15.栄

 栄は落ち込んでいた。普段から、取り繕った外面からは決して想像できないであろう内省的な部分を持ち合わせているのだが、今回は日常のささいな逡巡や後悔とはレベルが違う。

 突如現れたインターン女に対抗するために、柄にもない行動に打って出たところが目も当てられない大失敗。しかももともとコンプレックスを持っていたセックス関連での失態だけにダメージは甚大だ。

 気まずいセックス――挿入はしたもののどちらも射精に至らなかった場合、それはセックスとしてカウントされるのだろうか――の後で、栄はすごすごと自室に逃げ帰ろうとした。だが途中で終わった行為の埋め合わせのつもりなのか、羽多野は栄を抱きしめて眠ることにこだわった。

 かたくなに断るのも気まずくて羽多野の寝室に留まりはしたものの、結局朝までまんじりともできなかったし、翌日以降の羽多野への態度も我ながらぎこちない。

 加点を目指しての行動だったのに、結果は大幅な減点。やっぱり、たまには羽多野に優しくしてやろうなどという自分らしくない考えが間違っていたのか。

「はー……」

 思わず大きなため息を漏らすと、パソコンに向かっていたトーマスが顔を上げる。

「谷口さん、どうかされましたか?」

 栄はあわててさわやかな笑顔を浮かべて見せた。

「いや、なんでもない」

「でもなんか顔色も良くないし、うっすら下まぶたに隈もできているような」

 仕事面ではトーマスの細やかさに助けられることが多いが、こういうときには彼の「気が付きすぎる」部分をちょっと面倒くさいと思ってしまう。良かれと思って口にしているのだろうが、原因が原因だけに栄としては、ストレスが顔に表れていることを気取られたくないのだ。

「ちょっと寝不足で」

「何かお悩みでもあるんですか? 私でお手伝いできることなら」

 できない。どう考えてもできない。この世の誰にも手伝ってもらうどころか相談すらできない悩みだ。学生時代には女学生から陰で王子と呼ばれ、霞ヶ関では「独身最後の大物」と女子職員に憧れられていた自分が、まさかフェラチオができなかったことが原因でこんなにも打ちのめされているだなんて。

「ありがとう。でも仕事じゃないんだ。ほら、ネット配信のドラマにはまって夜更かししちゃったんだよ」

「だったらいいんですけど」

 トーマスの世話焼きはやや過剰だが、栄が何らかの理由を提示したり、深く詮索されたくない素振りを見せればちゃんと引いてくれる。やっぱりこの英国人青年は優秀かつ善人だ。せっかくの親切を迷惑だと感じてしまった自分の狭量さが少し恥ずかしかった。

 それにしても、問題は羽多野との関係だ。交際相手にちょっと優しくしてやるだけのことがこんなに難しいだなんて想像もしなかった。

 栄の人生で恋人と呼ぶことができる相手は相良尚人と、羽多野貴明の二人だけ。

 羽多野と尚人は生い立ちから外見から性格から、何もかもが極端なまでに違っている。それゆえ、こちらの接し方が違ってくるのは仕方のないことだが、それにしてもあまりに勝手が違っている。

 尚人に優しくするのは簡単だった。最後の数年間のぎすぎすした関係は主に、仕事に忙殺され余裕をなくした栄が尚人をストレスのはけ口にするようになってしまったからで、いつだって彼のことは可愛く愛おしいと思っていた。尚人が押しつけがましく感じていたであろうことを別にすれば、彼を喜ばせようという行動自体は、期限の良いときの栄にとってはごく自然なことだった。

 羽多野との関係は始まりからしてまったく違う。出会った頃の彼は栄の職務に影響を及ぼしかねない議員の秘書で、どれだけ憎らしくても逆らうことは難しかった。そして、出会い頭から力でねじ伏せられ続けたせいか、それとも羽多野の性格や能力のせいか、彼が議員秘書でなくなってからも栄は力関係を逆転できないままでいる。

 結局、自分は羽多野には敵わない。心の奥ではそう思っているくせに、栄の高すぎるプライドはそれを認めることを許さない。そのアンビバレンスゆえに羽多野への態度はいつだって必要以上にとげとげしく攻撃的なものになってしまうのだ。

 しかめっつらで意地の悪いことばかりを口にする、こんな自分を好きなはずがない。だが、いざちょっと甘やかそうとすれば墓穴を掘る。

 羽多野といると、温厚な紳士を気取る外面を脱ぎ捨てられるようで気が楽だと思っていた。でも、一緒に過ごす時間が長くなり彼への情が増すにつれて、これで良いのか不安にもなる。紳士気取りどころか、このままでは本来の自分以上に嫌な人間になってしまいかねない。

「……トーマスって、アリスと二人のときはどんな感じなの?」

 ぽつりとつぶやくと、トーマスは再び顔を上げる。

「え? どんな感じって……別に普通だと思いますけど」

 普通、では足りない。具体的に何が普通なのか。やはり栄の羽多野への態度は普通ではないのか。問題はそこだ。

「ほら、君って礼儀もしっかりしてるし、言葉遣いも折り目正しいだろう。アリスと二人のときはもっとくだけた感じだったり、わがまま言うこともあるのかなって」

 トーマスとアリスが一緒にいる場所に同席したことは何度もある栄だが、第三者を交えたときと二人きりのときでは態度は違うだろう。栄だって他の誰かの面前で羽多野に対して暴言を吐いたりはしない。

「もちろん仕事のときと私生活では違うと思いますよ。誰だって多かれ少なかれそうでしょう」

「甘えたり、けんかで大声出したり?」

「大声は出しませんが、それは単に私がそういう性格だからで。甘えたりは……ええ、いくらかは」

 いつも冷静なトーマスが珍しくはにかんだ様子で言葉に詰まったそのとき、ドアががちゃりと開いた。

「うんうん、ケンちゃんははどうしてもユニコーンケーキが食べたくなっちゃったんだねえ。パパが買って帰るから待っててね」

 甘ったるい幼児口調で電話に向かって話しかけながら入ってきたのは久保村だ。聞くまでもなく通話の相手は愛息。ちょうど「職場の姿と家での姿」について話している最中にあまりにタイムリー。この男は数年前は、人目があろうが気にせず息子に「ぱぱでちゅよ」などと赤ちゃん言葉を使っていたに違いない。

 どうやらトーマスも同じことを考えていたらしい。

「久保村さんは、職場も家もあんまり変わらなさそうですね」

 電話を切った久保村は、同僚二人の視線が自身に注がれていることに気づいてはっとした顔をする。そして、しばし理由について想像を巡らした後に言った。

「なんだよ、じろじろ見て。今日はケーキのお土産はないからね! 僕は今月はダイエット月間なんだから」

 あまりに見当違いな主張に栄とトーマスは顔を見合わせて吹き出す。

 久保村のダイエット宣言は今年に入ってからだけでも、もう何度目だろう。だが、愛息が見た目だけで満足して数口で「ごちそうさま」をしたあと、ユニコーンケーキの大部分は久保村の丸々とした腹の中におさまってしまうのだろう。

 

 きっかけはため息だったとはいえ、トーマスと話したことで少しだけ気が晴れた。この勢いで一気に仕事を片付けてしまおう――そう思ったところで、ポンと小さな音を立てて栄のパソコンが新規メールの受信を知らせた。

 日本からの新しい仕事の依頼か、それとも英国政府から先日送った質問票への返事が来たか。すぐにメールを確かめようとして、栄は手を止める。

 送信者名はジェレミー。少し前にプールで出会った青年からの連絡だった。

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