13.栄

 羽多野は愛撫の手を止めてしばし考え込んでいるようだった。

 栄にとってこの間は嬉しくない。あんな恥ずかしい言葉、勢いで口にしているに決まっているのだから勢いで応じて欲しい。一秒経つごとに羞恥心が増していたたまれない気持ちになる。

 ――さすがに我慢も限界だ。

「や、やっぱりもういい。そんなことよりさっさと」

 続きを、と言いかけたところで羽多野がぐいと栄を抱き寄せる。シャツを着たままの肩口に顔を押しつけられると、ふんわりとボディクリームのにおい。服の趣味もフレグランスの趣味も栄とは似ても似つかない羽多野だがセンスは悪くない。自分では決して選ばないタイプの香りはしらふの栄をくらくらと酔わせた。

「いや、決めた」

 さも大きな決断を下したかのように羽多野が言った。

「だから、そんなにもったいぶられると気持ち悪い……」

 すっかり正気に戻った栄は完全に腰が引けてしまっているのだが、羽多野の意に介す様子はない。ますます強く栄を抱きしめて楽しそうに喉で笑う。

「君がそんなこと言ってくれるなんて、百年に一度の気まぐれかもしれないからな。遠慮なしにおねだりさせてもらうとするか」

「百年に一度ってあなた、そんな言い方あんまりじゃないですか?」

 この男の目に栄という人間はそんなにも自分本位に映っているのか。冗談めかした口ぶりではあるが、普段のセックスに物足りなさを感じているという意味にも受け取ることができる言葉はぐさりと栄の心を刺した。羽多野が真面目くさっているようで、どこか笑いを殺しているような奇妙な表情をしているのもまた気に食わない。

 いいじゃないか、何だってやってやろう。こっちだってその気になれば羽多野をメロメロにすることだってできるのだと目にもの見せてやる。栄は腕を突っ張って羽多野から体を引き離すと、正座して向き直る。

「で、何をすればいいんですか!?」

「フェラチオ」

 あまりにも直球の質問に、羽多野もまた直球で即答した。

「……」

 そのまま硬直すること三秒、いや五秒。もしかしたら十秒。目の前で羽多野がひらひらと大きな手のひらを振ったところでようやくはっとする。

「おい、谷口くん?」

「大丈夫です。聞いてます。聞こえてます」

 むしろしっかり聞こえていたからこそ黙り込んでしまうのだ。

 フェラチオ。つまり口淫。要するに男のアレを口に含んで唇やら舌やらで愛撫する行為。場合によっては口の中で発射されたものを飲み込むようなこともある――というか少なくとも羽多野の場合は他人の体液を飲むのが大好きな変態なので栄の性器をくわえるときはほぼ必ず精液を飲み干すところまでがセットだ。

「……うっ」

 やってもらっているときは気持ちよさに夢中になって意識していないが、改めてその行為を我が身に置き換えると気持ち悪さに吐き気が込み上げた。

 インターン女の登場に動揺して思わず口走ってしまっただけで、そういえば羽多野が何を要求してくるかという重要な点に考えが及ばなかった。人が嫌がる姿を見るのが大好きな男だから「栄が最も苦手そうな」フェラチオを希望してくることも十分想像できたはずなのに。

 負けず嫌いの栄はここで引き下がりたくはない。だが、いくら相手が羽多野だろうとアレを口に含むというのはあまりにハードルが高い。なんせ、あんなに好きで可愛くてなんだってしてやりたいと思っていた尚人にも一度としてできなかった行為だ。栄にとってはゴムもつけないものを素手で触ってやっているだけでも出血大サービスなのに、口を使うだなんて。

 イエスか、ノーか。気持ちはぐらぐらと揺れる。すぐに答えを出すことができない栄は代わりに言った。

「ひとつだけ聞いておきたいんですが」

「何? 俺の弱い場所でも知りたい? 心配しないでもやりながら手取り足取り教えてやるから……」

「そういうことじゃなくて!」

 こっちは大真面目なのだから茶化さないで欲しい。殺意のこもったまなざしで睨みつけると羽多野は軽口を叩くのを止めた。

「そういうの、今までいつも……つまり付き合った相手に普通にしてもらってたんですか」

「え? 今までの?」

 さすがに過去の相手の話を持ち出されると羽多野も少しは体裁の悪そうな表情を見せる。この図太い男でも、現役の交際相手に他とのセックスの具体的な話をすることには躊躇があるようだ。

