9.栄

 それらのキーワードが何を連想させるかは、あまりにも明白だ。

 それでも栄には羽多野の真意がわからなかった。嫌がらせ――つまり嫉妬させようとしてわざと煽るようなことを口にしているのか、それとも悪気なく天然で言っているのか。

 口も態度も悪いとはいえ普段の羽多野は栄に対して献身的といっていい。公務員と議員秘書としてやり取りしていた頃に見せていた冷酷な顔からは想像がつかないほどに甘ったるい言葉をささやき、うっとうしいほどの独占欲を見せる男。だから日常生活の中で栄が羽多野が自分に向けてくる感情を疑うことはほとんどない。

 だが、こういうときにふと胸の奥を刺す鈍い痛み。

 栄はどうしても思い出してしまう。

 羽多野は本来はストレートの男だ。肉体に――このような表現が適当かは別として、少なくとも本人の受け止めとしては――ある種の「欠落」があることを知るまでは、同性になど目を向けたことのない人間なのだと。

「どうした?」

 黙々とピザを口に運ぶ羽多野は、じっと向けられたままの視線に居心地の悪さを感じたのか顔を上げて栄を見つめ返す。

 栄のようなくっきりと華やかな顔立ちではない。切れ長の瞳、薄い唇、パーツのひとつひとつの主張は強くないが、全体としてはバランスが取れているといっていい。

 羽多野は栄のように対面を気にして愛想を振りまくことを好まないが、秘書時代の仕事ぶりを見る限り、周囲を適切にフォローしながら事務所を上手く取り仕切っているようだった。

 知っている。年の割には顔も体形も整っていて、どこかニヒルな雰囲気を漂わせた男。口も性格も悪いが仕事はできて、必要なときは確実に手を差し伸べてくれる苦味ばしったアラフォー男。

 ――こういう奴を好む女は、世の中にはそれなりにいるのだ。

 そこまで考えを進めたところで嫌気がさして、栄はぷいと顔を背けた。

「何でもありません。まだ総理訪英の後始末が残ってて明日は早いから、俺はもう寝ます。後はご自由にどうぞ」

 これ以上同じ空間にいると余計なことを口に出してしまいそうだ。とりあえず一晩寝て頭を冷やした方がいい。立ち上がって寝室に引き上げようとしたところで、羽多野が無神経につぶやく。

「なんだ、今日は早かったみたいだし、てっきりもう仕事は片付いたのかと思った」

 柄にもなく残った仕事を放り出して、栄が誰のために早めに帰宅したかを一切理解していない台詞。これ以上返事をする気にもなれずに、抗議の言葉の代わりにバタンと大きな音を立ててリビングの扉を閉めた。

 もちろん自室に引きこもってベッドに入ったからといって、そう簡単には眠れない。上掛けを頭まで被って栄は悶々と羽多野の言葉を反芻し続けた。

 何が大和撫子だ、何が社長令嬢だ。あえてそんな属性を強調して、いくら相手に誘われたからってホイホイ二人きりで飲みに行くだなんて、やっぱり内心いやらしい気持ちがあるのではないか。

 かつての栄はもっと自分に自信があって、むしろ根拠のない万能感にあふれてすらいた。

 失敗を恐れる性格ゆえ奥手なタイプだったが、好意を持った尚人とは首尾よく恋人同士になれた。見た目に優れて社会的にも恥ずかしくない仕事に就いている自分が、好きになった相手に拒まれるだとか、恋愛で誰かに負けるだとか、想像することなしに生きてきたのだ。

 だが、尚人との破局を通じて栄の自信は無残にも崩れ去った。欠点や未熟さと嫌というほど向き合い、自分にはまともな恋愛など無理なのではないかと絶望しかかった。そんな中で、頑なな栄の内側に強引に踏み込んで求めてきた羽多野のことを、いつの間にか手放したくないと思うようになっていたのだ。

 過剰な虚栄心の内側のからっぽな自分を無条件に受け入れてくれるような物好きは、もしかしたらこの世に羽多野しかいないのではないだろうか。もしも羽多野に愛想を尽かされたら、栄は一生素の自分をさらけ出すことができず、誰も愛することも愛されることもできずに生きていくことになるのではないか。

