真意まではわからないが、少なくともトーマスは素直に栄の説明を受け入れたようだった。今日のランチは大使館そばのイタリア料理店でパスタ。ボンゴレを口に運びながらうなずいて見せる。
「へえ、インターンですか。羽多野さんのお勤めは確か、シンクタンクでしたよね」
一方の栄の目の前にはマルゲリータの皿がある。悔しいが、昨晩遅くに羽多野がうまそうに冷凍ピザを食べている場面が頭に残っていたようで、今日は朝から絶対にランチはピザにするのだと決めていた。
「そうだよ。役人風情より自由が効いて待遇がいいってただでさえ偉そうなのに、若い女の子の指導だからって鼻の下伸ばしちゃって」
「……」
きょとんとこちらを見つめるトーマスに、自分らしくもない言葉を発してしまったことに気づいて、ごまかすように栄はひとつ咳払いをしてピザを手にする。いけない、いくらトーマス相手でも節度は必要だ。
不自然に視線をそらす栄に、トーマスは半ば独り言のようにつぶやいた。
「私には、羽多野さんは女の子に鼻の下伸ばすようなタイプには見えませんけど。確かにまあ、女性にもてそうではありますが」
女性にもてそう。その言葉は栄の胸をちくりと刺す。やっぱり客観的に見てもあの男は女にもてるのか? あんな、仕事で気に食わない相手を容赦なしに潰そうとして、恋人に対してだって変態的なセックスを強要する男が!? だが、そんなこと口に出せるはずもない。
「まあ……彼の話はいいよ。とにかくアリスには悪いけど、またそのうち時期をみてこちらから声をかけるって言っておいてくれ」
「わかりました」
よくよく考えればなぜ当たり前のように羽多野とセットで扱われているのだろうか。疑問に思わないでもないが、ややこしいので置いておくことにした。
羽多野の話題をほぼ打ち切ったところではあるが、トーマスの顔をみているうちに栄の頭にはふとした疑問が湧き上がった。
「そういえばさ、やっぱりロンドンで日本人が就職するのって難しいのかな」
労働担当の書記官に聞けばいい話ではあるが、羽多野絡みだけに、日本人から変に勘ぐられたくないという計算が働く。トーマスは労働関係のサポートも行なっているので知見はあるはずだ。
「日本人、ですか?」
話題の転換にしても唐突だったろうか。栄は口籠もりながら続けた。
「いや……つまりその、インターンの女性がどうしても日本に帰りたくなくて、必死で仕事を探してるらしいっていうんだ」
そうですね、とトーマスは首を傾げる。
「年々外国人……特に欧州外出身者へのへの就労ビザの発給は厳しくなってます。語学要件はもちろん、よっぽど優れた経験があるとか特殊技能があるとかじゃないと、なかなか。何しろイギリス人の若者だって職にあぶれまくってる状況ですからね」
「そりゃそうだよな」
欧州全般に言えることだが、日本と比べると若年者失業率は全般的に高い。英国国民すら思うように就職できない中で外国人がやすやすとポジションを手にできるはずはないのだ。
アサリの殻を皿の端に寄せながら、トーマスが聞く。
「谷口さん、ミートアップって知ってます?」
「国際交流パーティのこと?」
「そう、ロンドンでもあちこちでやってますよ」
栄が「ミートアップ」と呼ばれる交流パーティについて知ったのは、英国赴任が決まって必死で英語の勉強をしているときのことだった。ネイティブ英語話者の友人ができるという謳い文句こそ魅力的に思えたが、募集ページを見るといわゆる「ウェーイ系」「パリピ」な感じの若者たちがグラスを手にハイテンションで笑っている。これはとても自分のような人間が参加する場ではないと参加するまでもなく見切った。
トーマスは続ける。
「主な参加者はワーキングホリデーや語学学校留学の日本人女性と、英国人男性。もちろん全員がそうとは言いませんが、不純な目的の人いるようで、しばしばトラブルも聞きます」
要するに、ワーホリや留学の期間が終わった後も合法的にロンドンに残る方法として「出会い」を求める女性がいて、一方にはアジア人女性を好む英国人男性がいる、というわけだ。
「まあでも、合コンみたいなものだろう?」