「……まあな」

 ためらって、しかし羽多野はうなずいた。

 覚悟していた答えではあるが栄は追い詰められる。これまでの自分は羽多野にとってはごく当たり前の――もしかしたらセックスにおいて必須かもしれない行為を拒んできた。知っている。こういった小さな不満の積み重ねがやがて「性生活の不一致」に結実していくのだ。

 こうなったら、やるしかない。

「やります。やればいいんでしょう」

 色気もくそもない表情と口調で栄は言った。剣道の試合で負けた後に鬼監督から「素足でグラウンドを百周走るか、さもなければ剣道なんかやめちまえ」と迫られたときよりも切羽詰まった気持ちだった。自分から言いだしたことだというのに、まるで強要されているかのようなやけっぱちの返事になっていることすら自覚していなかった。

 栄の喧嘩腰の態度に不思議そうに眉をひそめはしたものの、念願の行為をしてもらえるとあって羽多野は特に不満を表明することもない。代わりにベッドの上を移動して枕に背中を預けるような体制で脚を開いた。

 自らスウェットと下着をずらそうとする男を、栄は鋭い声で制止する。

「余計なことしなくていいです。全部俺がやりますから」

 とうとう堪えきれないといった様子で羽多野が苦笑した。人が決死の覚悟でいるのに笑うだなんて、どこまで失礼な奴なんだ。

「何がおかしいんですか?」

「いや、お上品だから普段は忘れがちだけど、やっぱり谷口くんって体育会系なんだなあと思って」

「それとこれとは関係ないでしょう。集中できないから無駄口叩かないでください」

 要するに色気のない態度だと指摘されているのだが、悔しいので気づかなかった振りをする。いや、それどころかより体育会系っぽい台詞すら口にしてしまう。

 栄はかすかに指先を震わせながら羽多野のスウェットの前に手を掛けた。先ほどの前戯では確かに硬くなっていたはずだが、「何でもやってやる」以降の色気に欠けるやりとりのせいでそこはすっかり冷静さを取り戻しているようだった。

 そっとウエストゴムを押し下げると、今日の下着は黒。上から手で触れながら心を落ち着けるか迷ったが、時間を置けば置くほど怖気づきそうなので、えいやとばかりに下着の前を引っ張った。

 勃起していない状態の羽多野のものをまじまじと見つめるのは初めてかもしれない。普段羽多野が服を脱ぐのは大抵しつこい愛撫で栄の頭がぼんやりしてしまった後だから、栄は冷静さを欠いているし羽多野のそこは臨戦態勢。今の状況とは何もかもが違っている。改めて見ると、通常の状態でもそれなりに立派な代物だ。

 ずっしりと重そうではあるものの、くったり力なく垂れているそれが自分の口の中で硬くなるところを想像すると背筋がぞわりと粟立つ。きっとずっと大きくなって、深くくわえれば喉奥まで届く。勃起状態の大きさを想像しようとすると、一番よく「羽多野のそれ」を知っている場所――腹の奥がずくりと疼いた。

 羽多野の脚の間に身を伏せるようにして顔を近づけると、期待のせいなのか緊張のせいなのか手の中のそれがぴくりと震える。肌よりも濃い色、艶があり丸みを帯びた先端にうっすらと走る亀裂。何もかも、これまでになくよく見える。風呂から上がってすぐだからだろう、何のにおいもなく、そこは清潔に見える。でも――問題は「事実として清潔であるか」ではなく「栄の気持ちとして、それを口にすることができるか」なのだ。

 確かにそれは、日常的にセックスしている相手のもの。嫌悪の感情はない。むしろ眺めていると性的には興奮するくらいだ。だが口に含めるかどうかと言われればやはり話は別なのだ。

 たっぷり数分の間、栄は羽多野のペニスと見つめ合った。いくら恥知らずの男でも自身の分身をこんなに長い間じっくり見つめられるのは嫌だろう。羽多野はよく耐えたと思う。

 そして、最終的に栄はがっくりとうなだれた。

「やっぱり俺には無理です」