17.羽多野

 栄の様子がおかしい。勝手な思い込みや考えすぎが原因でふさぎ込んだり八つ当たりしてきたりするだけならば平常運転の範疇だ。しかし今回はそれとも様子が違っている。

 きっかけは何だったか。ジムで出会った男に栄が簡単に気を許した件、そして翌週はじめに羽多野が連絡もなく酒を飲んで遅くなった件のせいで、二人のあいだには険悪な空気が流れた。

 万事において負けず嫌いな栄ではあるが、羽多野相手であればお得意の「余裕のふり」すらかなぐり捨てて並々ならぬ頑固さを発揮する。明らかに栄の側に非がある場合でもまず自分からは謝らないのだから、今回のケースで彼の側から譲歩してくる見込みはゼロと踏んでいた。

 そういうときはどうなるか。視線を合わせず最低限の用事以外口もきいてもらえない状態が短くて一晩、長ければ一週間ほども続く。その間羽多野はさりげなくご機嫌を取ってみたり、敢えて無関心を装ってみたりしつつ恋人の様子を観察し続け、ごくごくかすかな「そろそろ許してやろうかな」のサインを待ち続けるのだ。合理主義の羽多野にとってはとことんくだらないプロセスではあるが、これも谷口栄という厄介な男を攻略するゲームなのだと思えば、いらだたしさの中に楽しさを見いだすことも難しくない。

 だが今回は、月曜の夜の最悪なムードを思えば意外なほど早くに栄の態度が軟化した。照れと意地があるのか口調や態度こそとげとげしいが、心底怒っているときとは明らかに態度が違う。それどころか週末でもないのに羽多野の寝室を訪ねてきた――それが並外れてプライドが高く羞恥心の強い栄にとっては最大限の「夜のお誘い」の意思表示であることは二人のあいだではとっくに暗黙の了解となっていた。

 これだけでも夏の珍事といって良いのだが、問題はさらに先。栄が自ら「何かして欲しいことはないか」と聞いてくるに至って羽多野は耳を疑い、しばし硬直してしまった。

 万事において面倒くさい栄だが、セックスについてのこじらせようは格別だ。潔癖かつ過剰に人目を気にする性格ゆえに、性的な事柄については淡白――というよりは、教科書的な振る舞い以外どうすれば良いか知らないまま年齢を重ねてきたようだ。それに加えてED疑惑に悩んだ末のセックスレスが原因で恋人に浮気され別れるに至った経緯は彼の中ではトラウマになっている。栄が今も積極的な性行為に対して苦手意識を持っているのは無理もない。

 一方の羽多野にとってセックスとは、少年時代から抱きつづけてきた満たされなさや上昇志向を発散するための手段だった。生理的な欲求を満たす方法であると同時に、他者を征服する満足を得るためのセックス――その考えはおそらく、子を作ることができず結婚生活が破綻したことでますます大きくなった。そして、谷口栄という羽多野の憧れと憎しみのすべてが詰まったような男を手に入れたことで、完全にタガが外れた。

 女はもちろん男相手にもそれなりの経験は積んできたし、好奇心もあって――もちろん当時の「本命」だった元妻相手には節度を持って接していたが――物珍しいプレイを試したことも多々ある。だが、栄を相手にしたときの我を忘れて食い尽くしてしまいたくなるような感覚は羽多野にとって初めてのものだ。おかげでたびたびやりすぎてしまうし、人並み以上に慎み深いセックスしか知らない栄からは「変態」の烙印を押されてしまっているが、それも仕方ないのかもしれない。

 それぞれにゆがみを抱えてはいるものの、相性は良いのだと思う。 

 洗練された外見からは信じられないほど古臭くマッチョな精神を持つ栄はずっと自身を「リードする側」だと思って生きてきたようだが、それは明らかな勘違いだ。奥手で素直でない男は、強引に押し倒して、無理やりにでも抱いてしまうくらいでちょうどいい。

