いくら待っても帰って来ず、連絡すらない。この数時間で軽く十回、いや五十回は通知も来ないのにメッセンジャーのトーク画面を確認した。
羽多野が帰ってきたのは、いいかげん痺れを切らした栄がこちらからメッセージのひとつでも送ろうかと思った頃だった。
「ただいま」
いつもどおりの呑気な声。どこかで事故にあったのではないかとか、若者のギャンググループから親父狩り的なものにでも遭ったのではないかとか、不穏な想像をしていたところだから完全に拍子抜けだ。
しかもリビングに足を踏み入れた羽多野からは、ふんわりとアルコールのにおい。
お互い仕事を持つ大人だから、飲んでくることくらいあるだろう。急な誘いだったら連絡する暇もなかったのかもしれない。できるだけ羽多野の事情に寄り添う努力をしながらそれでも栄のいらだちがおさまらないのは、今日はわざわざ残業を切り上げて早めに帰宅した努力が空振りになったからだ。
土曜日の夕方の口論以降、二人のあいだにはどこかぎくしゃくした雰囲気が漂ったままだった。たかがコーヒーを飲んできたくらいで小姑のようにうるさく説教をしてくる羽多野にはうんざりしたし、「日本語を話す現地人にちやほやされるのに弱い」というのはあんまりな言い草だ。
栄も人並み以上に傲慢である自覚はあるが、羽多野は話をかけてひどい。英語が堪能なくらいで偉そうに――と歯噛みする一方で、その英語がままならない自分がむきになるのは負け犬の遠吠えじみて情けない。内心では引きずっているのに気にしていないふりで友好的な態度を「装ってやった」ところがこの始末。
底意地が悪く狡猾な男だから、きっとこれは土曜の仕返しのつもりなのだろう。わかりきった見え見えのやり方なのにわかりやすく乗せられてしまう自分が悔しかった。落ち着かず部屋を歩き回って、作った夕食の半量を腹に収めてから九時を回った時点で羽多野の分をゴミ箱に投げた。
キッチンに足を踏み入れる羽多野の気配から彼が夕食を探していることを察した。まさかこの俺がわざわざラップでもかけてご丁寧に残してやっているとでも思ったか、馬鹿にするな。腹の中で毒づく。
「谷口くん、夕飯は?」
念を入れてわざわざ確認してくる羽多野に、栄はあえて振り返らずにそっけなく答える。
「食べましたよ。その様子だと当然あなたは外ですませてきたんでしょうし、何か問題ありますか?」
「いや……」
短い間をおいての返事には不機嫌がにじんだ。もちろんこちらから喧嘩を売っている自覚はあるが、同時に栄は、羽多野がすぐに折れて謝罪してくることを期待していた。
土曜から抱えているもやもやを解消するには、この男が非を認めて膝を折るしかない。失礼なことを言って悪かった。今日はちょっとした意趣返しで帰宅が遅くなった。もうしないから許して欲しい。たったそれだけの言葉があれば、栄だってまんざらでもない顔でうなずいてやるつもりだ。しかし普段は軽薄な言葉を大安売りする男が、こういうときに限って期待した返事をよこさない。
ばたんと冷蔵庫のドアが閉まる音。水でも飲むのだろうと思って黙っていると、今度はオーブンが余熱をはじめるブウンと低い音が響いた。
怪訝な顔の栄が振り向くと、羽多野は冷凍ピザのビニールを剥いているところだった。
「何やってるんですか」
夜の十時過ぎに、出来合いのピザ。思わずツッコミを入れずにはいられない。
「何って、夕飯だよ」
羽多野は意に介さない様子で答える。
「こんな時間にピザ?」
責めるように眉をひそめたところで、自分の悪意が羽多野から跳ね返る「カチン」という音を聞いたような気がした。
「うるさいな」と、羽多野はまるで、かつて二人が犬猿の仲だった頃に栄を責め立てていたときとそっくりな顔をした。
「君だって俺のこと気にせず自分だけ好きなもの食ったんだろう? 谷口くんがご自慢の体型を保つためにどんな努力しようが好きにすればいいけど、俺の食生活にまでいちいち文句つけるなよ」
「ご自慢の、……って」
「違わないだろ、ナルシストの癖に」
自覚していることでも、他人に――とりわけ羽多野に指摘されると腹が立つものだ。栄は顔を真っ赤にして言い返す。
「文句なんてつけていません! 羽多野さんが醜くぶくぶく太ろうが生活習慣病で苦しもうが、俺の知ったことじゃないですから!」
「だったら黙ってろ」
「……黙ってろ?」
それはつまり、栄に愛想を尽かされても上等と言いたいのか。それとも、どんな醜く惨めな状態になっても栄が羽多野を見捨てることはないとたかをくくっているのか。いずれにせよ許せる言い草ではない。
