14.栄

「はあ?」

 頭上から降ってくるのは気の抜けたため息。普段ならば食ってかかるところだが、今はそんな気にはなれない。

 栄だって、できれば潔くそれを口に含みたい。敵前逃亡など耐えがたいほどに惨めだ。だが、どうしてもこれ以上顔を近づけることができないのだ。

「ちなみに、俺は風呂に入ったばかりで、もちろんそこも入念に洗うようにしてる」

 羽多野はいかにも「念のため」といった様子で補足するが、栄は力なくクビを左右に振る。

「わかってます。でもそういう問題じゃなくて」

「まあね……わかるけど。理屈じゃない衛生観念っていうか。皿を洗うキッチンスポンジでシンクも磨くかとか、足拭きマットとほかの洗濯物を一緒に洗えるかとか……一緒に暮らしてるといろいろあるよな。ちなみに君はどれも嫌なタイプだ」

 理解を示そうという姿勢には感謝するが、やたら生活感あふれるたとえが気に食わない。シンクの掃除だとか洗濯だとか、まるで結婚生活を思い起こしているようではないか。

 自分の葛藤はそんな安いものではないと主張したい栄は必死に言い訳を紡ぐ。

「潔癖とかそういうことだけじゃなくて、大体口にものを入れられるのが苦手なんですよ。内科で喉見られるときとか、歯医者とか、すぐおえってなるタイプだし」

 あんな小さな医療器具ですら嘔吐反射が起きるのだから、ずっと長くて大きなものを口に入れたら本当に吐いてしまうかもしれない。そう、気持ちの問題だけではなくこれは身体構造という不可抗力の原因によるものなのだ。

 だが羽多野は懐疑的だ。

「でも、俺の指は上手にくわえられるようになっただろ。慣れだよ慣れ」

 そう言って栄の頭に手を伸ばそうとするものだから、慌てて後ずさる。

「やめてください!」

 いったん駄目だと思ったら、どうしても駄目だ。決死の覚悟もどこへやら、すでに栄の心は「絶対に嫌」モードに切り替わっていた。

「……そうか。まあ、こればかりは無理矢理にやって逆襲されたときのこと考えると怖いからな」

 だから強要するつもりはないと、あからさまにがっかりした様子で言われると辛い。かつては無警戒の栄を押し倒した男だが、さすがに急所を他人の「凶器つきの場所」に突っ込むとなれば慎重になるのは理解できる。勃起したペニスに歯を立てられるところを想像するとひゅっと背中が冷たくなった。

 それはそれとして、さすがにこの状況が自分と羽多野の関係において非常に「まずい」のは栄にもわかる。

「あの、口は無理だけどほかに何かあれば……」

 さすがに申し訳ない気持ちで切り出した。だが「何でも」と言っておきながらファーストチョイスを却下した時点で栄も、もちろん羽多野もすっかり気持ちは盛り下がっている。

「いいよ、君はそういうこと気にしなくたって。なんたって俺の〈ご主人さま〉なんだからな」

 もっとねちねちと責められるのかと思いきや、羽多野はいたわるように栄の頭を撫でた。この底意地の悪い男が慰めてくるというのは、むしろ失望の大きさを表しているように思える。居たたまれない栄がうなだれると、羽多野は何度か音を立てて髪やこめかみにキスをしてきた。

 結局自分はこの一年間で、恋愛についてもセックスについても何ら進歩していないのではないか。ぼんやりとそんなことを考えていると再び押し倒される。羽多野は結局、栄の慣れない奉仕はあきらめて普通のセックスを続けることにしたらしい。

 しつこいほどに丁寧な愛撫はいつもと同じはずなのに、栄は自身の失態が気になってどうにも集中できない。弱いはずの首筋も脇も、乳首もへそも、いつもほどは感じなかった。こちらの気が散漫であることが伝わってしまうのか、やがて羽多野が動きを止める。

「やめとく?」

「え?」

 この男が自らセックスの中止を申し出るなんて。栄が羽多野の要望を聞くのが百年に一度の出来事だとすれば、これは二百年、いや三百年に一度の珍事だ――などという軽口を叩く気になれないのは原因が自分にあるからだ。

 栄としても完全にテンションは下がっていて、できれば頭を冷やして仕切り直したい。と同時に、これ以上退却すればどうしようもない敗北に向かうのではないかという不安もある。そう、たとえば呆れた羽多野が二度と栄を求めてこないとか。

