24.栄

 膝をついて頼むまでのことはしなかったものの、羽多野が渋りながらも「理不尽な態度の理由は嫉妬である」と表明したことで、いくらか栄の気は晴れた。

 だからといって「自分も悪かった」と口に出す気になれないのは、ひとつには、インターン女の件で「どっちもどっち」なのではないかという思いが拭い去れないから。もうひとつは、「どっちもどっち」であるとはいえ、ジェレミーと週に何度も会って(決して色っぽい意味ではないとはいえ)「裸の付き合い」を深め、果てには同性愛者であることをカミングアウトされてしまうに至ったことを後ろめたく思っているからだ。

 あるがままを話せば、きっとまた言い争いになる。わかっているからこそ小さな嘘をつくことを選んでしまう。

「羽多野さん考えすぎです。そんなピリピリするようなことは何もありませんよ。ジムで一緒になったときに……ちょっと、話すくらいで」

 これは今だけの小さな嘘。だって栄は浮気をしたわけではない。これ以上ジェレミーとの距離を詰めるつもりはないどころか、今後は距離を置こうと決意しているのだから、今口にした言葉はすぐに真実に変わる。だから、大丈夫。

「ふうん」

 羽多野は値踏みするように栄を一瞥する。信用されているのか疑われているのか判別できない視線に、どうしようもない居心地の悪さを感じた。

 何か言い訳を重ねた方がいいだろうか。それとも墓穴を掘ることになるだろうか。そんなことを考えていると、羽多野が腕を伸ばし栄の襟首を再び引き寄せた。

「それにしても」

 首筋にかかる息に、ぞくりと背筋が粟立つ。

「そう強く吸ったつもりはないんだけど、こんなに跡がつくなんて君はやっぱり皮膚が薄いんだな。」

 だからあちこち敏感なのか、とささやく唇がうなじから首筋へと滑り、耳たぶをかすめて唇をとらえた。

「ん……」

 久しぶりのキス。気まずくなる前と変わらない熱と湿った唇。思わず目を閉じて応じそうになり、舌を絡めかけたところではっとした。長めの仲違いからなんとなくの和解。そこからキスとくれば、続きに何が待っているかわからないほど鈍くはない。

 まずい。勢いのままにセックスになだれ込んだところで、栄はまだ前回の失敗を克服できていないのだ。羽多野も遠慮して口でのサービスは求めてこないかもしれないが、再び彼を失望させて途中で萎えられでもしようものなら今度こそ二度とセックスしようという勇気を失ってしまう。

 そして、いい大人同士の付き合いかつ、羽多野が人並み以上にお盛んなタイプであることを思えば、性の不一致は必ずや自分たちの関係を破綻に向かわせるだろう。ここ最近栄を悩ませてきた嫌な想像が再び頭をもたげる。

「あ、あの」

 口付けの角度を変えようと一度羽多野が腕を緩めたところで、栄はぐいと彼の胸板を押した。

「今日は、ここまでにしときましょう。ほら、俺シャワーも浴びてないし。ちょっと疲れてるし……」

「疲れるって、ジムに寄る元気はあったのに?」

 栄の拒否をただのポーズだと受け止めたのか、羽多野はキスの場所をこめかみに移す。本気で拒めばまた喧嘩になるだろうか。一瞬ためらったものの、栄はもう一度強く羽多野の体を押し戻した。

「だから、あなたが約束を破るから恥かいて、気疲れしたんですって!」

 普段なら栄の抗議など無視してやりたい放題の羽多野が妙におとなしくて、同じベッドで寝たにもかかわらずうなじのキスひとつで済ませてしまうから。そのキスマークをジェレミーに見られた上に、妙なカミングアウトされてしまうから。

 いつものように無理やりな理屈で全責任を羽多野に押し付けながら、栄は思う。引いて欲しいけど、引いて欲しくない。前に何度もやったみたいに有無を言わさず押し倒して抱いてくれればいいのに。迷いを感じる余裕もないくらい圧倒的な力で押さえつけて、ねじ込んで、揺さぶって、余計な考えを追い払ってくれれば楽になれるかもしれない。栄が素直になれない性質であることなど百も承知のはずなのに、なぜこういうときに限って紳士ぶろうとするのだろうか。