 栄の恋愛対象は男だけであるのに対して、羽多野は男女関係なく相手にすることができる。しかも世間体を気にして「その手の」出会いの場を利用することに尻込みしがちな栄と違って、羽多野のフットワークは軽いだろう。

 もう羽多野しかいない自分と、その気になればいくらだって相手を見つけることができるであろう羽多野。いくら強がって傲慢な態度を取ったところで、その裏側には不安が付きまとう。

 どう考えたってこの関係は栄の方が分が悪い。

「しかも、今のこれって……」

 結婚生活に挫折して、仕事に挫折して完全に心が砕かれたときに羽多野は栄に出会った。元妻であるリラとその父に復讐したい気持ちを「潔癖で融通のきかない」栄ならば止めてくれるのではないかと期待してロンドンにやってきて、一緒に暮らすうちに情が移った――というのはある種の「吊り橋理論」なのではないか。

 冬の日に東京まで羽多野を迎えに行った栄のことを羽多野は「白馬の王子様」と言い、足に口付けて忠誠を誓った。

 だがそれが永遠の誓いだなんて、誰が証明できる?

 若い頃の羽多野ならば、なりふり構わず口説きにかかっていたであろう「逆玉の輿が期待できる社長令嬢」。そんな女が三ヶ月もの間べったりとくっついてくるというのだ。とても冷静ではいられないが、この気持ちを表に出せば羽多野はきっと自意識過剰と笑うだろう。

 救いは、羽多野がその女に色気を出したとしたところで、彼にはどうすることもできない肉体の問題があること。醜い感情だとわかっていても、栄はそれを喜ばずにはいられない。

 子どもを作れない体であると知って、どれほど羽多野が傷ついたかはわかっている。そしてセックスのときに栄の体液に見せる執着からも、羽多野が今もコンプレックスを引きずっていることもわかっているのに――。

 ぼんやりとした不安と自己嫌悪に溺れそうになりながら、その晩の栄はなかなか眠りにつくことができなかった。

 

「そういえば、羽多野さんはお元気ですか?」

 連れ立ってランチに出かけたトーマスが切り出したのは翌日の昼のことだった。

 ぎくりと栄の心臓は跳ねる。

「え? 羽多野……さん?」

 栄は自分の性的志向については絶対にオープンにしたくないと思っている。

 今どき時代遅れな考え方だと言われるだろうが、保守的な職場、保守的な家族にマイノリティでいることを知られるメリットなど何一つ思い浮かばない。近年は企業の幹部クラスや公務員でLGBTであることを公表する人間もいるが、社会を変えたいとかお仲間に勇気を与えたいだとか、栄はそんなことはこれっぽっちも考えていない。子どもの頃から、ごく普通のまっとうな人生の中で成功したかった。自分が同性しか愛せないことだけでも、十分なほどの挫折と葛藤を味わっているのだから、その上外界と戦うようなつもりが毛頭ない。

 とはいえ、連絡がつかなくなった彼を探し回る過程ではトーマスとその恋人のアリスには十分すぎるほど世話になったし、取り乱した姿すら見られた。

 経緯が経緯だけに、羽多野が仕事を見つけて再渡英してきたことを二人には報告せざるを得なかった。よくできた秘書であるトーマスは今では詮索してこないが、彼が栄と羽多野の関係をただの友人だと信じているかは正直疑わしい。何しろ最初に四人で会ったときに羽多野が栄に好意を持っているのではないかと言い出したのは他ならぬトーマスだったのだから。

「ええ、アリスが久しぶりにタカとサカエと食事でもどうかって」

「あー……」

 さらに言うならば、日本人らしい配慮と謙虚さのあるトーマスと比べて、アリスには遠慮がない。気心しれたメンツだと思って羽多野が調子に乗ったら、隠せるものも隠しきれない。

 四人で食事という提案に嫌な予感しかしない栄は、苦し紛れに首を振って笑った。

「彼と都合を聞いておくよ。でも、前にちょっと話した感じだと、最近入ったインターンの指導で仕事が忙しいらしいんだ。しばらくは難しいんじゃないかな」