12.栄

 どうせまた後でシャワーを浴び直す羽目になるのだからドライヤーなどほどほどでいい。ほんのり髪を濡らしたままで栄は羽多野の寝室の前に立った。

 ついさっき冷淡な態度を取ってしまっただけに気まずさはあり、一度小さく深呼吸してからドアをノックした。

「どうぞ」と、短い返事を確認して扉を開けた自分の顔に浮んでいるのはきっと、気まずさを押し隠した無表情。ベッドに寝転がって本を読んでいる羽多野を正面から見ることができず視線を逸らす。

「どうかした?」

 体を起こしながら訊ねる羽多野に、栄はわざとらしく首をひねりながら言った。

「最近忙しかったから、首とか肩がばきばきにこっちゃって」

 いい大人同士なのだから正面きって「やりたい」と言えば済む話なのだろうが、恥ずかしさが先に立ってどうしても露骨な誘いの言葉を口に出すことができない。

 こういうとき肩揉みが羽多野の特技であることに感謝する。経験上、夜にベッドの上で触れ合えば八十パーセントの確率でセックスに流れる。ちなみに残りの二十パーセントは栄が頑なに拒む、もしくはマッサージの途中ですっかりリラックスして眠り込んでしまうケースだ。

 ふう、と微かなため息が聞こえた気がして背筋がヒヤリとした。もしかして羽多野は風呂に行く前のやりとりを根に持っているのだろうか。その気ではない相手に頼み込んでまで抱いてもらうような趣味はない。

「あ、いや。本読みたいなら邪魔するつもりはないから」

 思わず後ずさってそのまま出て行こうとしたところで、羽多野は口元に薄笑みを浮かべてマットレスをぽんぽんと叩いてみせた。

「来いよ。たいした本じゃない」

 少なくとも谷口くんの健康と比べれば――という軽口を耳にくすぐったく感じながら、栄は促されるままベッドに上る。

 羽多野の寝台に枕はふたつ。ひとつはもちろん栄がここで眠るときのために準備してあるものだ。自分用の枕に顔を押し当て栄はうつぶせた。

 肩こりがひどいというのは事実だった。そして羽多野はいつものように栄の首から肩、背中を丁寧に揉みほぐしていく。強すぎず弱すぎずの力加減も絶妙で、しだいに気持ち良くなってここに来た本来の目的を忘れそうになる。

「……あっ」

 すっと意識が遠のきそうになった瞬間に弱い脇腹を揉まれて、刺激で一気に覚醒する。と同時に背中に熱さと重さを感じ、耳元に唇が押し付けられる。

「いいんだっけ? このまま寝落ちするんで」

 正面から確認されれば、栄は素直に答えることができない。

「俺は……そういうつもりじゃ」

 心にもない言葉とともに申し訳程度に身をよじったところで、いたずらな手はシャツの中に侵入してきた。つい今までのマッサージとは全く異なる意図を持って肌を探る。

「でも、俺はご褒美が欲しくなった。明日も仕事だし、控えめにしとくからさ」

 八つも年上にもかかわらず羽多野は精力旺盛で、一度抱き合うとしつこい。男同士のセックスの宿命として受け入れる側に負担がかかることもあり、栄は平日に羽多野がベッドに誘ってきても断ることが多い。わざわざ寝室にくるのはOKのサインだと理解しつつも、羽多野はまだ栄の真意を図かねているのだろう。栄はほんのわずかに首を縦に振って、続きを許す意思を示した。

 

 横向きに寝た体勢で後ろから栄を抱きしめながら、羽多野は少しずつ愛撫を深めていく。耳を柔らかく噛みうなじに口付けながら、大きな手で余すことなく栄の肌を確かめようとする。

