なにやら面倒なことになってきた。栄はこの場から逃げ出したい衝動に襲われたが、もちろんそんなことは鍛え上げた外面が許さない。
「ああ、じゃあ……ここじゃなんだから、お茶でも飲みながら」
それでもギリギリの決断で、場所を移すことを申し出た。なんせジェレミーと最後に交わした会話は彼のセクシャリティについてのものだ。まさか職場でデリケートかつ個人的な話題を持ち出すとは思わないが、万が一ということもある。
「すいません、ちょっと打ち合わせで出てきます」
爽やかな笑顔で動揺を覆い隠し、栄はジェレミーを連れて打ち合わせスペースを出る。
「すみません、仕事の邪魔を……」
「いや、いいんだ。そういわけじゃない」
栄の様子が普段と違うことを敏感に察したのか、ジェレミーの表情が曇った。謝るくらいなら呼び出したりしなければいいのに。昨日までは微笑ましく感じていたジェレミーの腰の低さにすら苛立ちがこみ上げる。
自分勝手なのはわかっている。素朴で奥ゆかしい彼を一方的にアイドル視して、羽多野との喧嘩で鬱々とした気を晴らすために利用した。そのくせ重い話題を持ち出された瞬間に面倒でたまらなくなるだなんて。
大使館最寄りの大手カフェチェーンに入ったところ、混み合っていて席が見つからない。個人経営のカフェやパブなど座れそうな店の心当たりはこの近辺にいくつもあるが、顔見知りの店員がいる店でジェレミーと話をすることには抵抗を感じた。
「あの、席が空くのを待つのもなんですし、コーヒー買って外に行きませんか?」
店内を見回して困った顔をしている栄に、ジェレミーが切り出す。それは確かに名案だ。
「そうだね、そうしようか」
コーヒーのカップを手にしてグリーンパークへ向かう。日の当たるアスファルトの上だと汗がにじむ気候だが、公園しかも木陰のベンチに座るれば涼しく気持ちいい。湿度の高い日本と比べて英国の夏が過ごしやすいのはこういうところだ。
「なんだっけ、話って」
我ながら卑怯だと思うが、栄は腕時計に目をやりながら切り出した。急いでいる風を装って早く切り上げたいというのが本音だ。
「いえ、ただ……昨日のことをやっぱり一言謝ろうと思って」
蓋を外したカフェラテをマドラーでぐるぐるとかきまぜながら、ジェレミーは口を開く。
「謝るようなことなんか、あったっけ」
何もかもわかっているくせに、あの話題を蒸し返すのが面倒で栄はわざと気づかないふりをする。だがもちろんそんなことでごまかせはしない。
「いきなりゲイだってカミングアウトしたことです。勝手に親しみを感じてあんな話してしまいましたが、やっぱり栄さんを困らせるだけだったって、家に帰って反省しました」
もう勘弁して欲しい。
昨日の栄は精一杯の理性と優しさで「気にしていない」と言ったではないか。どうしてそれだけで満足せず身勝手な追い討ちをかけてくるのか。面と向かってこんなしょぼくれた態度を見せられたら、栄ほど外面を気にする男ではなくとも「迷惑だった、今後は距離を置きたい」などとは言えないだろう。
「嫌だな、気にしないっていっただろう。ロンドンにはそういう……LGBTだっけ? の人が多いのは知っているし、実際に仕事で知り合った英国人から同性愛者のパートナーを紹介されたこともある。そのとき俺は自然に受け入れたし、ジェレミーの話だって同じだ」
すらすらと心にもない言葉だけが口から流れ出る。知り合いのアナリストから突然同性パートナーを紹介されたときも、受け入れるどころか内心ではひどく苦々しく思っていた。
苛立ちと、それを凌駕する後ろめたさ。
思春期には自分が同性愛者であることを自覚した。性志向を隠すことは最初のうちこそ苦しかったが、そのうち普通のことになった。高慢で負けず嫌いな性格を隠すことには前から慣れていたのだ。秘密がひとつ加わったところで、負担はそこまで大きくはなかった。
自分で言うのもなんだが、栄は「いかにも」なタイプではない。自ら明かした、もしくは羽多野のように事故的に知られてしまったケースを除けば性志向を疑われた経験は皆無だ。お仲間らしき人間に声をかけられることもなかったから、栄は会話の中で意識的にこの手の嘘をつく必要を感じずに生きてきた。
自分は今、嘘をついている。ジェレミーは信用して秘密を明かしてくれたというのに、栄は迷惑がる気持ちをひた隠しに「理解あるストレートの男」の振りをしている。後ろめたさに加え、惨めさすら感じる。
尚人との関係は誰にも話せないままだった。羽多野のことだって、家族や友人に打ち明けるつもりなどさらさらない。
いままでも――これからも? 羽多野との関係が続くとして、日本に帰れば隠し続けるのはずっと難しくなる。尚人とのように「大学時代のルームシェアの続き」という言い訳が通用する年齢でも、関係でもないのだから。
苛立ちの対象はもしかしたら、ジェレミーではなく自分自身なのかもしれない。いつだってそうだ。仕事をうまく回せない自分に腹を立てているときは、一緒に暮らしている尚人に当たり散らした。羽多野に怒りをぶつけるときだって――さすがに尚人やジェレミーと違って、羽多野には栄を挑発しようという悪意があることも多いのだが――大抵は、感情を素直に表せない自分に憤っているだけ。
欠点だということは理解しているが、だからといって三十年間付き合ってきたこの性格を今になって変えることは難しい。
しばらく言い淀んで、栄はどうにか話の流れを変えようと試みる。
「逆に、そんな申し訳なさそうな態度をとられるほうが気まずくなるよ。だからジェレミー、俺たちはこれまでどおりに……」
「本当ですか? 本当に気持ち悪いって思いませんか?」
「ああ、本当に」
妙に真剣な顔で念押しされて、栄はうなずいた。
栄はホモフィビアではなく、ジェレミーがゲイであることにも嫌悪を感じていない。それを断言しさえすれば気まずい会話は終わるのだと思った。ジェレミーが安堵した顔を見せたら手の中にあるぬるくなりかけたコーヒーを飲み干して、そろそろ次の予定があると言って立ち上がればいい。
だが、ジェレミーは言葉の裏を探るように考えこんで、それから予想外のことを口にした。
「だったら、もしも私が試していたって言ったらどう思います?」
「は?」
「栄さんが、同性愛者を嫌悪するタイプかどうか試したんです」
ストレートな物言いにもかかわらず栄の脳は瞬時に意味を理解しない。だって、羽多野みたいに狡猾な人間ならともかく、ジェレミーのような田舎育ちの素直そうな男が人を試したり値踏みしたりするだなんて。
あまりに動揺して、結果として栄は、どう反応すればいいかわからないときにありがちな態度をとった。つまり、笑った。
「ごめんジェレミー、言っている意味がわからない」
悪い冗談を言った。あんまりに栄さんがうろたえているから、ついからかってしまった。そんな答えを期待するが、ジェレミーは真剣な表情を崩さない。それどころかまだ半分ほど中身の残った紙コップをベンチに置こうとして、勢い余ってそれを地面に落とす。
こぼれ出た液体をじんわりと地面に染み込むのを栄は茫然と眺めるが、ジェレミーは視線を動かさなかった。彼が見つめているのは間違いなく、栄。
その目には、これまで彼からは感じたことのない熱がこもっていた。
「栄さんは、男は駄目ですか?」