 無理やり抱かれてしまいたい気持ちと、心と体の準備ができるまで待って欲しい気持ち。どちらも同じくらい切実な本音だった。

 そして――羽多野はまたもや栄の「表向きの」声を尊重した。

「ったく、君ってやつはどこまで面倒なんだ」

 いざ腕から解放されれば安堵より失望が先に立つ。だが、今さら続きをなんて死んだって言えない。

「め、面倒って……。でも、今回は先に約束を破ったのは羽多野さんですよ。だから俺だってこんな疲れ果てて」

「わかったよ。結局俺が悪いんだろう」

 突き放すような言葉に「そういうわけじゃない」と口を開きかけて、しかしそれを遮るように羽多野が真顔で告げた。

「じゃあ、その首のキスマークが消えたらチャラってことでどうだ? さすがに週末までにはなくなってるだろう」

「週末……」

 最近は喧嘩続きでペースが狂っていたが、もともと二人が抱き合うのは主に週末だった。翌日に仕事がある晩にセックスをすると体が辛いという栄の言い分が通ってのことだが、半分は嘘だ。ルールを決めて回数を絞らなければ、あまりに刺激の強い羽多野とのセックスに加減を忘れてのめりこみそうで怖かった。

 いつものルーティンに戻るだけなのに、「次のセックスの日」を明示されることには妙なプレッシャーを感じて栄は唇を噛んだ。

「それとも、まだご不満でも?」

 黙ったままの栄に羽多野が返事の催促をする。もちろん拒む理由などない。

「……いいえ」

 どんな顔をすればよいのかわからないので、短く返事をするとすぐに羽多野に背を向け、栄はバスルームに向かった。

 

 脱衣所でシャツを脱いで、ふと思い立って棚から手鏡を取る。ジェレミーに指摘されて、羽多野にものぞきこまれたうなじのキスマークを、まだ自分では目にしていなかった。

 洗面台と手鏡を合わせ鏡にして自分の後ろ姿を確かめる。「軽く吸っただけ」という言葉には嘘はないようで、キスマークは思ったよりは薄かった。これならプールでもほとんど気づいた人はいないだろうとほっとする。だが、キスマークが薄いのは、羽多野の言うとおり週末までには確実に消えてしまうということも意味する。

「……まいったな」

 一難去って、また一難。いや、悪いのはうじうじとくだらないことにこだわり続けている自分だ。できもしないことを言い出して自らハードルを上げておきながら、無惨に失敗して羽多野を失望させた。セックスレスで一度痛い目をみているのに、また同じことを繰り返そうとしている。

 湯船に湯がたまって、暖かい空気が洗面台まで流れてくる。手鏡を置くと、栄は残りの服を脱いでバスタブに向かった。

 温度高めの湯に浸かって、どうにか前向きになろうと自分を鼓舞する。

 考えようによっては、期限を区切るのは良いことなのかもしれない。昨日や今日みたいに心の準備ができていない状態で誘われれば、また怖気づいてしまうだろう。でも次がいつかがわかっているなら、こっちだって対処のしようがある。そうだ、学生時代から試験勉強は得意だった。試験日程を見据えてスケジュールを組み、入念な準備をするだけ。

 これも同じことだと思えばいい。ちょっと突貫にはなるが、週末に向けてイメージトレーニングをじっくりしておけば、きっと前回のリベンジも叶うはず。

 リベンジ、つまり。

 栄はちょうど視線の高さにあるステンレスの棚を見渡す。栄と羽多野それぞれが好き勝手に買ってきたシャンプーやトリートメント、シェービンブローションなどが雑多に並んでいる中から一番「記憶にあるものと同じくらいの太さ、長さのボトル」を手にとる。それをきれいにボディソープで洗い清めてから両手で握り、唇を寄せてみて――。

「何をやってるんだ、俺は」

 はっと我に返った栄は、情けなさにと恥ずかしさに、ぶくぶくと泡を吐きながら湯船に沈みこんでいった。

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