22.栄

「ゲイ……?」

 一瞬聞き間違いかと思った。しかしジェレミーはこくりとうなずく。

 予想外かつ、唐突すぎる告白だ。

 自分の志向を隠すためにできるだけ鈍くあろうと努力してきた結果、どうやら栄には多くの同性愛者に備わっているという「同類を見分ける能力」が欠如しているらしい。だから尚人と距離を詰めるまでに一年もかかったし、ベッドで組み伏せられるまで羽多野がバイであることにも気づかなかった。

 そんな栄だから、ジェレミーに対しても自分が同性愛者であることに気づかれないようにという注意は怠らなかったが、まさか彼の側がそうであるかもしれないという疑いは一度として持たなかったのだ。

 それにしてもなぜこのタイミングで、よりによって栄相手にカミングアウトしてくるのだろう。いや、それとも彼は栄を「お仲間」だと同類だと考えているのか? だとすればどう反応すればいい。いや、まだばれたと決まったわけではないのだから、やぶ蛇のようなことはしないほうがいい。混乱した考えがぐるぐると頭の中を巡る。

「そうなんだ。全然気づかなかったよ」

 栄は注意深くジェレミーの表情をうかがい、裏にある真意を探ろうと試みる。

「すみません。こういうことを切り出すの、得意じゃなくて」

 彼からすれば隠しごとをとがめられたと感じたのかもしれない。しゅんとしたジェレミーに向かって栄はあわてて否定する。

「いや、謝るようなことじゃなくて。ほら……この国はそういうのは開放的だから。ほら、同性婚も合法化されたし、プライドのパレードなんかも派手だし。仕事の知り合いから同性パートナーを紹介されたこともある」

 必要以上に饒舌になるのは動揺しているからだ。下手に自分の事情に突っ込まれるのが怖くてつい言葉数が増えてしまう。

 実際、栄はこの国の同性愛者というのは大体が開けっぴろげなのだと思い込んでいた。渡英間もない頃に仕事上のカウンターパートから同性の恋人を紹介されたときには、まだ尚人との破局を引きずっていたこともあって、嫉妬混じりの強い嫌悪を感じた。

「それは大都市だからですよ。私の田舎じゃまだまだゲイなんて異端です。今も家族や職場はもちろん、友人にもほとんど明かしていません。だからあんまり恋愛経験もないまま大人になってしまって」

 ジェレミーは、それもまた自分が故郷に戻らずロンドンで仕事を探した理由のひとつなのだと付け加えた。

 不謹慎この上ない感情ではあるが――いつもの朗らかな様子が嘘のように寂しそうな笑顔を浮かべた彼を見て、不覚にも栄は「可愛い」と感じてしまった。地味で、奥手で、自身の性的指向にちょっと後ろめたさを感じているくらいの控えめなタイプ。確かに「昔の」栄ならばどんぴしゃの好みのタイプだったろう。いや「昔の」というべきか「本来の」というべきか。

 そんな邪なことを考えたせいで、ジェレミーの肌の感覚までも手のひらに蘇る。

 スイミングフォーム修正のために、何度か彼の腕や体に触れた。日本人の血が混じっているとはいえアジア人よりはずっと白い肌。一方で、尚人や羽多野より肌のきめは粗いような気がした。いや、尚人の肌の感触はすでに忘れはじめている。なんせ最後にまともな精神状態で抱き合ったときから、あまりに長い時間が経った。

 比較対象があるとすれば、羽多野。羽多野の肌はいつも熱くて、湿っていて、抱き合えば身体中で栄の肌に吸いついてくるようだ。あれと比べたらジェレミーはざらりと冷たくて――。

「なんで、そんな秘密を……俺に……」

 緊張のあまり栄がごくりと唾を飲み込んだ次の瞬間、ジェレミーはふんわりと笑った。

「すみません、栄さん親切なんで、こういう愚痴も聞いてくれるかなって思っちゃったんです。職場や古くからの友達ほどのしがらみもないから話しやすくて」

「あ……、そうなんだ」

 思わず気の抜けた声が出た。遠回りなお誘いどころか「リスクを感じるほど親しくない、適度に親切な人間」という安心感によるカミングアウトだったとは。胸を高鳴らせた自意識過剰が恥ずかしくて顔が熱くなる。

「本当にごめんなさい。急にこんな話されても困りますよね。それに、同じプールにゲイの男がいると知ったらいい気はしないに決まってるのに」

 急に口数の減った栄の反応を違う意味に受け取ったのか、ジェレミーは申し訳なさそうに言った。

「いや、謝ることはないよ」

 ジェレミーがどうこう以前に、ジムのプールにはもっとあからさまな、「見るからにお仲間」な人々をよく見かける。それに何を隠そう自分も同性愛者だ、というようなことは死んだって口にできないので、とりあえず栄は「いつもの」よそ行きの笑顔でごまかすことにした。

「全然そんなこと気にしてないし、俺で良ければいつでも愚痴くらいは聞くから」

 他人の恋愛話になどびた一文の興味もないのに、つい余計なことを言ってしまうのもまた「いつもの」悪い癖なのだった。

 

 ささやかな癒しの時間のはずだったのに、ジェレミーとのやり取りで栄はぐったりと疲れ果ててしまった。

 彼も同性愛者だと知ってしまった以上は、今後プールで会うときには気を遣う。向こうは栄がゲイであることに気づいていないのだから、鍛え抜いた外面でこれからもノンケの振りを続ければいいだけのことではあるのだが、そうまでして彼と会い続ける必要があるのだろうか。

「はあ……」

 ため息をついて玄関のドアを開けると、リビングからは明かりが漏れている。ぎくりとするが、今日は事前にプールに寄って帰るとメッセージを送ってある。文句を言われる筋合いはないのだと自分に言い聞かせる。

「ただいま」

 気まずい気持ちは消えていないが、さすがに無言とはいかないのでリビングに入ると一応声を掛ける。羽多野も帰宅したばかりであるようで、ネクタイは外しているがスーツのままでビールの小瓶を手にしている。

「なんだ、今日はんだな」

 第一声から嫌味、かちんときた。

「予定は伝えてます」

「別に、文句は言ってないだろ。普段だったら泳いで来る日はもっと遅いから、意外だっただけだ」 

「誰のせいだと?」

 思わず声が大きくなる。普段なら三千メートル泳ぐところ、気が散ってたまらないから半分もこなさないで帰ってきたのだ。そして気が散ってしまう理由は他ならぬこの男だというに、自覚ゼロで嫌味とはいいご身分ではないか。

 それに――。ジェレミーの衝撃の告白のせいですっかり忘れていたことが、羽多野の憎たらしい顔を見た瞬間に頭に蘇る。

「誰のせいって、君がプールで過ごす楽しい時間の長短に俺は関係ないんだろう……っ」

 羽多野の言葉が途中で止まったのは、栄が投げつけたジム用のスポーツバッグが顔面に命中したからだ。

 もちろんそれだけで気はすまない。栄はつかつかと歩み寄って羽多野の手からビール瓶を取り上げると、近い距離から睨みつける。

「俺が泳ぎに行くのが不満だってのは知ってます。でも、だからってこんなやり方で恥かかせるなんて最低ですよ!」

「こんな?」

「知らなかったとは言わせませんよ。首、こういうのやめてくれっていつも言ってるじゃないですか」

 自分では見えないうなじを指で示して、栄は羽多野に詰め寄った。いくらしらばっくれたところで、栄の首筋にキスマークをつけるチャンスのある人間などこの世で羽多野しかいない。