 腹を撫でられ、へそをくすぐられ、乳首を摘まれれると強い刺激に思わずのけぞる。密着しているせいで羽多野の興奮が布越しに尻に伝わってきて、その硬さに煽られる。

 頬に当てた手にぐいと顔を横向けられ、まずは唇と唇が触れる柔らかい感触を楽しむ。それから口づけを深くしようとして羽多野は栄を仰向けに押し倒した。

「ん……う」

 唇の合わせ目を緩めると、上唇、下唇の順に軽く噛まれる。それからぬるりと熱い舌が口内に侵入してきて完全に呼吸を奪われる。

 羽多野はセックスだけでなくキスもねちっこい。ただ舌を絡め口の中をまさぐるだけでなく、音を立てて栄の唾液を吸い、代わりにとばかりに彼の唾液を送り込んでくる。潔癖な栄が嫌がるのをわかっているからこそ羽多野は唾液の交換に熱心で、最初は抵抗があったが今ではずいぶん違和感も和らいだ。

「……っう、はあ」

 ときおり許される一瞬の隙をついて、栄は甘い息を吐きつつわずかな酸素を取り入れようとする。羽多野にキスをされればすぐに頭の芯がとろけて何も考えられなくなるのは、もしかしたら酸欠のせいもあるのかもしれない。

 控えめに、と言っておきながら一切容赦のないキス。同時に胸の先を弄られると快感はそのまま下半身に抜けて、栄のペニスは下着とスウェットを押し上げた。

「勃ったな」

 わざわざ報告しなくたってわかっていることを口にして、羽多野は栄の着ているものを脱がせにかかる。腰を浮かすとまずはスウェットを引き下ろされ、下着に手をかけられたところではっとする。

 キスと愛撫ですっかり羽多野のペースに乗せられそうになっていた。これではいつもと同様に、快感に流されてわけがわからなくなってしまう。栄が今日、わざわざ気まずい思いをしてまで羽多野の寝室にやってきた目的はいつもどおりの受け身のセックスではない。

「あ、待って」

 羽多野の手首を掴み、動きを制止しようと試みる。

「いまさら待ってはなしだ。やっぱり今日はやめとくなんて言ったって聞かないからな」

 てっきりいつもの気まぐれだと思ったのか、羽多野は不満げに眉根を寄せながら栄の手を振りほどく。だがそれは誤解だ。

「いや、そうじゃなくて!」

 そう言って栄は羽多野の体の下から這い出そうとし、一方の羽多野はそれを妨げようとする。短い攻防の後に羽多野は焦れたようにぐいと栄の肩を引いた。

「……だったらなんだよ」

 バランスを崩した栄は再び仰向けに倒れ、完全に羽多野の腕の中に捕らえられる。

 普段は腹立たしいほど冷静ぶった男の瞳が欲情に濡れている。その目に射抜かれるだけで下腹部にきゅんと痛みに似た感覚。下着しか身につけていないから勃起が震えたことに気づかれたかもしれない。栄は少しでも正気を保つために顔を背けて羽多野の視線から逃げようとする。

「だから、あの……こういうとき、いつも羽多野さんが一方的に」

 言うべきことは決めてきたはずなのに、いざとなるとしどろもどろになってしまう。動揺していることが伝わるかもしれないと思うと、どんどん羞恥心が大きくなる。

「俺のセックスが一方的で強引だって文句言いたいのか?」

「違います!」

 そして、栄としては死ぬほどの勇気を振り絞って言った。

「いつも一方的にいろいろ……だから……たまには、何かあなたもして欲しいことないかと思って……」

 時間が止まった。というのはもちろん比喩だが、羽多野は少なくとも数秒の間完全に硬直した。反応がないのが不気味で、栄は思わず呼びかける。

「あの?」

 すると羽多野ははっとしたように栄の顔を見た。聞き間違いを疑っているか、さもなければ、どういう風の吹き回しかといぶかしんでいるのだろう。

「谷口くん、今のは」

 あからさまに驚いた顔をする羽多野を見るとにわかに反骨心が湧き上がる。ちょっと希望を聞いたくらいで、おおげさな。

「羽多野さんには何か俺にして欲しいことがあるんじゃないですか、って聞いたんですよ」

 栄はもう一度、ゆっくりはっきり繰り返した。