11.栄

 まだ羽多野が失礼で迷惑なだけの居候だった頃、「栄と尚人のセックスはお上品で退屈なものだったに違いない」といった意味合いの言葉で揶揄されたことがある。悔しいが否定はできなかった。

 そういえばあの男を蹴り出さずに家に置いてやったのも、尚人しか知らない栄が次の恋愛で失敗することがないよう、性的なあれこれについての免疫をつけるというのが理由のひとつではなかったか。

 羽多野と肌を重ねるようになって、栄はかつての自分には想像できないような行為をいくつも経験した――というか、させられた。だが、よくよく考えればそれは、羽多野が強引に進める変態的なセックスに流されているだけで、栄のテクニックが増したわけではない。

「いや、テクニックっていっても、だって俺は本来……」

 思わずひとりごちてしまうのは、羽多野との関係では何もかもが計算外でイレギュラーだからだ。

 栄は今も、自分が本来は抱かれる側に回るような人間ではないと強く信じている。だから、いくら夜を重ねて羽多野との行為に慣らされたって、体を押し開かれる違和感が薄れ、奥まで貫かれて揺さぶられることにどうしようもない快感を得るようになったとしても、自分からガツガツと羽多野を求めようという気にはなれない。いや、正直に言えば体裁が悪い。さらに正直に言うならば――恥ずかしい。

 羽多野との行為が正直いってすごく「いい」からこそ、栄はそれを認めることに羞恥と抵抗を感じる。さらにいえば、言葉や態度に出すことで自分がこれ以上セックスに溺れることに恐怖すら抱いているのだった。

 だが冷静になって羽多野という男について考えてみると、経験豊富な彼は受け身一辺倒の栄を相手にして心底満足しているのだろうかという疑問が生じる。今は彼言うところの「白馬の王子様」に目がくらんでいる状態だから点が甘いのかもしれないが、同棲をはじめて早くも半年が過ぎ、恋愛初期の魔法は徐々に解けてくる頃合いだ。

 彼が過去の相手と栄を比べるようなことがあれば、ベッドの中での採点としては低い部類に入るのではないだろうか。そう多く観たわけではないが、洋モノの動画なんかだと男も女もまるでスポーツのように互いに積極的にくんずほぐれつしているではないか。アメリカ生活の長い羽多野にとっては、もしやああいうのがスタンダードだったりして。

 ふっと栄の頭の中にお上品な高木リラの顔が浮かび、羽多野とリラはどんなセックスをしていたのだろうと考える。あの女が洋モノAVのような激しいセックスをするようには思えないが、ああ見えて中身はアメリカ人だからもしかしたら。いや、そもそも羽多野はリラを愛していなかったと言っていたが、その理由の一部には夜の生活への不満も含まれていたのではないか。

 不安だけでなく羽多野と元妻の性生活というこの上なく嫌なものを想像してしまった不快感で栄はうなだれた。

「おい」

「うわっ!」

 急にドアが開いて、羽多野が顔を出す。心の中身が漏れるわけはないのに、栄は飛び上がらんばかりに驚いて反射的に鋭い声をあげた。

「ちょっと! ノックもしないでドア開けるなっていつも言ってるでしょう。いくら一緒に住んでいるからって……」

「はいはい、互いのプライバシーとマナーは大事、だろ。よーく承知しております」

 聞き飽きた、という感情を羽多野はこれでもかと表情と声色ににじませ、それから急ににやりと口元を緩める。

「なんだ、まさかオナニーでもしてたか? だったら邪魔したことを謝るけど」

「してませんっ! 見ればわかるでしょう」

 投げつけた枕はドアに直撃して、ぽすっと間抜けな音を立てて床に落ちた。

 きっちり服を着込んだままで栄はベッドに座っている。どこからどう見てもいかがわしい行為に耽っていると勘違いされる余地はない。第一、夕食を終えてまだ風呂にも入る前から自慰だなんて。本気で勘違いされているにしてもむかつくし、からかわれているのだとしても苛立たしい。

「で、何か用事ならさっさと言ってください。まさか用もないのに人の部屋に入ってきたわけじゃないですよね」

 インターン女子がいる間だけでも少しは羽多野に優しく――そう決意したのはたった数時間前のことなのに、いざ相対すれば結局ひどい態度ばかり取ってしまう。こんなはずじゃないのにと内心では思いながら、栄は刺々しい態度を抑えることができなかった。

 羽多野はひとつ息を吐いて、指先で部屋の外を指し示す。

「風呂空いたから、知らせに来たんだよ。もうすぐ湯張りも終わるから。俺のあとすぐ入るって言ってただろ」

「あ……」

 そういえばそうだった。夕食の後、栄は羽多野に風呂の順番を譲った。その上で、空いたらすぐに入るから風呂を終えたら知らせてくれと告げたのだった。

 用もないのに部屋に来るな、という叱責が完全に的外れの濡れ衣であったことを自覚して栄はいたたまれなくなる。

「だったら、最初からそう言ってください」

 気まずさを打ち消すように冷たくそう告げると羽多野から視線を外してクローゼットに向かう。くだらない妄想に没頭してついさっき言ったことすら忘れてしまうだなんて自分らしくもない。

 着替えを出して部屋を出ようとすると、羽多野は不思議そうな顔をしてまだドアの横に立っていた。

「どいてください」

 邪魔です、を付けなかったのは栄なりの遠慮だった。風呂の準備が出来たと知らせにきただけなら用事はもうすんだはずだ。だが羽多野は栄の進路に立ちはだかったまま動かない。

「谷口くん、何かあった?」

 じっと見つめられては、むずがゆく居たたまれない気持ちになる。何かあったかと言われれば、あった。羽多野がインターンの若い女と二人で飲みに行った。その女は羽多野のかつての結婚相手と似た属性を持っていて、だから栄の心は見出された。

 ――そんなこと口にするくらいなら、死んだ方がましだ。

「なんでもありませんよ。風呂行くからほら、どいてくださいってば」

 軽く胸を押すと怪訝な表情のままで羽多野は道を譲ってくれた。

 

「あー、もうなんか……」

 何もかも、うまくいかない。

 バスタブの中で膝を立てて座り、栄は口元まで湯に浸かって目の前に浮かぶ二体のラバーダックをにらみつける。衛兵姿のダッキーと、警官姿のクッキー。寄り添ってふわふわと水面に浮かぶゴム人形が仲睦まじそうに見えて妬ましいだなんて、末期だ。

 たまには優しくしてやって羽多野の気を惹きたいのに、そんなことをする自分が恥ずかしくて意識すればするほど冷淡な態度を取ってしまう。まるで中学生以下だ。

 あの優しく我慢強い尚人でさえサジを投げた栄の横暴ぶりに、羽多野は一体いつまで付き合い続けるのか。それこそ万が一「子どもなんていらない」とか「養子でも構わない」という女と出会ったら――。

「いや、駄目だ絶対」

 そうつぶやいたところで、ふっと頭の血が下がる感覚。どうやら風呂に浸かりすぎて湯当たりしかかっているらしい。こんなことで悩んで溺れ死ぬようでは洒落にならないと、栄はアヒル二体を救い上げると意地悪のように別々の棚に置いてから風呂を上ることにした。

 そして、思う。

 案ずるより産むが易し。今日は自分から羽多野の部屋を訪ねよう。