひそめた。
そして、続ける。
「だって私、一応そこの社長の娘なんですよ? 不倫がばれて会社にいられるはずないに決まってるじゃないですか」
結局、切り上げようにも終わらない神野の話に延々と付き合わされ、羽多野が帰宅したのは十時を回っていた。もしやとは思ったが栄はすでに帰宅して、風呂も済ませている様子だった。
ダイニングテーブルの上はすっきりと片付いて、水を飲もうと開けた冷蔵庫の中にも特段残り物らしきものはない。
「谷口くん、夕飯は?」
「食べましたよ。その様子だと当然あなたは外ですませてきたんでしょうし、何か問題ありますか?」
念のため確認すると、カウチに座った栄は振り向きもせずに素っ気なく答える。案の定、連絡もなしに帰宅が遅くなったことに怒っているのだ。
「いや……」
確かにこれだけ遅くなるなら連絡すべきだったとは思う。だが、栄だって急な仕事で帰宅予定が狂うことなど日常茶飯事ではないか。「忙しかったから」という理由で連絡がなくたって羽多野は文句など言わないし、大抵は栄の分の食事は残している。たった一度帰宅が遅くなったくらいでこんな嫌がらせじみたことはしない。
大体なんだ、プールの男と楽しくお茶をして帰ってきた土曜日の午後、栄は羽多野に連絡をしたか? しなかっただろう。なぜ自分がしない気遣いをこちらにばかり求めてくる。
ビールでさんざん腹は膨れているが、好戦的な態度を取られればこちらも平静ではいられない。羽多野は当て付けのようにオーブンに火を入れると冷凍ピザを取り出した。