怒り心頭で、このまま羽多野など捨て置いてベッドに行ってしまいたいが、このまま「黙っていろ」と言われて引き下がるのも悔しい。栄はその場に留まって反撃の材料を探す。
やがて部屋には香ばしいピザの匂いが漂いはじめた。自分の夕食は済ませたにもかかわらず食欲がかきたてられるが、鉄の自制心と羽多野への意地があるから死んだってひと切れくれだなんて言わない。
「大体、何時間も飲んでたくせにどうして食べてないんですか」
効果的な当て付けが思い浮かばず、結果的に中途半端な叱責を口にする。
「楽しく飲み食いするような場じゃなかったんだよ」
この図太い男が食事を躊躇するような場とは一体なんだろう。首をかしげたところで羽多野はおおげさなため息を吐いた。
「インターンを押しつけられたんだ。頼むかもとは言われていたけど冗談とばかり思ってたら、いきなり部屋につれてきて」
言い訳を聞かされても栄の心に一切の同情は湧かない。だって冗談だと受け止めていたのは羽多野の勝手で、事前に話があったならばとても「いきなり」とは言えないはずだ。
「あなたの指導を受けるインターンに同情します。パワハラで訴えられないように気をつけてくださいね。
議員秘書時代の羽多野は仕事はできるが押しが強いと評判で、栄のような役人への態度に至ってはひどいものだった。さすがに心を入れ替えたと信じたいが、この国であんなことをやろうものならパワハラで一発アウトだ。
だが羽多野は飄々と言い返す。
「それが彼女、別のメンターに替えてもらうべきだってアドバイスしてやったにもかかわらず、どうしても俺がいいって」
「彼女!?」
思わず大声が出た。
いや、インターンが女である確率はほぼ五十パーセントだし、これまでだって羽多野の職場にも栄の職場にも女などありふれていた。いまさら引っかかりを感じる必要など皆無であるはずなのに、なぜか栄の心には嫌な感情が湧き上がる。
「ああ」と、羽多野は面倒くさそうに肯定する。
落ち着け、こんなことで動揺しているだなんて羽多野に感づかれたくはない。そもそも栄自身なぜ自分がうろたえているのかも理解していないのに。
「その女性と、飲んできたんですか?」
声が震えないよう細心の注意を払う。
一方の羽多野は面倒くさそうにため息を吐いてから焼き上がったピザをオーブンから取り出す。
「だって、どうしても俺に指導して欲しい理由があるっていうからさ。三十分か一時間あれば十分だと思ってつまみだけしか頼まずにいたら、そのまま三時間。まったく、見た目は大和撫子っぽいのにとんだ女だよ」
「大和撫子!?」
つまり、日本人。
なぜロンドンの現地法人で働く羽多野のところに、わざわざ日本人の若い女が。
いや、在米経験も長く外国人の女と付き合ったり寝たりしていたであろう羽多野だから国籍など関係ないのだろうが――それでも栄にとっては、相手が日本人であることがやたらと生々しく感じられる。それに、羽多野がかつて結婚していたリラだって、国籍はアメリカだが半分は日本の血が混ざっていた。
「わざわざロンドンで日本人同士つるむんですか? 俺の場合は仕事上やむを得ませんが」
わかりやすく刺々しい言葉。こんな言い方をしても状況は悪化するだけだと知っているのに止められない。
「つるみたかないよ。ただ彼女、俺から日本人が外国で働くノウハウを学びたいって鼻息荒いからさ」
「ノウハウなんて、そんなご立派なものあるんですかね。ただ帰国子女で、ただアメリカで大学に行ったから英語が得意で、偶然議員秘書してたから政策知識があるってだけでしょう」
幼い羽多野が予備知識なしに米国へ行きどれほどの苦悩を味わったかは聞かされているのに、栄はわざとらしく意地の悪い言い方をした。羽多野は特に意に介した様子はない。
「俺もそう言ったんだけどさ。ただどうしても日本には帰りたくないと。こっちに居座るために就職したいから、ノウハウを知りたいと」
「へえ」
それだけならまだ許容範囲だった。だが、続けて羽多野が口にした言葉は完全に栄の我慢の範疇を超えていた。
「彼女バツイチなんだが、なんとかいう教育関連企業のご令嬢らしい。本人は結婚なんてこりごりなのに、帰国したらすぐにでも親が見合いを持ってきそうな勢いなんだってさ。だから日本にはしばらく戻りたくないと」
栄は言葉を失う。
社長令嬢? 結婚? ――これはデジャブだ。