16.栄

 出会った日に名刺を交換したものの、その後はジェレミーから特段の連絡はなかった。栄としても羽多野に妙な詮索をされるのが面倒なので、彼との出会いが社交辞令で終わるのならば、それならそれで良いと思っていたところだったが、メールが届いてしまった以上は無視するわけにもいかない。

〈先日ジムで会ったジェレミーです。お茶をごちそうさまでした。〉

 メールは礼儀正しい挨拶からはじまる。栄の名刺にはモバイルの番号も印刷してあったが、あえて職場のEメールアドレスへ連絡してくるのもジェレミーの謙虚さのあらわれのように思える。

 謙虚な人間はいいものだ。少なくともそういう相手とのやり取りであれば栄は本来の自分のペースを見失わずにいられて、羽多野みたいな無神経の塊に振り回され続けるよりはこの方がずっと落ち着ける。

 自身の失態に落ち込んでいるのを羽多野への理不尽な恨みに転嫁して、栄は内心で悪態をついた。

〈最近、私の会社でアジアのコンテンツに関するイギリス人の興味やニーズについての調査を行いました。ちょうど結果のレポートがまとまったので、ファイルを添付します。あくまで私企業の小規模な調査ですが、栄さんは日本のコンテンツ輸出にご関心があるとのことでしたので、少しでもお役に立てれば嬉しいです。 ジェレミー〉

「……へえ」

 シンプルで押しつけがましさのない文面に栄は感心した。

 ロンドンに来てから出会った「日本びいきの英国人やヨーロッパ人」からは多かれ少なかれ栄と親しくなることで何らかの情報を得たい、もしくは大使館員との交友からメリットを得たいという目的がにじんでいる。

 持ちつ持たれつの「大人の人間関係」は決して悪いものではない。そもそも栄が日本好きの英国人と交流する理由だって業務上の理由だったり、自尊心の問題だったりするのだから他人の損得勘定について文句を言う筋合いはない。とはいえ下心を感じさせることなしに「栄の役に立てるのならば嬉しい」という配慮をしてくれる、ジェレミーのこまやかさは嬉しい。

 栄はすぐに添付されているPDFを開いてみた。調査規模が小さいというジェレミーの言葉は謙遜としか思えなかった。インターネットや文化施設、英国各地の大学でとったというアンケートの回答者数はなかなかに立派なもので、しかも大使館や日系の商工会が行う調査では届きにくい層にもリーチできている。

 レポートのタイトルが「アジア圏のソフトコンテンツに関する調査」となっているのも興味深かった。アジア諸国を中心に他の国のコンテンツとしっかりした比較ができていて、マーケティングレポートとしての質も上々だった。

 偶然の出会いから得た思わぬ収穫――ほら見ろ、羽多野はわけのわからない文句を言っていたが、これも俺があの日ジェレミーをお茶に誘ったからだ。栄は舞い上がった。

 

 ジェレミーと二度目に対面したのは、レポートを受け取った翌々日のことだった。

「ありがとう、あのレポートすごく面白かった。同僚にも回覧したけど、みんな興味津々で読んでいたよ。あれは君が分析したの?」

 お礼のメールを送ったところ、もしも内容への質問があるなら何でも聞いてくれという、これまたお手本のような返事がきた。聞きたいことはいくらでもあるので、こまごまとメールのやり取りをするよりは会って話した方がよっぽど早い。

 きっと再びジェレミーと会うと話せば羽多野は嫌な顔をするだろう。でも、栄には「あくまでこれは仕事だ」という大義名分がある。本音を言えば、ジェレミーの素朴な雰囲気や柔らかく思慮深そうな態度は栄の好みではあるのだが――羽多野はそんなことは知らないし、何より自分は誰彼かまわず下心を抱くような下賤なタイプではない。

 これはあくまで、彼の親切に対する礼儀と職業上の好奇心。さらに付け加えるならば、テレビや映画に出てくる感じの良い芸能人を見て癒やしを得るようなもの。

 つまり栄はいくらか疲れていたのだ。

 羽多野の周囲をうろついているらしい日本人女の影に怯える自分も、そのせいでらしくない態度を取った上に惨めな失態をさらしてしまった自分も、何もかもにうんざりしていた。素朴な田舎青年との会話にちょっとした安らぎを求めるくらい許して欲しい。そんな言い訳を心の中で紡いだ。