 本気で嫌がっていたのは最初の一回だけ。触れれば驚くほど敏感に反応し、屈辱に涙を浮かべながら体を震わせる。どう考えたって、栄だってそういう行為に興奮しているのだ。そして、処女信仰など馬鹿馬鹿しいと思っていたはずの自分が、最初は素手で性器に触れることすら「汚い」と拒んだ相手に夢中になったのだから、人生とはわからない。

 あの誇り高い顔を快楽と恥辱に歪ませたいし、我を忘れるほど喘がせて、ぐちゃぐちゃになるまで汚したい。栄にはできないことが多いからこそ、ひとつひとつ教え込んでいく楽しみがある。

 そんなこんなで、将来的な野心はともかく今はまだ栄のおぼこさを楽しんでいる羽多野だから、突然の王子の側からの「ご奉仕」の申し出には目玉が飛び出るほど驚いた。一体どんな風の吹き回しだろうか。ここのところの妙な態度の延長であることは間違いなく、原因がわからないからこそ不気味でもある。

 羽多野が黙り込んでいるのが不満だったのか、それとも急に恥ずかしくなったのか、栄は「やっぱりもういい」と申し出を撤回しようとしたが、そうは問屋が卸さない。ひとつひとつ薄皮を剥がすように栄を変えていくのも楽しみではあるが、かといって羽多野は据え膳を遠慮するようなタイプとはほど遠い。

 手首だって縛った、目隠しもした、背面座位で鏡の前で交わったこともある。下半身をつるつるに剃毛して、いやらしい下着を履かせたときに死ぬほど恥ずかしがっていた姿は思い出すだけで昂ってくるほどだ。振り返ればこの一年弱のあいだにもバラエティ豊かなプレイを楽しんできたと自負するが、羽多野にとってはもっと当たり前で、しかし栄にとっては極めて困難な行為が残っていた。

「フェラチオ」

 羽多野がこれ以上ないほど端的に欲望を口にした瞬間、今度は栄が硬直した。

 潔癖な栄は口淫ができない。好みではないとか変態だとか暇があれば罵っている羽多野はおろか、宝物のように大事にしていた相良尚人にすら一度もやったことがないというのだから、筋金入りだ。だからこそ羽多野にとって、栄に口での愛撫をさせることは宿願だった。

 こちらが主導して無理矢理やってしまえば済む類のものとは異なり、フェラチオについてはどうしたって栄の積極的な行為が求められる。だから簡単に実現できるとははなから思っていない。ゆっくり、時間をかけていつかは――そんな気持ちでいたが「何でも」と言われればリクエストしたくなるのが男のさがだ。

 羽多野は硬直した栄の反応をうかがう。

 自分から「何でも」と言っておきながら、想定を超えた行為を要求されればふざけるなと激怒するのが栄という男だ。なんなら拳が飛んでくることすら予想して身構えた羽多野だが、ここでも栄の反応は意外なものだった。ものすごく嫌そうな顔をしてはいたが、本人なりに精一杯の努力はしたのだ。

 ――その結果が、いきり立ったものに顔を近づけておきながら「やっぱり無理」という、互いにとってあまりに気まずいものではあったのだが。

 うっかり期待させられていただけに羽多野は落胆した。だが自身の落胆以上に、栄の落ち込みようが気にかかった。いざというところで前言撤回したことを敵前逃亡だと恥じるのは栄らしい反応だ。だがあんなことを言えば羽多野がわざと栄の苦手とする行為を要求することなど、少し考えればわかるはずだ。今夜の栄はやはり普段にも増して奇妙だ。

 その後は二人とも集中力を欠いた。むきになっているかのように行為を続けることを主張した栄だが、触れようが押し入ろうがろくに感じていないのは明らかで、羽多野の側も無理やり高めてやろうという気持ちにはなれない。結局、羽多野は射精に至らないままで性器を抜き去った。途中でやめれば栄は気にする。だが、このまま心ここにあらずの相手を最後まで抱くのも惨めに思えたのだ。

 そして――初めてのセックスの「失敗」は、数日たった今も二人の生活に影を落としている。