「いや、続けましょう」

 そう言ってぎゅっと目を閉じて、行為に集中しようとする。

 栄に気を遣っているのか、羽多野は今日はフェラチオをしようとはしなかった。なかなか硬くならない性器を入念に愛撫して、ローションを使って後孔をほぐす。

 気持ちいいはずなのに、栄の頭は冷え切っていた。羽多野はちゃんと楽しんでいるのだろうか。気持ちよいと思っているだろうか。そんな考えばかり浮かぶのを追い払い、なんとか快楽を追いかけようとする。

 こういうとき男の肉体は不便だ。もしかしたら女を知らない栄の勝手な思い込みかもしれないが、女性というのは「感じていないのにイったふりができる」生き物であると聞く。一方こっちはいくら感じている振りをしたところで勃起の硬度や射精の有無でばれてしまう。それに――相手がどのくらい興奮しているかもわかってしまうのだ。

 明らかに羽多野も集中していない。栄の反応の鈍さを敏感に察して、戸惑っているように見える。それでも一応は勃起して、中には入ってきた。しかししばらく抽送を続けた後に動きはゆっくりになり、ついには射精しないままに性器を引き抜いた。

「……羽多野さん?」

 嫌な予感に栄はゆっくりとまぶたを上げた。羽多野は体裁の悪そうな薄笑いを浮かべている。

「ごめん、俺もちょっと疲れてるのかもな。せっかくのお誘いは嬉しいけど、体調万全のときに仕切り直した方がよさそうだ」

 疲れているなんて、大嘘。さっきまで、それこそ栄がフェラチオを断るまではやる気に満ちあふれていたではないか。

 決定的な原因がどちらにあるかはわからない。期待したサービスを受けられなかった羽多野が落胆してその気を失ったせいなのか、それとも栄の散漫さが彼の集中力を奪ったのか。だがきっと、このまま続けていたところで栄も達することはできなかっただろう。わかってはいるけど、やるせない。

「俺のせいですね」

 確かに性技に長けているとはいえない栄だが、こうも無残にセックスに失敗するのは初めてだった。いや、失敗したくないからこそ尚人との初めての夜を迎える前は入念に予習したし、激務で体力に不安を感じるようになってからはセックスそのものから距離を置いた。結果的にそれが別れの直接的原因となったのは皮肉だが――ともかく、そうまでして性行為の失敗を回避しようと努力してきたのだ。

 だが、恐れていた失敗は突然訪れた。しかも原因を作ったのは明らかに自分。あまりのショックにこのまま羽多野の顔も見ず自室に逃げ帰りたい気分だ。

「谷口くんのせいじゃない。ほら、俺アラフォーのおっさんだから、こういう日もあるさ。やっぱり慣れないインターン指導で思った以上に疲弊してるんだな」

 白々しいフォローがむなしい。それどころか栄を見境のない行動に駆り立てた原因である女の話題まで絡めてくるとは。すでに傷ついている栄の心に、羽多野の悪気のない言葉はますます深く突き刺さった。

「インターン、ですか」

 力なくつぶやくと、羽多野はさっき脱がせた服を栄に手渡しながらうなずく。

「議員事務所でもインターンは受け入れてたけど、あっちは社会見学みたいなもんだったからな。国会見学させて食堂の飯食わせて、適当にレクにでも同席させて雰囲気味わえばオッケーだろ。でもこっちは本気で就職のための実績作りに来てるんだから荷が重いよ」

「ふうん」

 栄もインターンを受け入れたことはある。守秘義務の宣誓書にサインはさせるものの、政策に関わる高度な情報や国民の個人情報に関するデリケートな情報にアクセスさせることはできない。結果、やらせることは羽多野と同じで、国会見学や議員レク・企業インタビューへの随行などの「イベント」中心で、あとはおまけ程度に政策研究や政策提言のような、いわゆる「夏休みの自由研究」のようなものを作らせておしまいだ。

 それにしてもやる気がなさそうに見えて、インターン女の指導に意外と真面目に取り組んでいそうなのがまた腹立たしい。やはりいくばくかの下心でもあるのではないか――なんて口が裂けても言えないからこそ、代わりに「セックスで羽多野の気を惹く作戦」が大失敗したことは、なおさら栄の心を重くした。