「中にはナンパ目的の悪い輩もいますしよ。あと、在留資格目的で安易に結婚して、その後トラブルになるとか」
「ふうん」
栄には、そこまでして外国に住みたい気持ちが理解できない。もちろんロンドンは美しい街だし、日本にはない解放感もある。しかし、母国語ではない言語で異文化の中生活するのは楽ではない。サービスの提供側にとっては過酷とはいえ、いつでもコンビニで買い物ができて、通販は数日以内に届いて時間指定もできる――そんな日本の便利さを懐かしく思うことも多い。
まあいい。羽多野の会社にインターンでやってきた社長令嬢とやらの第一目的は「英国に残ること」。だったら羽多野なんかに目をくれず、合法的に滞在する資格を与えてくれそうな現地の男を探すべきだ。
彼女が日本に帰る気がない以上、万が一羽多野が「逆玉成り上がり」のストーリーに惹かれたとしても勝ち目はないのだ。栄にとってはその方が都合が良い。
「谷口さん?」
「え?」
名前を呼ばれて顔を上げる。
「どうしたんですか、ぼーっとして。食べないと、一時半からミーティングでしたよね」
「あ、ああ」
ぼんやりと羽多野と、顔も知らない社長令嬢のことを考えてすっかり食事の手が止まっていた。自分がひどく先走った妄想をしていたことに気づき頬が熱くなるのを感じながら栄は冷めたピザをもう一切れ手に取った。
たかが職場に女が現れたくらいで馬鹿みたいだと自覚はしているのだが、どうにも落ち着かない。ドラマティックともいえる出来事を経て、互いをパートナーとして認めるようになった自分と羽多野。だが正式な同居を開始して半年が過ぎ、当初の舞い上がるような気持ちが薄れつつあるのも事実だ。
自覚していないが、羽多野への態度がぞんざいになってはいないだろうか。いや、ぞんざいなのは最初からなのだが――ここのところは仕事が忙しいからと放置しすぎたかもしれない。そういえば土曜の件も結局謝ってはいない。
こういう気の緩みが少しずつ積み重なれば、どれほど思い合っている恋人の気持ちも離れていくことを知っている。しかも相手は両刀の男。彼が跪いたからといって、自分はあまりに天狗になってはいなかったか。本来の羽多野のストライクゾーンど真ん中であろう女の登場に際して、突如栄の中には危機感が芽生えた。
そして悶々と考えた結果、栄はらしくもない結論を出した。
さすがにここ数日の振る舞いを謝ることはあまりに悔しい。だが、社長令嬢とやらが羽多野の身辺をうろついている間は、少しくらい警戒して、彼の気持ちを引き止める努力をした方が良いのではないだろうか。媚びるとまではいわずとも、ちょっとだけ甘やかしてやるとか。
と、考えて手を止める。
――羽多野の機嫌を取る方法とは、なんだろうか。
尚人と気まずくなったときは、ちょっとしたプレゼントで機嫌をとるのが定番だった。いつだって嬉しそうに微笑むからてっきりうまくいっているのだと思っていたが、後になって尚人が望んでいたのはそんなものではなかったと知った。彼が望んでいたのは、二人で過ごす昔のような穏やかな時間。要するに恋人を物で釣るのはナンセンスなのだ。
かといって羽多野と尚人はあまりに違っている。日本にいる頃とは違ってそれなりに羽多野と過ごす時間は確保できているつもりだし、穏やかな関係を望もうにも向こうだって十分に好戦的な性格だ。
これまでの関わりの中で羽多野が嬉しそうな顔を見せたのはどんなときだったろうか。すぐに結果は思い浮かぶ。
嫌がる栄を組み敷いて、恥ずかしがるような行為をさせたとき。身体中を舐め回すときは嬉々としているし、鏡の前で栄を膝抱きにして突き上げてくるときの彼は最高に興奮していた。いや、あの奇妙な下着を履かせてきたときも同じくらい満足げだっただろうか。
つまり、羽多野が一番喜ぶのは――そこで栄はあえて思考を遮断した。
無理だ。そんな、体で恋人を引き止めるようなみっともない真似できるはずない。
そう思う反面で栄は知っている。尚人との破局の理由のひとつにセックスレスがあったように、恋人同士の円満な関係に性生活の充実が必要不可欠であることを。