25.栄

 ――栄さん、今日はお忙しいですか?

 ピコンとスマートフォンにポップアップしたメッセージに栄は「まいったな」と頭を抱える。送信者はジェレミーだ。栄が今日もプールに行くかを知りたいのだろう。

 ここのところ数日と空けずにジムで会っていたし、泳ぎのフォームを見てやる約束をしていた手前、互いの予定を事前に確認することもあった。ジェレミーに他意はないと頭ではわかっている。だが、キスマークを指摘された上に、同性愛者であるというカミングアウトをされて栄はジェレミーに対する気まずさを感じている。さらには羽多野とあんなやりとりをした以上、彼とは距離を置くべきなのだ。

 とはいえ外面と人当たりの良さが骨身にまで染みついた栄は、他人の期待を裏切ることが苦手だ。どのように振る舞えば不自然に思われず、傷つけることもなしにジェレミーの誘いを断れるだろうか。スマートフォンを手に固まったように動けなくなる。

 そういえば、渡英してしばらくは、数少ない大使館の独身仲間ということもあって駐在自衛官の長尾と親しくしていたっけ。二人で飲みに行くこともあったが、羽多野が露骨に嫌な顔を見せるようになってからはそれも止めた。気のいい同僚の誘いを毎度毎度断るのは申し訳ないし、理由を考えるのも厄介だ。それでも栄なりに羽多野の嫌がることはしないよう努力をしているのだ。

 羽多野は栄のことをわがままだと言うが、自分ではそこまでとは思わない。だって彼のように恩着せがましい態度をとらないだけで、陰ではこんなにも健気で誠実な努力をしているのだから。

 そんなことを考えているうちに面倒になって、ジェレミーへの返事はとりあえず後回しすることにした。メッセージに気づかなかった、仕事が忙しくて返事できなかった――言い訳なら後からだってできる。なんせ今は、優先すべき大問題が目の前に横たわっているのだ。

 はあ、とため息をついて目の前の仕事に集中しようとするが、机の前に置いてあるカレンダーが気になってしかたない。

 週末にはセックスをすると約束をした。羽多野のことだからあれは、冗談でもはったりでもないだろう。

 彼は前回のセックスが中途半端に、気まずい状態で終わったことを気にしていないのだろうか。栄だったら、相手から言い出した口淫を途中で止められたらショックを受けるし、しばらくは引きずる。いや、羽多野だってあのときは文句も言ったし――射精に至ることなく萎えてしまった原因も栄のフェラチオ拒否だったに決まっている。

 中折れなんて男としては恥ずかしくて情けないに違いないのに、羽多野は怖くないのだろうか。羽多野は栄と違って基本的には図太く無神経なタイプだし、セックスには無駄に自信を持っているから二度失敗するとは想像もしていないのかもしれない。EDらしき症状に悩み、失敗をおそれて恋人に触れないまま一年も過ごした栄とは別種の生き物なのだ。

 いくらインターン女の存在に気が立っていたからといって、「何でもしてやる」なんて言うんじゃなかった。あのときの自分にも腹が立つし、よりによって栄が一番苦手な行為を要求した羽多野にも腹が立つが、いまさら時間が戻せるわけでもない。

 さらにたちが悪いことに、栄はとことん負けず嫌いだし、嫌なことを引きずる。たとえ羽多野があのことを蒸し返さず、二度と栄にフェラチオを求めないとしても、こちらはセックスのたびにあの屈辱を思い出すことになるだろう。

 だから――不本意ではあるが、次に羽多野と寝るときに前回のリベンジを果たすしかない。昨日、風呂の中で湯あたりしそうなほど思い悩んで、他に答えはないという結論に至ったのだ。

 だが、意思の力だけで高すぎるハードルを乗り越えることが可能だろうか。前回だって栄は悲壮なまでの決意を持って羽多野のベッドに入ったし、本当に「何でもやる」つもりではいたのだ。

