21.栄

 チクリと首元を何かに刺されたような気がした。ほんの一瞬だったので蚊にでも刺されたのかと思って栄は眠り続けた。朝になって手で触れてみたところ、特に熱も腫れも感じない。きっと夢だったのだろう。

 そんなことより、栄の憂鬱は深まるばかりだ。

 羽多野の様子がおかしい。普段なら触るなと言えば言うほど、こちらの意思をあざわらうように手を出してくるはずだ。そして実際、これまではどんなわがままをぶつけても、喧嘩をしても、最終的には羽多野の図太さと――体をつなぐことでなし崩しにされてきた。

 すぐにセックスでごまかそうとする男のずるさを憎らしく思っていたはずなのに、言葉にできないフラストレーションが高まれば高まるほど、いっそ有無を言わさぬ方法で現状を打ち破ってくれればいいのにと自分らしくもないことが頭をよぎる。なのに、こういうときに限って指一本触れてこないのだ。

 栄が目を覚ましたときにはすでにベッドに羽多野の姿はなかった。起き出してリビングに行くと、すでに身支度を整えている。普段の出勤は栄の方が早い。

「どうしたんですか?」

 視線を合わせないようにしながら尋ねると、羽多野はそっけなく答える。いや、もしかしたらそんなふうに感じるのは栄の被害妄想かもしれないのだが。

「ちょっと急ぎの仕事があるのを思い出した。今日は早めに出るよ」

 だったら昨日の夜にでも残業すれば良かったのだ。無駄に早く家に帰っては、帰宅の遅くなった栄に嫌味を言う。まったく理解できない行動ではないか。

「そうですか」

 朝からまた言い争いをするのも嫌なので、追求はしない。羽多野はコーヒーを飲み干すと出て行った。

 

 

「……どうでした? だいぶスピードも上がった気がするんですけど」

 声をかけられて、はっとする。水面から顔を出したジェレミーがゴーグルを外して人懐っこい表情でこちらを見ていた。

「あ」

 手元に目を落とすとストップウォッチは動いたままだ。

「ごめん、止め損ねた。でも、そう、ベストタイムだったと思うよ」

 本当はジェレミーの泳ぎなんてちっとも見ていなかった。しかしそれを言葉にするのははばかられて栄は愛想笑いを浮かべた。それに、気になる点を指摘して何度か泳ぎに付き合ってやっただけで、ジェレミーの泳ぎはずいぶんきれいになった。あくまで健康作りが目的なのでタイムは重要ではないとはいえ、フォームが整えば自然とタイムも伸びるのだ。

 ざぶんと波を立てて、ジェレミーがプールから上がってきた。泳ぎをはじめたのは最近だがもともと運動はやっていたらしく、服を着ているときよりもたくましく見える体を水滴が伝う。

「すいません、忙しいのにこんなこと頼んで。しかも頻繁に」

 どうやら心ここにあらずなのがばれてしまったようだ。ジェレミーは申し訳なさそうに言う。その姿は栄の中に罪悪感を呼び起こした。

「いや、仕事は落ち着いてるし、どうせ俺も泳ぎに来るついでだから。君も教え甲斐があるし……ほら、だいぶ軸もずれなくなってきたから、この調子で体幹を意識していたらすぐに千や二千くらい泳げるようになるよ」

「本当ですか!?」

 不安そうな瞳がぱっと明るくなったので、栄は安堵した。

 ジェレミーは悪くない。確かにスイミングのフォームをチェックして欲しいと言い出したのは彼の側だが、ここのところ週に何度もプール通いの予定を知らせているのは栄だ。

 良くない傾向だという自覚はある。恋人と二人で過ごす時間が気づまりだからと、わざと家を空ける。尚人との関係も最後の頃はこんな感じで――その頃に尚人が何をやっていたかといえば、栄に隠れて未生との逢瀬を重ねていた。

「栄さん?」

「あ、悪い」

 またもや別のことを考えていたことを指摘され、再び作り笑顔を浮かべるが、ジェレミーは怪訝な様子だ。

「やっぱりお疲れなんじゃないですか? 今日はもう切り上げた方が」

 確かに、疲れているのは事実だ。それに――尚人の浮気のことを思い出したら急に不安になった。なんせ羽多野の周囲には、日本人の社長令嬢とやらがうろついているのだ。

「そうするよ。君はどうする?」

 大きく息を吐いてうなずくと、ジェレミーもタオルを手に取った。

「私も今日は、そろそろ」

 