「今日はちょっと残業して帰るから」と羽多野にささいな嘘をついて出かけて、仕事終わりに繁華街のカフェバーで待ち合わせた。もちろん羽多野の通勤ルートから外れた店を選ぶことは忘れない。その上で栄の知る中でとっておきにおしゃれで美味しい店を選んだのは、ジェレミーに洒落た男だと思われたかった――という気持ちは否定しない。

「特に中国や韓国、タイなんかと深く比較考察しているのは面白かったよ。俺たちからすればそれぞれまったく別物だけど、欧米からすれば同じアジア文化でくくられるだろう? その中での日本の強みや弱みを詳細に分析して輸出戦略を立てるのは大事なことだから」

 かといってあまりに生々しい国際比較のアンケートを政府主導で行えば角が立つ。そういう意味でもジェレミーのレポートは非常に有益だったというようなことを、栄はカクテル片手に饒舌にまくしたてた。

 一方のジェレミーはあくまで謙虚な態度を崩さない。小洒落たオリジナルカクテルが山ほどある店にも関わらず、注文したのもごくシンプルなモヒートだ。

「そう言っていただけると嬉しいです。突然あんなものを送りつけてご迷惑になるんじゃないかって心配だったから」

「そんなことないよ。どんな細かい情報でも助かる」

 栄はすっかり出会って間もない青年に好感と親近感を抱いていた。自然と表情や口調も打ち解けたものになり、対するジェレミーも人懐っこく微笑んだ。

「栄さんは親切ですね。それに――」

 ちらりとこちらを見て、口をつぐむ。その表情にうっすら浮かぶのははにかみ。その意味をよく理解しないままに栄は問い返す。

「それに?」

「すごく泳ぐ姿がきれいです」

「え……」

 急に話題が関係ないところに飛んだ。それに、栄とジェレミーはジムで出会ったが、あれは偶然栄がロッカールームで彼のゴーグルケースを拾ったからだ。プールにいるときから見られていただなんて、栄は知らなかった。栄は一瞬動揺した。これまでまったく素振りを見せなかったが、もしやジェレミーは「そういう意味で」自分に声をかけていたのか?

 言葉に詰まった栄に、ジェレミーは申し訳なさそうに謝る。

「すみません、勝手にじろじろ見ていたなんていい気持ちしませんよね。でも、悠々と泳ぐ姿を見ていたら、あんな風に泳げたらいいなって憧れちゃって」

 思わず耳のあたりが熱くなった。「きれい」という言葉に勘違いしそうになったが、何のことはない、ジェレミーが言っているのはあくまで泳ぎのフォームの話だったのだ。

「いや、そんな……子どもの頃に多少習ってただけで、フォームなんかも今じゃ完全な自己流だよ。ただ健康のために泳いでいるだけで」

 これは謙遜ではない。それなりのスピードでそれなりの距離を泳げはするものの、本格的に水泳をやってきた人々と比べれば栄の泳ぎなど邪道もいいところだ。それでも褒められれば悪い気はしなかった。

「君も泳ぐんだっけ?」

「エクササイズのために最近プールに通い始めたんです。でも不格好だし、数百メートルでばてちゃって。栄さんはずっと同じペースで淡々と泳いでいるでしょう? 専門的なフォームとかはわからないけど、周りよりずっと洗練されて見えますよ」

「洗練ってそんな……ただ距離を泳いでるだけだよ」

 そう言いながらも栄はほおが緩みそうになるのを必死にこらえる。レポートのお礼と質問だけで、お酒は一杯だけ。そう決めていたのに気分がよくて、通りすがった店員に追加のグラスを頼む。

 ジェレミーと話すのは楽しい。仕事上の知識欲と無関係ではないものの政治や外交といった面倒な事柄とは距離をおいていられる。一方で羽多野といるときのような感情面での駆け引きやマウントの取り合いもない。ただ自然に振る舞うだけで自然に尊敬が得られる。

 懐かしい感覚だ、と栄は改めて思う。

 そう、これはずっと昔、栄がまだ役人の世界に入る前、万能感にあふれていた若い頃のような――。

「良かったら水泳、教えてあげようか」

 思わずそう口にしていた。言った後で「しまった」と思ったのは羽多野への後ろめたさがあるから。でも、嬉しそうに目を輝かせるジェレミーを見るといまさら口が滑ったなどといって撤回できるはずもなかった。

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