「いや、でもあのときは、まさかあんなこと言われるとは思ってもみなかったし。今度はちゃんと心の準備をしておけば……」

 ぶつぶつと口の中でつぶやいて視線をずらすと、カレンダーの横に置いてあるペン立てが目に入る。そうだ。ちょうど茎のあたりはこのくらいの円周で、長さは――。

「谷口さん」

「は、はいっっ」

 よりによって職場のデスクで、執務時間中に邪なことを考えているときに背後から肩を叩かれて栄は飛び上がらんばかりに驚いた。

 振り向くと、経済部の同僚である久保村が目を丸くして凍り付いていた。思いがけない栄の反応に彼もまた仰天したのだろう。

「……どうしたの、そんなにびっくりして」

「すみません、ちょっと考えごとを」

 この上なく気まずい気持ちで栄は苦笑いする。考えごとというのは嘘ではないが、何を考えていたかは口が裂けたって言えない。

「あ、そう。いやさ、広報との打ち合わせに来てるお客さんから谷口さんはいるかってきかれたからさ」

「広報の客ですか? 誰だろう」

「さあ、ちらっと見たけど僕は知らない人だったな」

 大使館勤務も三年目に入ろうとする久保村は、主に担当している医療・保健分野以外にも経済部の関係先全般に顔が広い。その久保村が見覚えのない人物など、栄の仕事上の知り合いにいただろうか。栄は首をかしげながら椅子から立ち上がる。このまま座っていても仕事ができるような気分ではない。職場で邪な妄想に意識を乗っ取られているくらいなら来客と話をしていた方がまだましだと思った。

 ――が。

 こちらに気づくなり応接椅子から立ち上がるジェレミーを見つけた瞬間、栄は自らの判断を悔いたのだった。

 

「栄さん、こんにちは」

 つい昨日の晩、あんな重大なカミングアウトをしたというのに、ジェレミーはまったく屈託のない笑みを向けてくる。以前ならちょっとくらいは胸がざわめいたに違いないその笑顔が、今は重しとなって栄の心を押しつぶす。

「……あ、あれ。ジェレミー。どうしてここに……」

 ジェレミーと向かい合っているのは大使館の広報担当者と文化交流担当者。テーブルの上の資料からして、イベント関係の打ち合わせか何かであるようだ。

「この日本映画上映イベント、私の会社も協賛させていただくんです。担当しているのは上司なんですけど、今日は急な体調不良で休みで……だからその代理です」

 そこでピンときた。

「ということは、あれ」

 栄はさっきジェレミーから送信されたメッセージを、泳ぎに行く予定を聞かれたのだと思い込んでいたが、実は大使館を訪問する予告だったのか。

「そうなんです。でも直前に送っても見られないですよね。しかも仕事中でしたし。すみません」

「いや、こちらこそちょっとばたついてて……返事できなくてごめん」

 完全なる失敗だ。ジェレミーが大使館に来るとわかっていれば、何かしら理由をつけて外出するなど、会わない算段を立てることだってできたのに。最近の自分は良かれと思ってやったことすべてが裏目に出るようだ。これもまた、週末に向けて縁起が悪い気がする。

「谷口さん、こちらの会社の方ともやりとりがあったんですね。私たち打ち合わせは終わったんで、お話あるならこちらどうぞ」

 ジェレミーと仕事の話をしていた面々は、栄に気を遣ってか次々席を立つ。これでは逃げるわけにもいかないではない。だが、昨日の今日で――しかも職場という人目のある場所でジェレミーと何を話せば良い。

「……はは、いいよ。ジェレミーだって忙しいだろうし。な?」

 簡単な挨拶だけで終わらせようとする栄の最後の悪あがきは、しかしあっけなく崩れ去る。

「もしちょっとだけお時間いただけるなら、お話したいことが」

 ジェレミーはそう言って軽く目を伏せた。