 シャワーを浴びて体を拭いて、下着を身につけてから栄が外に出ると、ジェレミーはすでに服を着て、ベンチに腰掛けて頭を拭っているところだった。

 ふと、彼の視線が自分の体をかすめた気がした。考えすぎかもしれないと思ったが、一度外れた視線は再び戻ってきて、栄の首筋中で止まった。

 栄は思春期からずっと、自分の性志向を隠す訓練を積んできた。体育会系の部活でメンタルを鍛えた結果、更衣室で男の肌を見たくらいで動揺することはない。だが、こんなにじっと見つめられると――。

「泡でもついてる?」

 もしかしたら洗い残しがついているのだろうか。そんなことを考え首元に手をやったところでジェレミーがおもむろにベンチから立ち上がった。

 つうっと、指先がうなじをなぞった。予想外の刺激にぞくりと肌が粟立つ。

「何だよっ!?」

 弾かれたようにジェレミーの手から逃げ振り向くと、彼も驚いたようにブラウンの瞳を丸くしていた。

「ご、ごめんなさい!」

 しゅんと、叱られた犬のような目をされると弱い。過剰な反応は逆に同性愛者の疑いを招くかもしれないという不安も湧き、栄は舌打ちをこらえた。

「いや、謝るようなことじゃないよ。ちょっと驚いただけで」

「首に」と、ジェレミーは言う。

 やはり何かついているのだろうか。改めてさっきより強い力でうなじを拭ってみる。

「何もないけど?」

 するとジェレミーは少しだけためらう様子を見せ、それから声を潜めた。

「栄さん、気付いていないんですね。確かに自分じゃ見えない場所ですが」

 その言葉に、栄は先を察した。つまり。

「……っ!」

 思わず両手でうなじを覆い隠した。昨晩のちくりとした感覚。夢かと思ってやりすごしたが、もしかしたら、あれは。

「すみませんっ、余計なこと指摘して。ただ……」

「ち、違う。これは昨日ちょっと、虫に刺されて。だからっ」

 慌てふためく自分は、どんな鈍い人間からも苦しい言い訳をしているようにしか見えないだろう。案の定、ジェレミーは落ち着けと言わんばかりのジェスチャーをしながら言う。

「栄さん、そんなに恥ずかしがらなくたって。日本人が奥ゆかしいのは知っていますが、ここはロンドンです。それにシャツで隠れる位置だし、近くで見ないと分からない程度だから、きっと誰も気付いていません」

「本当に?」

「本当に」

 その言葉が真実かどうかはわからない。だが、今は無理やりにでも信じる努力をするしかなさそうだった。そうでもしなければ羞恥で頭がどうにかなってしまう。

 

 気まずい雰囲気のままで、並んでロッカールームを出た。カフェやパブに誘う気にもなれず、そのままジムの外で別れようとする。

 奇妙に思われているだろうか。同性の恋人の存在に気づかれただろうか。いや、でも……キスマークくらい女だってつけるはずだ。

「じゃあ」

 栄がそう言って手を振りかけたところで、ジェレミーが苦笑いする。

「すみません、やっぱり言わない方が良かったですね」

「いや、気づかなかったら他で恥をかいたかもしれないから。感謝するよ」

 まだ相手がジェレミーだっただけ、ましだったのかもしれない。共通の知り合いは他にいないし、口だってかたそうだ。そう自分に言い聞かせる栄の耳にぽつりと、意外な言葉が飛び込んできた。

「……でも、ちょっと羨ましいです。恋人に愛されてるってことでしょうから」

 ぽつりと、しかし彼の声には心底の憧憬が込められていた。そういえば彼から恋人の話は一度も聞いたことがない。

「君だって、彼女くらいすぐにできるよ」

 慰めのような言葉だが、栄は本気だった。確かにジェレミーはこの国でモテるタイプではなさそうだが、かといってこういう優しげな男を好む女性がいないわけでもない。なんせ、こてこての日本オタクのトーマスですら、あんな美人と結婚目前なのだから。

 だが、ジェレミーは気まずそうに目を伏せた。

「でも私、実は……ゲイなんです」

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